第十二話 作戦実行の日②
「雪本、俺、トイレとかに適当に潜んでるから」
東井が言った。
雪本が返事をするより先に石崎が「うん」とうなずくと、東井は変におどけもせず、ひょいと保健室を出ていった。東井が閉じる扉の隙間から、榊が保健委員会の活動報告をする声が一瞬して、すぐに消えた。
「それ、どうしたの」
回転椅子に腰かけながら訪ねる。
「泉美ちゃんの手伝いしようと思って、ほら、私、あんまり怪我の面倒見れないから。せめてお薬の効用だけでもって」
「まあ、暇つぶしでしょ」
「うん、暇つぶし」
石崎はたいして悪びれもせずに、勝手に広げた物品を救急箱に戻しはじめた。
「高野さんから聞いた」
「ああ……ケース?」
「うん。あと、嫌がらせで盗んだって。ごめんなさいって。できることがあったら何でもするし、ペナルティでも何でも受けるって、言ってたからさ。往復ビンタ三発喰らわしてやったんだ」
「お前さ」
「勿論、人目につかないタイミングで、二人っきりの時に、思いっきり」
救急箱を丁寧に閉めると、石崎はベッドから立ち上がって、頭を下げた。
「あの時、話も聞かず、場も考えずにひっぱたいて、ごめんなさい。私は気にしないけど、私が気にしないならいいとか言う問題じゃなかった。雪本君に、嫌な思いたくさんさせて、ごめんなさい」
「はい。そうですね」
「気にしてないよ、とか嘘でも言おうよ」
「往復だったからね、あともう一回謝って」
「往復でごめんなさい」
「別に往復であったことをめちゃくちゃ気にしてるわけじゃないんだけどな」
「あと、ロミオとジュリエット、感想言ってなくてごめんなさい。見に行ったよ。面白かったよ」
「え」
思わず立ち上がった雪本を軽く見上げて、少し気を飲まれたらしい石崎が、きまり悪そうに笑いながらうなずいた。
「……うん、見に行った。お話が面白いのは、そりゃそうだって感じなんだけど……普通に、お芝居うまかったと思うし。スポットライトあてられて、あんな長いことこう、甘ったるいセリフ言ってるのに、全然ダサくないっていうか、真剣に見入っちゃった」
「ありがとう」
やはり石崎は、ごく普通に、ロミオとジュリエットというクラス劇を、ロミオ役の雪本直哉を見に来てくれていた。最も周囲からの風当たりが厳しく、もっとも雪本が頑なだった時期でも、石崎は普通の目をずっと持ち続けていて、それを注いでくれたのだ。
「でも、もっと早く言ってくれりゃいいのに」
「ごめん、なんか、雪本くんの連絡先見つけられなくて」
「それブロックして消したからだろ」
「ああ。そういうことだったのか。あ、じゃあ、もっかい登録さして」
「いいよ」
雪本は、石崎に改めて連絡先を教えてやった。
「あ、何このアイコン、おしゃれ」
「ああ、それ、近所のカフェ。素敵でしょ」
「うん。こんなとこ行ってるんだ。何、女の子と?」
雪本は笑って首を横に振った。石崎の問い詰め方があまりに他意がなくて、余りにあっけらかんとしていて、楽しかった。
「雪本くんさ、これを聞いちゃダサいんだろうけど、いまくらいしか聞けないから、聞いていい?」
「うん。いいよ」
「私のこと、どのくらいの時期まで好きだった?」
「そんなの、わかんないよ」
雪本は苦笑いした。
「でも、ぶったたかれた時までは、大好きだったよ」
石崎も困り笑いした。
「ぶったたかれて、嫌いになった?」
「いや……ぶったたかれても、まだまだ好きだったな。連絡つかなくなって、あ、嫌われたな、って思って、そっから、自己防衛っていうか。じゃあ俺も好きじゃないって、ゆっくり自分を納得させてった感じかも」
「なし崩し的な?」
「なし崩し的な。石崎は?」
自分の問いをそのまま跳ね返されて、石崎は黙った。黙って真剣に考えて、結局、雪本と同じことを言った。
「私もなし崩しだな」
「叩いた時は?」
「嫌いだったら、叩かないよ」
その簡潔な答えに納得して、同時に、少しだけ口元のゆるみを抑えた。その論法だと、石崎はなんだかんだ、高野を買っているらしい。
「本当にムカついて、好きなのに何でって、そう思ったからひっぱたいた。そのあと何にも言ってくれないから、嫌われたのかなって思って、一回、全部シャットアウトしちゃいたかったんだ。でも、一回シャットアウトしちゃうと、今度、もう一回話に行くのも難しくなっちゃって。……雪本君のうわさだけ、色んな所から入ってくるの。部活サボってどーたらとか、ロミオ役だからって調子に乗ってとか、そういう、くだらないことばっかり入ってきて。だからどっちかっていうと、助けたいって思うようになった。何もできなかったけど」
「そんなことは、ないよ」
「そう?」
雪本は深くゆっくりとうなずいた。
「石崎、部活で、俺の事、何も言わずにいてくれただろ。たまに聞かれても、『いろんな誤解あるみたいだけど、全部違うよ』ってはっきり言ってくれてたんだろ」
「何で知ってるの?」
「泉美さんから聞いた」
石崎は少し膨れた。
「そういうのはバレない方がかっこいいのに」
「いや、俺は知れてよかったよ。ありがとう、すげー感謝してる。それのおかげで俺、多少マシになったもん」
「でも、やめちゃうんでしょ」
「それは俺の問題。いやまあ、やめちゃうんだけどね。でも、本当にありがとう。お前、いいやつだよ、普通に」
おう、と石崎は小さく握りこぶしをかかげた。
「ちなみにさ、雪本君、私のどの辺が好きだったの?」
「なんで」
「いやちょっと、今後の参考に」
「今後ね」
「雪本くんだってあるでしょ、今後」
石崎の言葉に、嘘をつこうか、どうしようか悩んで、結局意味ありげな沈黙を置いてしまった。石崎は目を輝かせた。
「あるの」
「ある」
「じゃあいいじゃん、お互いの今後を祝って。はい」
はい、と言って、石崎は掌を雪本に突き付けて促した。お釣りでももらうようなしぐさだった。
「そうだな、色々好きなところはあったけど……目かな」
「目?」
「うん。石崎、平気で人の目見てくるじゃん。石崎と目合わせてると、なんか……石崎の中から光ってるみたいに見えるの。反射とかじゃなくて。それ見てると、元気になる」
「私も」
石崎は笑った。白い歯を、真夏の午前の太陽に光らせて。
「私もね、雪本君の目が好きだったんだよ」
「目?」
一年もたって、初めて聞く話だった。
「私、入学式の次の日に、雪本君とお話してたんだよ」
「は?え、それは嘘だよ」
「ここ嘘ついても得ないでしょ?」
「俺の今後に影響を及ぼして馬鹿にするんだ……」
「なんで雪本君にそんな手間暇かけなきゃいけないのさ。会ったよ。朝。朝礼行こうとしてぶつかったじゃない。皆が階段下りてるときに、私だけ上がってて、それで」
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雪本はふっと、その時の感触を思い出した。女子らしき、細い骨格の肩が、ものすごい勢いで二の腕にぶつかった。思わず振り向くと、逆光で顔の見えない女子が、困り果てたように、『手帳、あの、手帳……』と、どこまで大きい声を出していいものか、諦めて朝礼にいったん向かったほうが良いのか、迷い迷い、右往左往、右を見て左を見て、所在なさそうにしていた。
雪本は女子の上靴のかかとから、十五センチほど後方のあたりに生徒手帳が落ちているのを見た。そこに、足元を見ていない他の生徒の上靴が乗っかりそうなのを見て、思わず声を上げ、驚いて動きを止めた生徒たちをかいくぐり、生徒手帳を拾ってやった。予鈴が鳴って、雪本ももたもたしていられなくなり、女子生徒に手帳を押し付けるだけ押し付けて、慌てて体育館に向かった。
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「最初、雪本君、ほんっとうに嫌そうな目してたんだよ」
石崎は愉快そうに笑っていた。
「怖かったもん、ちょっと。絡まれるかと思った。私も焦っちゃって、手帳~しか言えなくて。でも雪本君、すぐ目真ん丸にして、すっごいキョロキョロあたり見まわして、見つけた瞬間『そこ落ちてる!!』って。でも私、それがすっごい嬉しかったの。この人、ちゃんと心配してくれたんだって。後で部活であって、びっくりした。こんなイケメンだったっけーって。なんかいい子ぶってるし。普段は」
「あの時はだって、すごい焦ってて、咄嗟にわけわかんなくなっちゃってて」
「うん。……でも雪本くんね、いい子ぶってても、やっぱりちょっとずつ、目に出てるんだよね。でもそれでいいと思う。雪本君の目、素直で好き。素直じゃないところも素直に出しちゃうところがいい」
石崎はそういうと、雪本に、小学生がするようなしぐさで握手を求めた。
雪本は小学生がするようにやたら力をかけて答えた。石崎はそれに、両手で馬鹿力を振り絞って応戦した。
「だからさ、雪本くん」
力いっぱい握手するので、少し声が力んでいたが、それでも石崎の目は、相も変わらず楽しげだった。
「お互い、ここからは、目で勝負していこう」
「目ね、了解」
「いい目してんだからさ」
「うん。ありがとう。石崎もね」
「うんっ。……いい今後にしようっ」
石崎はそう言って、えいや、と、力任せに雪本の手を振りほどいた。雪本の手は痺れていた。
最初で最後の握手は、少し痣になった。