アムネジア
収穫祭は中止になり、半年が過ぎた。今年の冬はたいそう厳しいものになった。雪が積もり、寒く、凍える人々が続出したのだ。それに、冷夏であったため食料の備蓄が少なく、飢える家族も多かったようだ。栄養失調になった子どもを救うため、病の夫を治すため、あるいは食料不足で母乳の出ない妻のため。村人たちは雪深い中、何度も薬師を訪ねてきた。中には薬師の家に来るまでに遭難して、森で遺体が発見された者もある。
薬師は彼らのために、懸命に薬を調合した。けれど、食料不足による栄養失調が原因であるため、薬師でも彼らの病気を治すことは難しい。無力さを痛感したのか、薬師はどんどんふさぎがちになった。
収穫祭から半年が経ち、もうじき春だというのに気配が見えないのも、薬師の落胆に拍車を掛けた。以前から懇意にしていた老女の孫が病死したために、薬師はいよいよ消沈した様子になった。
老女の孫の葬儀に参加した翌日、薬師は意を決した表情でわたしに言った。
「アムネジア、頼みがある」
「何かしら?」
「どういうわけか、君はものごとを忘れる代わりに、魔法を使うことができるようだ。そこで、君の力を見込んで女神の代わりにこの世界の薄い膜を強化してほしい。とうとうできなかった豊穣の儀式の代わりだ」
「そんなすごい力がわたしにあるとは思えないわ。それに……この王国全体に作用するような大きな魔法なら、対価だって途方もないものになるはずよ」
薬師はまっすぐにわたしを見つめた。それからおもむろに懐から宝珠を取りだす。文字のような紋様の刻まれたそれをわたしに差し出した。
「対価は私自身だ。神子の後継者として選出されたほどの力の持ち主だから、何とか今回の魔法の対価になりえるだろう……。そう祈っている」
「嫌よ……! あなたを対価にするなんてできない!」
わたしは宝珠を受け取るまいと拳を握りしめた。そんなわたしを薬師はそっと抱きしめる。薬のツンとした独特の匂いがわたしの嗅覚に届いた。ベッドに染み着いたのと同じ、安堵する匂いが。
「そう言わずに頼むよ。私はこの世界から失われたはずの魔法が使える者として、この世界にとって有益な人間であろうとしてきた。けれど、今回、豊穣の儀式を行えるよう手助けすることはできなかった。村人たちも救えなかった……」
薬師の声には、深い悲しみと後悔の感情がにじんでいる。わたしは彼を慰めようと抱きしめ返した。
「あなたは十分、やってきたじゃない」
「そうは思えないよ。豊穣の儀式ができなければ、冬は続く。虹の薔薇がこの世界から消えてしまったから、おそらく永遠にこの世界は冬だ。人々が死に絶えるところは見たくない」
「……そこまであなたが言うのなら、あなたの願いを叶えたい。でも、わたしは今まで自分で対価を選べなかったわ」
「それは無意識に魔法を使ったからだよ。きちんと意識すれば対価は選べる。お願いだ、私を対価に魔法を使ってくれ、アムネジア」
苦しそうな薬師の声に、わたしは思わず頷いた。頷いた。悲しかったけれど、彼が楽になるのなら、それがいいのだろうと思うことにする。
わたしは金の義眼を受け取った。
明け方、わたしたちは二人で連れ立って、家を出た。薬師は黒い服を、わたしは最初に着ていた白いワンピースの上に彼から借りた毛皮を着ている。この国では死者は黒い服を、見送る家族は白い服を着るのが決まりなのだ。
まだ真っ暗な森の中、小さな広場に辿りつくと、わたしたちは向かい合った。もう春だというのに、地面には雪が積もり、空からもちらほら雪が降ってきている。
義眼を掌に載せて薬師の存在に意識を集中しようとする。
――対価は選べる。きちんと心に対価を思いえがけば……。
そこで、わたしはふと気付いた。わたしは自分で対価を選べるのだ。
――それならば。
じわりと身体の奥から温かなエネルギーがこみ上げてきた。せり上がって溢れ出したそのエネルギーが、義眼に吸い込まれていく。宝珠が輝きはじめた。頭の奥がじんわり熱くなり、火花が散るような感覚が生まれる。
同時に、わたしの顔の左半分がカッと熱くなった。眼窩がまるで溶鉱炉になったかのよう。左目に光が溢れて、視界が真っ白に染まった。たまらず天を仰げば、空に向って伸びる光の柱と輝く白い星が見える。それが私の左目の見た最後の光景になった。
わたしの目の前で、光の柱は夜空に四散した。一瞬だけ、空がまるで朝のように白く輝く。足下の雪は消え、空を舞う風花は白い花の花びらに変わる。
気が付けばわたしは地面に倒れたまま、右目から涙を流していた。顔の左半分は燃えるように熱い。わたしは自分がなぜ泣いているのか分からなかった。
「アムネジア!」
誰かが叫ぶ声がする。わたしは起き上がろうとしたけれど、身体に力が入らなかった。地面に横たわったままぼんやりしていると、若い男が駆け寄ってきてわたしを抱きおこす。
「アムネジア、君……」
「アムネジアとは誰のこと? わたしは違うわ。わたしは……わたしは誰かしら……? どうしてここにいるの……?」
わたしの疑問に答えずに、男はわたしを抱きしめて、声を上げて泣いた。
「――君は私のかわりに、自分の左目を犠牲にしたのか……。魔力の源である、その左目を。なんてことだ。私が対価になるつもりだったのに……!」
男の嘆きを聞いているうちに、なぜかわたしも悲しい気分になってきた。彼を慰めてあげられればいいのに。でも、どうして泣いているのか、わたしには分らないのだ。
「……何を言っているのか分からないわ。ねぇ、あなたは誰なの? もしかして、わたしの知り合いなの? どうして泣いているの? 話してみたら、悲しい気持ちも和らぐかもしれないわ」
わたしがそう言うと、男は顔を上げて泣き笑いの表情で答える。
「失礼。驚かせてしまったね。君の名はアムネジア。わたしは記憶を失う前の君の――友達だったんだよ」
そう言う彼の衣服や髪からは、ひどく懐かしい独特の苦みのある匂いがしていた。
了