魔法の対価
午後からわたしは薬師に連れられて、薬の素材となる草を摘みに森の奥へ入った。何でも薬の素材の中には、土壌や日照などの関係で特定の場所だけに生えるものもあるのだという。
今回の薬師の目的は、崖のふもとの辺りに生える青緑色の苔だった。崖の周囲は石や岩の多い土壌で、他の草はほとんど生えていない。
崖の近くまで来ると、薬師はわたしに言った。
「あの崖を登るのには慣れているんだ。アムネジアはここで待っていてくれ」
「二人で苔を採取した方が早いわ」
「そうもいかないよ。あの苔は稀少だから、繁殖のために残しておかなくてはいけない。残す株を見分けるのは、アムネジアでは難しいよ」
「でも、わたしは見ているだけなんて嫌」
「もちろん、アムネジアにも働いてもらうさ。いつもは苔を取ってポケットに入れて帰るんだ。だけど、それでは採取量が少なくなってしまう。私が採取した苔を投げ落とすから、下でそれを受け取ってほしい」
薬師に説得されて、わたしは草木の採取用の籠を持ったまま崖に向かう彼を見送った。わたしの目の前で、薬師は慎重に崖に近づいていく。
目的の苔は崖の岩肌の下部、三分の一を覆っている。薬師が言うには薬効が強いのは、崖の側面三メートルほどの位置に生えている苔なのだという。崖を構成する岩の成分が微妙に違うのか、下に行くほど薬効は薄いらしい。
崖はかなり急な傾斜だった。側面のわずかな凹凸に手足を掛けて、薬師は崖を登っていく。彼の言ったように、慣れや訓練なしに登ることは不可能だろう。わたしはヒヤヒヤしながら、薬師の後ろ姿を見守った。
薬師は崖を這う苔の帯の上端にまでたどり着くと、肩越しにわたしを振り返った。
「苔を落とすよ」
「ええ、いいわ」
わたしが頷くのを確認してから、薬師はぽんと一掴みの苔をわたしの方へ投げた。少し落下位置のズレたそれを、わたしは走っていって受け止める。それから、持っていた籠に素早く放り込んだ。
苔の採取は順調だった。投げ落とされた苔をわたしが受け止めるのを五回ほど繰り返してから、薬師は終わりを宣言した。
「そろそろ降りるとするよ」
「ええ、気を付けて。木登りだと下りの方が危ないというから」
「アムネジアは子どもの頃、木登りをして遊んでいたのかい? 田舎で育った?」
ごく自然に薬師が問いかけてくる。わたしはそれに答えようとしたが、言葉が出なかった。思い出そうとしても、子ども時代の記憶は見つからない。
本当にわたしに子ども時代はあったのだろうか? いや、それどころか、夜の森で目覚めるまでわたしは存在しておらず、あの瞬間にこの世界に誕生したのでは? そんな妄想が頭に浮かんで、わたしは薄気味悪さにゾクリと背筋が震えるのを感じた。
そのときだ。
「うわっ……」
薬師が小さく悲鳴を上げる。我に返って崖を見ると、薬師は右手だけで崖のわずかな出っぱりに掴まっていた。どうやら左手が滑ったらしい。
「危ない……!」
わたしは悲鳴を上げた。薬師を助けなければならない。だが、崖下に藁などの落ちたときクッションになりそうなものを運ぶには、時間がなかった。
「少しだけがんばって! すぐ崖上に行ってロープを垂らすから!」
「無理だ……! 崖上までのルートは、かなり遠回りする……。もう保たないよ……」
そう言うそばから、崖に掛けていた薬師の手が滑った。岩の欠片や土と共に薬師が崖の斜面を滑り落ちていく。その前方に尖った岩の出っぱりがあるのに気づいて、わたしは血の気が引くのを感じた。
このままでは、薬師はあの岩に叩きつけられてしまう……!
その光景を想像して、わたしは思わず固く目を瞑った。奇跡でも魔法でも何でもいい。何かが彼を助けてくれないだろうかと心から願う。
そのときだった。頭の奥でバチリと何かが火花を散らすような感覚。身体の奥から温かなエネルギーがせり上がってくる。あっという間にそのエネルギーが、左目を通じてある方向に向かって流れ出すのを感じた。
おずおずと目を開ければ、薬師の身体が宙に浮いているのが見える。まるで巨大な見えない手が彼を支えているかのようだ。呆然とするわたしの目の前で、薬師の身体はゆっくりと地面に降りてきた。
わたしは慌てて薬師に駆けよる。
「大丈夫!? 怪我はない?」
薬師は状況が理解できていないようで、呆然と地面に横たわっていた。崖から落ちまいともがいたせいか、彼の胸元から鎖に通した金の宝珠がのぞいている。宝珠の表面には、細い線で文字のようなものがびっしりと刻まれている。驚いたことにその文字のようなものは、わたしが見たときには淡く微かに緑色の光を発していた。
薬師が起きあがろうとすると、宝珠の光はすっと消える。わたしは薬師に質問したいのをこらえて、薬師が身体を起こすのを手伝う。
「今のは……」薬師が呟く。
「分からない。ただ、わたしが見ている前で、あなたは宙に浮いてゆっくり降りてきたの。見えない巨人があなたを支えたみたいに」
「魔法だ……。魔法が作用したんだ……」薬師はまるでわたしがその場にいないかのように、ぶつぶつと呟いている。
「魔法? 魔法はこの世界を去ったとあなたは言っていたわよね? どういうこと?」
わたしは薬師が正気を失っているのではないかと疑い、彼の肩を掴んで軽く揺さぶった。その振動で始めてわたしに気づいたかのように、薬師がわたしの方へ顔を向ける。
「――君だ、アムネジア……。さっき、君から大きな力が流れてくるのを感じた……。でも、どうしてなんだ……?」
「大きな力って何のこと? あなた、言っていることが変だけど、さっき頭を打ったの?」
わたしが尋ねると、薬師はじっとこちらを見つめた。翡翠色の右目と金でできた宝珠の義眼がわたしを捉える。そこで彼は我に返ったように頭を振った。「帰ろう」と呟いて立ち上がる。わたしは釈然としないままに、薬師と共に小屋へ戻った。
その後、わたしたちは、言葉少なに時を過ごした。助かったとはいえ崖を滑落した薬師の身体が心配で、わたしは普段なら共同で行う夕飯の支度を買って出る。
「心配しなくていいよ。見ての通り傷ひとつない」
薬師は明るく言ったが、わたしは譲らなかった。わたしが頑ななので薬師も諦めたらしく、すごすごと作業台に戻った。そうして、採取してきた薬草の整理を始める。
わたしは暖炉に鍋をかけて、刻んだ材料を鍋に放り込んでいく。さらに、パンを切りわけたところで、わたしはとっさにその欠片を持って小屋の隅へ行こうとした。が、よく考えてみればおかしな話だ。パンの欠片をどうするつもりだったのか分らない。分からないけれども、何だか妙に寂しい気持ちがこみ上げてくる。
いったいわたしはどうしたのだろう? 自分に戸惑いを覚えながらも、わたしは平静を装って料理をつづけた。
スープにわずかながら入れた干し肉は、一昨日、この小屋に薬を求めてきた猟師が薬の対価に置いていったものだ。他にも野菜や木の実などが薬の対価とされるため、薬師はまず飢えることはなさそうだった。
やがて、薬師は立ち上がってベッドの脇の戸棚へ近づいていった。道具か何かを出すつもりなのだろう。と、彼はその場で立ち止まって「あれ?」と声を上げた。
「――アムネジア、キジバトを知らないか? 朝、君が餌をやっただろう?」
「キジバト……? 何のこと?」
「私が保護したキジバトを、この檻の中に入れてあっただろう? 君も気に入って、餌をやっていたじゃないか」
「わたしが……?」
「君は自分に懐くようにと、食事の前にパンを分けてやっていただろう?」
そう言われて、思い出そうとしたけれど、籠の中の鳥を見ていても記憶は蘇らない。五日間、この小屋で薬師と過ごした記憶は確かに残っている。それなのに、キジバトのことだけはまったく記憶にない。
最初、わたしは薬師が冗談を言っているのだろうと思った。戸棚には、本当は鳥の檻は存在しないのかもしれない。そう思ってわたしは料理の手を止め、薬師の側へいった。彼が示す場所には、見覚えのない空っぽの檻があった。しかも、少し前まで鳥がそこに存在したかのように、飲み水を入れた器と抜け落ちた羽が残されている。それを見た瞬間に、わたしは急に悲しくなった。
薬師の言葉を信じるならば、わたしは今日までキジバトの世話をしてきたという。ということは、キジバトが消えると同時にわたしもキジバトを忘れてしまったのだろうか……? 悲しいという感覚は、わたしが無意識にそのキジバトが消えたことを嘆いているから?
今日、記憶の一部を失ったのだとして、原因は何だろう? 崖から滑落したのは薬師だ。わたしは頭を打ったり、怪我をしたりしていない。いったいどうして記憶を失ったというのだろう?
「キジバトのことが思い出せない。ああ、でも、なんだかすごく悲しいし、寂しいの……。これはキジバトが消えたとわたしのどこかが理解しているからなの?」
わたしの言葉を聞いて、薬師は蒼白になった。
「対価……! まさか、キジバトの存在そのものが、さっき私が助かったときの魔法の対価になったのか……?」
薬師は悲鳴のような声を上げて、棚の片隅に置かれている分厚い革張りの本を取り出した。その本をテーブルの上に置いて調べ物をはじめる。どうすることもできないまま、わたしは夕飯の支度に戻った。
そうして夕飯ができあがった。楽しい夕飯の席は、今日に限って静まりかえっていた。薬師は魔法について考えているようだったし、わたしは失った記憶のことを気にしていたからだ。そんな沈黙を打ち破るように、コンコンとドアがノックされた。
「こんな夜に誰が訪ねてきたのかな?」
重い雰囲気を打ち払うように言って、わたしは席を立ってドアを開けにいった。ドアを開けてみれば、そこにはボロボロのマントを身体に巻き付けて、呪い師が立っている。
「あなたは……」
「――薬師はここにいるだろう? 取り次いでくれ」呪い師は開口一番にそう言った。
その声を聞きつけて、薬師がやってくる。薬師の顔を見るとすぐに、呪い師は彼の肩を掴んだ。
「虹の薔薇を咲かせてほしいという子爵の願いを、拒んだそうじゃないか。収穫祭が無事に終わらなければ、季節は巡らない。そうしたら、この世界は大変なことになるんだぞ」
「そうだとしても、私にはどうしようもない」薬師はきっぱりと言った。「虹の薔薇を咲かせるには、これまでの日照条件と気温が大きく影響してくるんだ。人の力ではどうしようもないことだよ」
「――魔法を使えばいい」
呪い師の言葉に薬師は眉をひそめる表情になった。
「魔法はもはやこの世界から去ったんだ」
「それは素人向けの言い訳だな。俺たちはそうじゃないことを知っている。――かつて神殿に仕えていた神官の俺たちは」
「……魔法と言うが、使うには対価が必要だ。それも並の対価ではないものが」
薬師は渋々と言った口調でそう言った。途端、我が意を得たりとばかりに、呪い師が手に持っていた重そうな袋をテーブルに置いた。その拍子にドシンと粗末なテーブルが揺れる。
呪い師が袋の口を開くと、中に掌ほどの平たい金色の金属片が三枚、入っていた。金属片は金でできているようだった。何か丸い大きな形の板が割れてできたのだろう。のぞきこむと、ぼんやりと私の顔が映しだされるほど磨かれている。
「これは……?」わたしは思わず尋ねた。
「かつて神殿に設置されていた金の鏡の破片さ。神殿の鏡は幾度となく儀式に使われて魔法を浴び、少しずつ魔力が蓄積されている」呪い師はわたしにそう答えた。それから、薬師へと目を向ける。「薬師よ。お前の持つ金の魔法の宝珠なら、鏡の破片から魔力を取り出して虹の薔薇を咲かせることができるだろう?」
薬師はじっと金の鏡の破片を見つめてから、「考えさせてほしい」と呟いた。
「考えるのは構わないが、収穫祭まで時間がない。色よい返事を期待している」
呪い師はそう言って帰っていった。
彼が去った後、薬師は黙りがちになった。呪い師の来訪で中断された夕飯をそそくさと済ませる。薬師はかなり思い悩んでいるようだった。就寝のためにいつものように納屋へ向かおうとしているが、その表情は暗い。納屋はきっと寒いだろう。悩みを抱えたまま、寒い場所で孤独に過ごすのはつらいに決まっている。わたしは薬師をひとりで眠らせたくはないと思った。
「――ねぇ、あなたも納屋じゃなく、この小屋の中で眠ったら?」わたしは小屋を出ていこうとする薬師に言った。
「そういうわけにはいかない。君は妙齢の女性だからね」薬師が答える。
わたしは薬師に近づいて、そっと彼の腕を取った。
「……ここにいてほしいの。あなたのことが心配だし、それに……わたしもわたし自身のことも心配。あなたが言っていたキジバトの存在が、わたしには思い出せない。そのことが怖いの」
薬師はおろおろした表情になった。彼自身にも悩みがあるのに、こうしてわたしが不安を訴えれば真剣に受け止めてくれる。優しい人なのだ。だからこそ、薬師は本当なら魔法を使ってでも、虹の薔薇を咲かせてやりたいと思っているのだろう。
「まだ確証はないが、君の記憶喪失には原因があると私は思う。キジバトの記憶がなくなったのも、おそらく特定の条件がそろったからだ。日常生活をしている間にその条件がそろうとは考えにくいよ」
「そうだとしても、今、あなたと離れるのは不安だわ。わたしは記憶喪失で、知人や家族のことは分からない。あなたのことを忘れてしまったら、わたしは――」
薬師はわたしの肩に手を置いて、励ますようにさすった。「そんなことにはならないよ。……でも、君がそこまで不安なら、今夜はここにいるとするよ」そう言って微笑む。わたしは彼とぽつぽつ話をしていたが、そのうち眠りに引き込まれていく。薬師の存在や彼に染み着いた薬草の匂いを感じながら、わたしは夢も見ない穏やかな眠りを経験した。