魔法を失った世界
翌日からわたしは薬師の助手を始めた。昨日、着ていた白いワンピースは作業に適さないため、薬師から借りた衣服を着ている。彼が言うには村人が薬をもらう対価として、それぞれに何らかの品物を置いていくのだという。わたしが貸してもらった衣服も、薬の対価だったらしい。
彼を手伝って納屋に置かれている複数の草や木の実、枝など薬の素材を外へ出し、乾燥させる。とはいっても、これはなかなか骨の折れる作業だった。
多くの素材はお日さまの光に当てて干せばいいのだが、中には陰干しでなくてはならない素材もある。軒先に吊して風に当てる必要のある素材や、月の光を浴びせてはじめて効果があるというものもあった。薬師とわたしは時間や気象条件を見ながら、次々に干す素材を変えていくのである。
その作業の合間をぬって、薬師は素材をすり鉢で潰したり、液体につけ込んだりして薬を調合した。
「あなたは今、何の薬を作っているの?」わたしは好奇心に駆られて尋ねる。
「今、作っているのは熱を下げる薬だよ」彼は答えた。
「誰かに頼まれた薬なの?」
「そういう薬を作るときもあるが、これは違うよ」薬師は左目をおおう眼帯に触れて、位置を直した。「解熱剤はよく頼まれるからね。在庫が減ってきたから、そろそろ補充しておこうかと思って」
そのときだった。小屋の扉がノックされる。キジバトが緊張したように、小さく羽ばたいた。けれど、それも薬師が「大丈夫だよ」と宥めればすぐに大人しくなる。薬師がドアを開けると、質素な身なりの老女が入ってきた。
「薬師さま、こんにちは」老女はそこでわたしの存在に気づいたようだった。「まぁ、かわいらしい娘さんね。薬師さまのお身内?」
「ああ、彼女は助手ですよ。私も有名になったのか、最近は薬を必要とされる方が多くなってきたのでね。さて、あなたも薬をお求めですね? 何をお出ししましょうか?」
「昨夜から孫娘が高熱を出しているのです。村の呪い師さまが、あなたに熱を下げる薬をもらうようにと。いつもの通り、お礼の品をお持ちしています」
何というタイミングだろう。先ほど話題にしたばかりの解熱剤を求める村人が来たことに、わたしは目を丸くした。
「すぐにお出しします」
薬師はそう言って壁際の薬棚に向かった。そこに並ぶ瓶の中から、人差し指の先ほどの大きさの丸薬を取り出した。それを小袋に入れて、口をしっかりと縛る。薬師はその小袋を老女に渡した。
「帰ったら、この丸薬を匙で潰して水に溶いてから、お孫さんに飲ませてあげてください」
「分かりました。ありがとうございます。お礼にこれを」
老女は蔦で編んだ籠を二つ、差し出した。薬師はそれを受け取ってにっこりと微笑む。
「村の女性たちが作るこの籠は、草や木の実を採取するのにちょうどいいんですよ。助かります。――村に帰ったら、呪い師さまによろしくお伝えください」
老女はもう一度、礼を言って村へ帰っていった。
それから五日間が過ぎた。わたしは薬師の調合の手伝いや薬の素材となる草木の準備、それに療養中のキジバトの世話を行った。最初は薬師にしか懐かなかったキジバトは、五日の間にわたしが近づいても怯えなくなっている。このままなら、慣れてくれる日も近いだろう。
薬師と共に過ごしていると、日に少なくとも一人は薬を求めてくる客があった。客はすぐ近くの村の住人だけではない。薬師を訪問するのに一日かけて歩いて来たという町の住人や、馬を走らせてきたという貴族もあった。また薬を求める客とは別に、村の呪い師もやってきた。呪い師は老人だったが、若者のように溌剌としている。それに昔馴染みなのか、薬師と旧友のように会話をした。
客が薬師に求める薬はさまざまだった。関節痛のための痛み止めや妊婦に滋養をつける薬、農作物が元気に育つ薬など……。それでも薬師は戸惑うことなく、彼らの必要とする薬を処方していった。わたしは薬師に作れない薬はないのではないか、と思いはじめていたくらいだ。
それが誤解だったと知ったのは、わたしが薬師の手伝いを始めてから六日目の朝のこと。その日の早朝、わたしは小屋の扉が乱暴に叩かれる音で目を覚ました。東向きの窓からまだ太陽の光が差し込んでおらず、外は薄暗闇の帳におおわれている。
ノックの主は、いつものように薬師を訪ねてきた客なのだろう。わたしは客を迎えなければ、と考えたものの、動くことができなかった。というのも、薬師はわたしにベッドを明け渡して、納屋に積み上げた藁をベッドにしている。わたしとキジバトしかいないこの小屋に、見知らぬ相手を招き入れるのには、不安があった。
「薬師さま、どうかここを開けてください」
相手がふたたび乱暴に扉をノックする。ノックの音で目覚めたのか、キジバトが不安げに鳴いた。
――客を小屋に入れて本当に大丈夫だろうか……?
そう思ったとき、扉の外から薬師の声が聞こえてきた。
「おや、こんな朝早くにどうしたんですか?」
「薬師さま! よかった、どうか助けてください。今年の収穫祭に王宮へ献上するはずの虹の薔薇が花を咲かせないのです」
薬師はしばらく客と話し込んでいたが、最後にはっきりと「できません。薬ではどうにもなりません」と応じた。
「しかし、森の側の村で出会った呪い師が、あなたなら可能だろうと言っていました」
「それは彼の間違いです。虹の薔薇は寒さに弱い。低い気温にさらされて育てば花を咲かせず、根で子孫を増やすようになる性質がある。自然の摂理ですよ」
「そこをあなたの薬で何とかしていただきたいのです!」客は叫ぶように言った。
わたしは少しだけ扉を開けて外の様子をのぞいてみる。小屋の前では薬師と豪華な衣装の初老の紳士が話し込んでいた。
「薬師さまもご存じのとおり、我が家は虹の薔薇を献上する大役を負う家。虹の薔薇が献上できなければ、子爵の位を剥奪されてしまう。だが、それ以上に恐ろしいのは、神に捧げる虹の薔薇がなければ収穫祭は成功しないということだ」
「それでも、できません」と薬師は首を横に振った。「土が痩せて作物の育ちが悪いのは、養分になる薬を調合することで対処できます。しかし、どんどん冷えていくこの世界の気候だけは、人の力ではどうにもできません。――魔法でも使えれば話は別ですが」
薬師の言葉に紳士はガクリと肩を落とした。くるりと小屋に背を向けて、とぼとぼと元来た道を帰っていく。
気の毒そうな顔で薬師は彼を見送ってから、小屋へ入ってきた。
「おはよう、アムネジア。私たちの話し声で起こしてしまったなら、すまない」
「――さっきのお客さんには、何もしてあげられないの?」わたしは尋ねた。
「魔法でも使わないかぎりは無理だよ」薬師は左目の眼帯の位置を直しながら答える。
「それなら、あなた魔法は使えないの?」
思い切ってわたしはそう言ってみた。薬師は驚いたように動きを止める。不自然な沈黙の後に、彼はやっと口を開いた。
「使えるなら、キジバトも魔法で治しているよ。――ずっと昔、この世界には魔法が生きていた。けれど、それはもう去ってしまったんだ」
薬師の声には嘆くような響きがあった。