表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/5

記憶喪失

 わたしは暗闇の中で目を覚ました。冷たく固まった身体を起こす。その拍子に冷たくなった涙が頬を滑り落ちた。なぜわたしは泣いていたんだろう? 不思議に思ったけれど、起き抜けのぼんやりした頭では思い出すことができない。ただ、理由の分からない喪失感で、胸にぽっかり穴が空いているような感覚があった。

 顔を上げて辺りを見回してみる。辺りは暗く、何も見えない。風が吹くと闇の帳の向こうで木々が揺れて、さわさわと葉が擦れあう音がわたしを包みこむ。

 冷たい風からは、土と枯れた草の匂いがした。

 吹きつける風が寒くて、わたしは身震いをしてその場で小さく身体を丸めた。そういえば、わたしはごく簡素な白いワンピースを着ただけの軽装だ。とてもではないけれど、こんな寒い場所にいるべき格好ではない。おまけに、周囲にはわたしのものらしき手荷物も見当たらなかった。

 わたしは誰なんだろう? ぽつりと白紙にインクが落ちるように、疑問が浮かんでくる。わたしはなぜここにいるんだろう? どうやってここへ来た? どこへ向かうつもりだった? 次々に浮かぶ疑問で、心が漠然とした不安に染まっていく。

 夜の森にいた経緯も分からないなんて、あまりに異常なことだ。けれど、パニックに陥ったり怯えたりしている暇はなかった。どうにかして寒さをしのぐか、誰かに助けを求めるかしなければ、夜の森で凍死する運命は目に見えている。

 空を見上げると、影のような木々の向こうにいくつもの星が輝いていた。わたしは夜空に向かって白い息をひとつ吐いてから、当てずっぽうの方向へ歩きはじめる。と、そのときだった。

「どこへ行くのかな? そっちは枯れた谷があるだけだよ」

 男の声が聞こえてきた。声のした方を振り返れば、影のような木々の間にぽつんとランタンの灯火が見える。「誰?」と寒さに震える声で尋ねると、ランランの灯火はこちらへ近づいてきた。

 ランタンを提げているのは若い男だった。褐色の髪に目は美しい翡翠色をしている。男は質素な衣服を重ね着した上に、温かそうな厚手の外套を羽織っている。風上に立った彼の身体から、土とも枯れた草とも異なる独特の匂いが漂ってきた。匂いは苦かったけれど、決して不快な悪臭ではない。不思議と心の落ち着く懐かしい匂いだった。

「私はこの〈最果ての森〉に住む薬師だよ」彼はそう言ってから、外套を脱いでわたしに手渡した。「そんな格好では凍えてしまう。ひとまずそれを着て」

 あまりに寒かったので、わたしは素直に礼を言って外套を羽織り、しっかりと前を合わせた。

「こんな夜の森であなたは何をしているの?」

「この時期の夜にだけ咲く花を摘んで、薬にしようと思って。君こそ、こんなところでいったいどうしたの?」

 わたしは薬師の顔を見つめながら、自分の窮状を打ち明けてもいいかどうか考えてみる。薬師は若者ながら落ち着いた物腰で、その目は信頼できそうなくらい誠実に見えた。わたしは慎重に口を開く。

「それが……分からないの」

「分からない? 気を失ったまま、誰かに連れてこられたということかい? 君の黒と青の瞳は、昔、滅びた遠い国に住んでいたと言われる魔法使いの一族の特徴に似ているけれど」

 魔法使い? 考えてみたけれど、やはり思い出すことができなかった。

「……分からない」

「そうか。それなら、行くあてもないんだろう? うちへ来るといい。薬師の家だから薬草臭いと思うけれど、ここよりは温かいよ」薬師は微笑んだ。

「ありがとう……」

「さぁ、あっちだ」

 薬師はわたしの先に立って歩き出した。森の中をしばらく進むと、木々の間に埋もれるようにして質素な小屋が見えてくる。近づくと薬師に染み着いているのと同じ苦い匂いが、小屋の方から強く漂ってきた。どうやらこれは彼の調合する薬の匂いのようだ。

 小屋にわたしを招き入れて、薬師は部屋の片隅の暖炉に火を入れた。彼と二人、暖炉の側の椅子に腰を下ろす。

 暖炉の火で照らされて、わたしの座る場所からは家の中がよく見えた。部屋の真ん中には木製の作業台が置かれている。薬師の家というにふさわしく作業台の上には数種類の乾燥させた草や果実、石ころ、動物の骨などが所狭しと並んでいた。ベッドは暖炉と反対側の壁際に追いやられている。

「あなたはここに一人で住んでいるの?」わたしは尋ねた。

「ひとりじゃない」薬師は暖炉に小さな鍋をかけながら答える。「ベッドの横の籠に、森で保護したキジバトがいる。怪我をして療養中なのさ。今はそいつと二人暮らしだよ」

 わたしは振り返った。籠の中にいるというハトは眠っているようだ。

「他の人のいる場所……村や町はここから遠い?」

「そんなに遠くはないよ。ただ、村人たちは森を恐れている。用事がなければ、まずここまで訪ねてこないよ」

「用事って?」

「薬が必要になればここへやって来る。だから私は薬師と呼ばれているんだ」

 薬師は温まった鍋を取り上げた。作業台の上から乾燥した草をひと摘み器の中に入れてから、鍋の中身を注ぐ。乾いた砂漠のような風変わりな匂いが小屋の中に立ちこめた。どうやら薬湯を作ったらしい。

 器を手に取って、薬師は私に近づいてきた。

「飲んで。身体が温まるし、精神を落ち着ける効果もある」

 わたしは礼を言って、薬湯に口を付けた。苦い。けれど、苦味の後ろにオレンジのような柑橘系の味とシナモンに似たスパーシーな風味がわずかに見え隠れしている。苦さに顔が歪みそうになるのをこらえて薬湯を飲んでいると、冷えきった身体がじんわり温かくなってきた。

 何だかほっとして、私は薬師に薬湯が効いてきたと伝えた。

「だろう? 私は腕のいい薬師なんだ」

 彼は微笑んで、冗談めかした口調で言う。その笑顔に、一瞬、胸が妙にざわついた気がした。懐かしいような感覚。けれど、わたしの失われた記憶はともかく、薬師の態度からしてわたしたちは初対面なのだろう。

「さて、ひと息ついたところで、君が覚えていることを話してくれないかい? 元の場所に帰る方法を考えないといけない」

「それが……目覚めてから何も思い出せないの。なぜ森の中にいたのかも、自分が誰でどこから来たのかも。そういえば、あなたはどうして真夜中に森の中にいたの?」

「――それは、薬の材料を採取していたんだよ。この時期の夜でないと採取できない材料があるからね」

「薬師のお仕事は大変なのね」わたしがそう言うと、薬師は曖昧な笑みを浮かべて話題を変えた。「話を戻すけど、君の名前は思い出せる?」

 わたしの名前――。懸命に思い出そうとしたけれど、やはり何も出てこない。わたしは諦めて首を横に振った。

「それも駄目」

「君は記憶喪失ということか。それは困ったねぇ」

「思い出すまで、しばらくここに置いてもらえませんか? 記憶がない状態で村に行くのは不安なんです。ここに置いてもらえるなら、あなたの手伝いをしますから」

 そう頼んだのは、話していて薬師を信頼できる相手と感じたからだ。ほとんど勘頼みの判断だけれども。

「それは構わないよ。自分が何者なのかも分からない君を放り出すのは、私としても気が引けるからね。――さぁ、疲れているだろうから、そろそろお休み。今夜はそこのベッドを使うといい」

「それではあなたの眠る場所を奪うことになるわ。わたしは床で十分よ」

「いや、ベッドでお休み。えっと――」薬師はそこで首を傾げた。「君の名前が分からないのは不便だな。ひとまず『アムネジア』と呼ぶのはどうだろう?」

「アムネジア……?」

「古い言葉で記憶喪失という意味だよ。美しい響きだろう?」

「まるで花の名前みたいな響きね」

「私もそう思う」薬師は右目を細めて微笑んだ。「――おやすみ、アムネジア」

 わたしはおやすみなさいの挨拶をして、薬師の勧めどおりベッドへ入った。その直後、薬師が暖炉の火に灰をかけて消してしまう。わたしがベッドに入るのを見守っていたかのようだった。

 暗くなった室内で、わたしはシーツに包まって目を閉じた。そうしていると、シーツから薬の匂いが強く香ってくる。それはやはり懐かしく、思わず安堵するような匂いだった。

 薬湯の効果もあったのだろう。わたしは穏やかな気分になり、すぐに眠りに引き込まれていった。




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ