咳
今日も部屋でむせていると、父が薬箱を持って来た。
「うるさいからさ、何か飲んでよ。こっちも寝れないから。」
その薬箱に、この咳を止める薬が無いことを、僕は知っている。
「ありがとう。いらない。」
それを聞いて、父は薬箱を片し、部屋に戻った。
僕には全て分かる。言葉の裏に隠された優しさも、言葉の表に出てしまった、裏の裏の本心も。
僕もまた苦しくて眠れないのは事実であったし、皆がこの咳に苦しめられて眠れないことも、言われずとも分かっている。
僕は今、ここに居るべきでは無い。分かっていたはずの事に、ようやく目を向けてしまった。僕はすぐに支度を整え、こっそりと家を出た。
家族が寝静まるまでの僅かな家出。これもまた、僕の隠された優しさによって、矛先を誤った苛立ちを隠すものだった。
外の空気は少し涼しく、肺の先まで空気が通るのを感じる。
通りには誰もいない。深く息を吸い、咳込む。静かな住宅街に苦しみが響く。しかし、誰も薬を渡してこない。僕はそれが満足だった。
ポケットには財布も携帯も入っていたが、目的だけをどこかに忘れていた。
少しふらふらしてから、スーパーマーケットを目指して歩き始めた。駄菓子とかアイスの棚に、僕の目的も陳列してあるんじゃないか。そんなことを思いながら、コンビニの角を左に曲がった。
0時25分に街を歩く素面は、僕の他にはいないだろう。そこらにいるのは酔っ払いか、あるいは気の狂った通り魔か何かに違いない。
そんなことを思っていると、前から人影がやってきた。車のライトで影になって、顔はよく見えない。手には何かが握られている。影はふらふらとしながらこちらへ寄ってきた。
僕は納得した。曇天の真夜中は、この人生の終わりに相応しい。
僕は観念した。この世に悔いはなかった。強いて言えば、最期くらいはまともに呼吸してみたいと思った。また深く息を吸い込むと、勢い良くむせた。
影はおばちゃんの姿になって、こっちを怪訝そうに見ながら通り過ぎていった。手には包丁ではなく折り畳み傘が握られていた。
もし、あのおばちゃんが通り魔だったら、僕はきっと咳をしなかっただろう。
気が付くと目の前にはスーパーマーケットがあった。夜間営業で、いつも使う方の出入口が塞がれているのを見たのは、夜のバイトをしていたとき以来だろうか。 中に入ると空気が少し変わった。頭がそれに気が付く前に、肺に住みついたカナリアがゲホゲホと鳴いて異変を告げた。人の殆どいない店内を、咳込みながらふらつく。その度に僕の存在は店中に知らされる。
駄菓子もアイスも、食べる気にはなれなかった。何も飼っていないのにペットフードを眺めたり、意味も無く魚の鮮度を見分けようとしたりして、しばらくウロウロした後、飲み物のコーナーに立っていた。
通路の右手の棚には普通の飲み物が、左手側には酒類が置いてある。呑んで潰れて泥のように眠れたら結構なことだが、僕の咳は酒も許してくれない。右手の棚から一番安かった炭酸水を手に取った。
レジで会計を済ませる。こんな深夜に、こんな病人紛いの、58円の炭酸水1本のためにわざわざレジを開けてくれた。僕は申し訳無さと共に感動していたが、それが咳に掻き消されるのが嫌で、感謝を声に出すことは出来なかった。息苦しさを感じる。
0時53分、買ったばかりの炭酸水を飲みながら歩いていた。何の味もないが、炭素ガスが気道を拡げてくれているような気がする。心無しか呼吸は楽になっていた。
俯きながら、でもどこにも焦点を合わせず歩いていた。突然目の前の地面に影が立ち塞がった。避けようとすると、同じ方向に動いてきた。明らかに僕を見ている。今度こそ、と思い息を吸った。
後ろから来た車が僕を追い越す。その瞬間、影は跡形もなく消えた。前を見ても誰もいない。ただ咳だけが残った。
家に着くまでに、ボトルは空になった。
家族は皆寝ている。この家に置き忘れていた目的は回収されていた。
部屋のドアを開けると、淀んだ空気が漂っていた。ここにあるのは全て、僕の咳だ。持ち込んだ空気を咳にして、部屋の中に放出する。部屋の空気を吸うたびにまた咳き込む。
家族はもう起きてこない。僕はひとまず安心した。
布団に入って目を瞑る。一人で咳を出来る居場所はあるのか。そんな逃避的なだけの、無駄な問いを自分に投げつけながら、呼吸を抑え込んで自分を寝かしつけた。