ⅩⅩⅩⅧ
「3年前の水祭りの前……ベネツェンタ様が向かったのは、隣国のファスレイ帝国でした」
「ファスレイ!?」
さすがに驚いたのか、ルゼルトが大声をあげる。エルカディア王国の人、特に40代以上の人は、基本的に隣国のフォスレイ帝国を嫌っている。というのも、40年前、エルカディアを舞台とした隣国同士の戦争の引き金を引いたのはそのファスレイ帝国なのだ。その上、何もしていないエルカディアを舞台とすべく、この国へ進軍してきたのもファスレイ帝国だった。
「はい、ファスレイ帝国の西の森に、人を正常にする天才の魔女がいると……ベネツェンタ様はその噂をお聞きになったのです」
「……信じられない」
ファスレイはエルカディアの東に位置する上、エルカディアの王都は国の東北東にあるため、ファスレイの西の森はそう遠くはないが、そんなところまで出向いたのかと、父へ呆れの感情が湧いた。
「……そこで、ルドルフ様は……治ったように思われました」
「…………え?」
「思われた……結局治りはしなかった、と言うことかね」
「はい。……言葉を話し、立ち、歩く姿を、ベネツェンタ様とベル様は大変お喜びになりましたが……実際、魔女はルドルフ様を治すこと叶わず、誇りを貶されることを恐れ、ルドルフ様を傀儡のように操っていたのです。結局それは直ぐに暴かれ、ベネツェンタ様は酷く魔女を罵りました。魔女は、誰から自分の話を聞いたのか知らないが、自分が正常にするのは人の精神であり体は関係ないと反論……他国の人間であるということ、己がシエラヴェールの人間であることがあり、ベネツェンタ様は失意のまま国へ帰ろうとしましたが……エルカディアに入った後、突然御者が橋を渡っている最中にわざと道を逸れ、馬車は高い橋の上から転落しました」
「……御者はどうしてそんなことをなさったのですか?」
「恐らく、自分を罵られた魔女が、御者にそう言う精神作用をかけたものかと思われます。正常にすることが可能なら……異常をきたすことも可能なのでしょう」
少し話は飛びますが、と精霊は前置きをして話し始めた。
「我々精霊は、前に魔眼を手に入れた人に愛され、かつシエラヴェールの直流に当たる男性に魔眼を与えてきました。そして、あなた方は知らないかもしれませんが……大賢者以外に、必ず1人は魔眼を持っていなければならない、と言う決まりがあります。大賢者に何かあった時、直ぐに後継となれるように。あの日、ベネツェンタ様もルドルフ様も死んでしまわれた。本来ならば、ルゼルト様に魔眼を授けるべきでしたが……貴方がた兄弟は、あまりにも両親の愛情が傾きすぎていて、神はルゼルト様に魔眼を与えることを良しとしなかった。しかしベネツェンタ様は大人で、我々でも蘇生は叶わず、ルドルフ様に魔眼を与え、蘇生させたのです」
「……シエラヴェール家がなくなるかもしれないのに? それでも神と精霊は私を良しとしなかったと!?」
噛み付くように言うルゼルトに、精霊はゆるゆると首を振って口に出した。
「神にとっては、どの家がなくなりどう国が揺らいでも、知った事ではないのです」
「!」
神とは、そういう存在だ。決して人間の尺で、人間と同じ感情で測ることはできない。ルゼルトは項垂れた。神にとって重要なのは愛されたかどうかであり、シエラヴェールと国がどうなるかではないのだ。
「しかし、魔女のおかげか、何も考えられなかったはずのルドルフ様の思考は正常に作動するようになりました。人間には分からないのでしょうが、精霊はそれを感じとり……ルドルフ様は3年間ずっと、兄である貴方の事を心配し、謝罪し、何とか魔眼を使えるようにと、兄弟として愛していらっしゃいました。我々も、それを認めた。貴方もルドルフ様を哀れみ、謝罪した。そしてルドルフ様は、己が本来あるべき姿に戻ることを決意なさったのです。……これがどういう意味か、分かりますね?」
──魔眼持ちは、大賢者を含め2人以上いなければならない──。
左目を瞼の上から触れる。もうそこに、弟の目はなかった。ただ、目があるはずのそこに空洞が出来ているだけだ。右目を瞑り、魔力を回して目を開けば。
「……え、れな……私の右目は、どうなっていますか……?」
「……とても美しい、宝石の瞳になっています」
微笑むエレナに、泣きそうになった。あぁ、良かった。エレナを手放すことになったのは本当に悔しいが、これでシエラヴェールはもう大丈夫なのだと、ただただ安堵したルゼルトは、その安心のあまりにその場に座り込んだ。
「は、はは……はぁ……よかった……」
「賢者様、左目がなくなったままですので、取り戻します。宝石の目は左右揃って、より高度な召喚と使役を可能とします」
精霊がルゼルトの左目に触れる。3年ぶりに視界が広くなった。ちゃんと、魔眼と普通の目の切り替えもできる。
「それと、ルゼルト様にはこの精霊を」
ふっと、ルゼルトの傍に蒼銀の衣の精霊が現れた。優雅に一礼すると、ルゼルトの方に乗る。これで、精霊召喚と使役も、きっと可能になった。人為的にとはいえ、彼は天才なのだ。手に入れてしまえば、話は早い。
「……これで戦える」
「ルゼルト様?」
なんの話しだろう、と首を傾げるエレナに、ルゼルトは立ち上がって笑った。
「彗星の予言する凶兆と、です。カルブとサピュルス……そしてアルペンドという少年兵の動きを止めましょう!」
「……! はい!」
「エレナ様がクタヴェートに帰ってない……?」
サピュルスは、訝しげな顔で報告してきた騎士の顔を驚いて見つめた。騎士はポリポリとバツが悪そうに頭を掻き、首を傾げる。
「見間違いではなかったと思うんですけども……たしかに、エレナお嬢様を乗せた馬車がシエラヴェールに向かったんですよ」
「…………」
騎士が不安がっているのはエレナの不貞だろうが、サピュルスが不安なのはそれではない。兄は、エレナを人質にとってスレイドを脅すつもりでいる。まさか──その計画を聞かれた?兄は慎重派のはずなのに、あの時は部屋の外にも聞こえるような声で話していた。その声を偶然聞かれたのでは……と、心臓が冷えるような心地だ。
「どうしましょうサピュルス様……サピュルス様?」
「えっ……あ、ええと……わ、わかった。その件は手紙でも出してみるから、見回りに戻っていいぞ」
「はっ」
騎士は1度頭を下げると、見回りへ戻った。
……エレナに限って、ただの不貞だとは考えられない。やはり、騎士団に疑念を抱いていると考えるのが普通だ。手紙を出すとして、なんて聞く?……いや、いっその事……シエラヴェールに直接で向いてみるか?
青空に向かい聳え立つシエラヴェールの城を眺める。黄金の装飾が豪華な王城に負けず劣らず立派な白銀の城。…………出向かう勇気なんてあるはずもないが、最近の兄のおかしさを考えれば、エレナに聞かれたかもしれない、なんて言ったらどうなるのかが分からない。普段の、飄々として明るい兄ならまだしも、だ。
「…………」
今日の己は見回りだ。数時間どこへ行ってたか分からなくても問題はない。エレナがなにか変なことを吹き込まれていたら心配だし、ただ単純な不貞じゃないと言い切れる訳でもない。第一、聞かれていたかもしれないなんて兄に言えない。自分の手で何とかしなければと、サピュルスの足はシエラヴェールへ急いだ。
どうか手遅れであってくれるなと思いながら、早足になる彼は知らない。もうとっくに、計画をルゼルトたちが知っていることも──彼がちょうど、自らの目を取り戻し、魔眼を開眼したことも。