ⅩⅩⅩⅣ
「お久しゅうございます、旦那様!」
「お久しぶりです、エレナ。今日は黄色いドレスなのですね、とても良くお似合いです」
「ふふ、ありがとうございます」
「中庭に行きませんか? 最近兎に子供が出来たんですよ」
「本当ですか! 是非! 是非見せてくださいな!」
2人は、ぱたぱたと中庭へ駆けて行った。ちゃんとルゼルトはエレナの手を握っていた。
ルゼルトが7歳の頃、よくエレナがシエラヴェールに来るようになった。エレナの兄のスレイドが騎士団での仕事を見学することが増え、それについてくるようになったのだ。
ベネツェンタとベルは相変わらず顔を見せなかった。父のグランツと祖父のサハルはいつも挨拶をしたがっていたが、2人がそれに応じることはなかった。リーナスと元々婚約していた身としてクタヴェートの人間に会うのが気不味いという以上に、ルゼルトが気に入らなかったのだ。
自分とは非常に不仲だったクタヴェートの女と、あんなにも仲良く笑いあっている。気を使っているのではなく、心の底からエレナに会うことを楽しんでいる。ベネツェンタはルゼルトを見ると、いかに自分が器量の狭く、魔法の才能もない、小さい人間なのかと思い知らされるのが嫌で嫌で仕方なかった。魔法で調節された子供なのだ、魔法の才能に差が出るのは当たり前なのに、最早ルゼルトの存在そのものが気に入らなかった。もちろん、そんな息子の婚約者のことも気に入らなかった。
だが、まだ情があった。顔を合わせない理由は、合わない方がルゼルトのためだと思っていたのだ。本当はわかっている。間違いなく、あの子は自分と妻の間に生まれた子だ。不自然な子であっても、それだけは変わりようのない事実なのだ。だが、愛せない。それならば、中途半端に顔を合わせて、あの子に父母の愛を期待させるのは残酷だと、そう思ったがための判断だった。
しかし、ルゼルトが8歳になって、ついに父親としての情を完全に失う事件が起きた。パージー家での不祥事だった。アザンツを彼の両親の元へ残し、最悪孤児となる道を進ませるのか、それともこの家で拾うのか。誰もが前者を推そうとする中、ルゼルトだけは違った。
「両親が不祥事を起こしたからと言って、その子供がそうするとは限りません。どうしても信用ならないなら私が彼の主になります」
「ルゼルト? それは一体どう言う……」
「彼を私の従者にください。大人が相手ならいざ知らず、私のような子供が相手なら、反逆の意があれば殺せる。それをしなければ、彼は信頼出来ることになるでしょう。……私には彼が悪人には思えません」
そう言って強気そうに笑う我が子を見て、憎悪が湧き上がった。お前、お前、お前はまた、そうやって。一体どれだけ父の自尊心を傷つければ気が済むのだと、自分勝手な怒りが湧き上がった。
「ベル、私は決めたぞ」
「……何をです? あなた……」
「私はルゼルトを認めん」
「……? 何を今更……」
「私の後継者として認めないと言っているのだ! 後継者はルドルフにする!」
「えっ……そんな、無茶です。ルドルフは魔法どころか、1人で生きることも出来ないのに……」
「探す。この子を普通の子に治せる人を、私が大賢者になるまでに、絶対に探す! いくらでも金なら使ってやる。あんな不自然な子供を、大賢者になんてできるものか!」
ぐっと、血が出るのではないかと言うほど強く拳を握った。分かっている。ルゼルトがあれほど立派な解答をしたのは、彼の元々の質であって調整なんて関係ない。ただ自分の器が小さいだけなのはわかっている。それでも、何も出来ない次男を後継ぎにと考えるくらいには、ベネツェンタはルゼルトを受け入れることが出来なくなっていた。
「……わかりました、あなた」
ベルも、それに賛成した。
2人は、目に見えてルゼルトに冷たく当たり始めた。ヤーフェは何度も2人を咎めたが、そもそも調節をかけたそっちが悪いと言われると、何も言えなくなってしまった。
「あ……お、お久しぶりです、父上。ご健勝そうで何よりで──」
「誰が目を合わせていいと言った?」
「あ、えっ……と……。……も、申し訳ございません……」
どうして?
「お久しぶりです、おはようございます、母上」
「おはようございますルゼルト」
「あの、母上! 中庭にすずらんを植えたのです、母上が好きだと仰っていたと聞いて──」
「そんなこと言いましたか? 私は忙しいので失礼します」
どうして?
暗い、暗い闇の中を歩いているようだった。前も後ろもないけれど、蹲って泣くことも出来なかった。少しだけでもお茶をしたい。他愛もないような話をしたい。欲を言うなら、魔法の練習の成果を見て欲しい。頭を撫でて欲しい。抱きしめて、頬にキスして欲しい。もっと一緒に過ごしたい。
叶いそうにない夢だった。いつの日にか、全て諦めて捨ててしまった。もう、諦めよう。どうしたって2人は己を愛してくれないのだ、と。
諦めてしまえば、楽なもんだった。2人の態度について自分に謝る祖父に、笑いながら首を横に振ることが出来た。気にしないでくださいと、言うことが出来た。
それに、親だけが愛じゃない。自分にはエレナがいる。真っ暗な闇の中で、彼の世界を照らしてくれたのはエレナの存在だったのだ。いつも自分に無条件で微笑んでくれるエレナ。少し魔法を見せるだけで褒めてくれるエレナ。その存在が愛おしかった。年月を追うごとに、エレナがいない世界が考えられなくなるくらいだった。これは恋でも愛でもなく執着だとは自覚があったが、だからどうした、という話だった。
ルゼルトが13歳になる年、冬季の65日。父母が珍しく顔を見せたと思ったら、声をかける前に通り過ぎられた。アザンツは何か言いたげな顔をしていたが、事前にルゼルトから、父上と母上が俺を無視しても何も言うなと釘を刺されていた。
アザンツを迎え入れてから5年が経っていたが、この年間、2人は頻繁にルドルフを連れてどこかへ出かけるようになった。凡そ、ルドルフを何とかして大賢者の座につかせようとしているのは分かっていた。だが、もうすぐだ。おのれはきっと、もうすぐ宝石の目を開眼する。権威とか、そんなことはどうだっていい。だがシエラヴェールのため、国のため。大賢者になるのは、精霊召喚を可能にするのは自分だと、そう信じて疑わなかった。
ルゼルトの誕生日に、エレナが来た。エレナは、ルゼルトとのティータイムに、聞いてください、と無邪気な笑みを見せた。
「たくさん練習して、魔法の腕が上達したのです!」
「へぇ。どんなことをできるようになったんですか?」
「実践しますね。旦那様、手を」
言われたルゼルトは、とりあえず右手をエレナに差し出した。エレナが自分の手でルゼルトの手を包み込む。
じんわりと手が暖かくなり、エレナの魔力が体内を巡るのを感じた。魔力を回して何かあるのだろうかと思っていると、エレナは心配そうにルゼルトを見た。
「……何かあったのですか?」
「えっ?」
「今のは、疲れや痛みを感じ取る魔法です。……旦那様が痛いと感じているのは、ここでした」
エレナは、ルゼルトの胸に手を当てた。
「悲しいことがあったのですか?」
エレナには、両親に嫌われていると教えていない。そんなことを知れば、エレナは優しいゆえに怒るだろうから、言えなかった。
「あっ……いえ、その……」
本当は、泣きつきたかった。もう諦めているとは言っても、積もり積もった我慢があった。せめて貴女だけは離れないでと……言いたいのに、相手は年下の婚約者、彼女が自分を守るのではなく、自分が彼女を守らねばならないという自覚が、それを許しはしない。
「……な、中庭の……可愛がっていた栗鼠が……死んでしまって……」
震えそうなのを堪えてそう言うと、エレナは立ち上がり、彼の額にキスをした。これは知っている。精神を落ち着ける魔法だ。
「……少し落ち着きましたか?」
「……はい」
果報者だと思った。こんなに優しい子を妻として迎えることが出来る。あぁ、そうだ。この子がいればいい。この子と、幸せになりたい。絶対に手放さない。
そう、誓ったはずだったのに。