№3 幕末の京都にタイムスリップしてしまった!
高校二年の歴オタ主人公・田島錠は幕末にタイムスリップし、「未来から派遣されたターミネーターによる歴史改変の阻止」という途方もない任務を背負わされてしまう。
どんな素人でも剣の達人になれるオートマチック・オペレーション・ソードを手に、新撰組の剣客・沖田総司から気に入られて何かと手助けを受けるようになった錠は、仲間になったツンデレの女剣士・那奈、爆乳の岡っ引き・お涼、クールな密偵・マキと力を合わせ、幕末の京都に潜む凶悪な敵を探し出し、地球を救わなければならない!
俺は田島錠、十七歳。東京在住の都立高校二年生だ。
自分で言うのもなんだけど、これといって取り柄のない、ごくごく平凡な目立たない高校生だろう。学校の成績はオール平均点で、帰宅部。趣味は……幕末だ!ただ一つ自慢できるのは、大好きな幕末の知識なら日本史の教師にだって負けないくらいの自信があることくらいかな。
どうして幕末なのかって?
日本の歴史で一番多くのファンがいるのは戦国時代なんだけど、俺に言わせれば単なる覇権争いで、武力が強いか弱いかだけに終始する一本調子の時代に思える。でも幕末は、とても複雑だ。思想の戦いでもあり、武力の戦いでもある。
徳川幕府による鎖国政策で、日本が二百六十年にもわたる長い太平の世を謳歌している間に、ヨーロッパとアメリカの列強諸国は産業革命を成し遂げて強大な軍事力を備え、植民地政策を推し進めてきた。
アジアやアフリカや南アメリカなどの国や国民は、次々と列強の支配下に置かれていった。植民地化の波は、やがて日本にも到来する。国内の識者に危機感や恐怖が広がる中、現実に列強各国からの開国圧力が加わったことで「日本は今後どうすべきか」という議論と争いが全国で一斉に沸騰した時代が幕末にあたる。
国民全体を巻き込んだ日本史始まって以来の〝カオス〟と言っていい。
それに加えて、幕末の戦闘が、これまたドラスティックにしてエキサイティングなのだ。
戦国の世が終わり、江戸時代に入ってからただのお飾りに過ぎなくなった武士の刀が、戦いの道具として再認識されるようになり、平時における少人数でのバトルでは剣術がモノを言うようになった。一方で軍隊同士がぶつかる大規模な集団戦では、ヨーロッパから輸入された最新の銃砲による新しい戦術が不可欠となり、火縄銃と刀槍を主体にした戦国以来の兵法は実戦で全く通用しない時代遅れの代物になってしまった。
そんな訳で、当時の政治や文化について調べるうちにどんどん詳しくなり、剣や剣術、軍事の知識だってそこそこある。
あるにはあるけど、まさかそこへたった一人で放り込まれるなんて思いも寄らないし、渡された刀を使って世界を救えなんて言われても、途方に暮れるだけだ。
俺は高校二年の夏休みを利用して、一人旅で京都にやってきた。共働きの両親は、それぞれ抱えてる仕事でいつも頭が一杯だから、一人っ子の俺の行動にはあんまり口を挟まない。
今日……京都には高速バスで昼前に着き、市の中心部にある京都御苑内を見て回った。ここはかつて天皇が住み、公務を行った禁裏をはじめ、皇太后のための大宮御所、上皇のための仙洞御所、さらに約二百の公家屋敷などがあった場所だ。今では公家屋敷の全てが取り壊され、広大な国民公園に生まれ変わっている。
天皇を尊び、外敵を打ち払うとする「尊王攘夷」の思想が広がった幕末において、政治の主要舞台は江戸から京に移り、この思想を持って政治活動を行う武士、浪士、庶民は「志士」と呼ばれて表舞台だけでなく裏舞台でも暗躍した。
かつての禁裏も今では京都御所となって一般見学できるんだけど、この日は外国人観光客で定員が埋まっていたから、外の築地塀を見るだけで我慢するしかなかった。
明治維新が起こり、新政府が成立する四年前、この禁裏を巡って大きな武力衝突が起き、大火災の発生で市中の三分の二が焼け落ちてしまった。
その事変こそ、広川という男が言っていた「禁門の変」。戦国時代末期、織田信長が家臣の明智光秀に殺された本能寺の変以来、京都において約三百年ぶりに勃発した大規模な騒乱である。
つい数時間前までは観光気分全開で、京都御苑内に残る事変関連史跡を巡り、スマホのカメラで撮りまくってたっていうのに、今じゃ「禁門の変」って言葉が重く心にのし掛かってくる。
京都御苑を出た頃にはすでに日が傾き、俺は隣接する鴨川の河川敷に沿って南へ足を向けた。タクシーやバスを使わなかったのは、宿泊予約を入れてる四条河原町のビジネスホテルまで、川辺から夕暮れの街並みをゆっくり眺めながら行きたかったからだ。
加茂大橋から荒神橋にかけて、左岸の河川敷は横幅が数十メートルはあり、公園化されている。
川端の遊歩道を歩いていると、川とは反対の右側、樹木が生い茂る一帯で何かがキラリと光ったような気がした。俺は立ち止まって、そっちをしげしげと見つめた。
その方向、河川敷公園西側の端にはフェンスが延々と設けられ、向こう側には住宅や店舗や低層のオフィスビルが混在している。
フェンスの少し手前に、高さが二十メートル以上はあるケヤキがそびえていた。その根元。散歩やジョギングをする人たちもあまり近付かないような薄暗い場所に、着物姿の男がもたれて座りこんでいた。ぐったりしているように見える。
俺は急いで彼に駆け寄った。そこから、俺はこのとんでもない事件に巻き込まれてしまったんだ。
派手な格好の娘に大声を出された俺は、葦原に逃げ込んでから死に物狂いで走り、浅瀬を横切って対岸に渡った。土手を駆け上がって見渡すと、二階建ての木造家屋が軒を連ねる、今まで見たこともない京都の街の風景が広がっていた。途方に暮れ、当てもなく歩くうちに、俺は四条橋が見える場所までたどり着いていた。
幕末の京都なんて実際に見たこともない俺が、どうしてそこまで具体的な場所の特定ができたかと言えば、以前に読んだ歴史書の記述を覚えていたからだ。
都大路の中心部を東西に横断する四条通りが南北に流れる鴨川をまたぐ個所は、今でこそ立派な四条大橋が架けられているが、当時はもっと小さな規模の木造橋だった。
しかも、川の中央部には広い中州があり、芝居小屋、小規模な飲食店、屋台などが密集し、夜になれば多数の灯火で昼間のように照らされ、大勢の客で賑わっていたという。
四条橋は、この中州を挟んで二本が並行に架かっていた。一つは欄干の付いた歩道としての橋で、もう一つは欄干がなく荷車用のさらに細い橋だった。
日が沈み、西の空がほのかに明るい黄昏時。本で読んだのと全く同じ風景が、今俺の目の前に広がっている。
パニックになってた頭も、少しは落ち着きを取り戻しつつある。
財布や着替えの入ってるデイパックは、スマホを出した時に地面へ下ろして体から離してしまったから、この時代には送り込まれてきていない。もちろん、広川に弾き飛ばされたスマホも。だから、手許にあるのは渡された刀と巾着だけだ。
巾着の中には折り畳まれた通行手形に、当時の庶民の通貨である豆板銀と百文銭がそれぞれ片手でつかみきれないほど入っていた。
江戸時代の金一両は現代の貨幣価値で十万円くらいはしてたのが、幕末になると物価が高騰して、一両が二万円弱くらいになってたはず。それに関西では、金よりも主に銀が流通してる。
金一両は銀百匁ほど。
この豆板銀は鋳造されてる大半が十匁みたいだから、一個は二千円くらいか。円形で真ん中に四角い穴が開き、一文銭や四文銭よりも大きくて楕円形の百文銭も、一両を四千文として計算すると、一枚が五百円くらい。それでもこれだけあれば、しばらくはどうにか生活できるだろう。
右手にべっとり付いていた血は、不思議なことに跡形もなく消えている。広川の遺体と血のりが消え失せたのと同じように。
で、これから俺はどうすれば……。
クゥ〜〜〜。
腹の虫が鳴って、俺はようやく空腹に気付いた。昼飯も食わずに京都御苑を観光して今に至ってるんだから、当然だ。
まずは、腹ごしらえをしなきゃ!
そのためには、屋台か飯屋に入らなくちゃならない。
今着てる服は、水色のポロシャツに、紺のジーンズ。川を渡ってびしょ濡れになったけれど、夏だからもうほとんど乾いてる。いやいや、いくら乾いてたって、こんな格好だと街中ではかなり目立つ。それに、俺の髪型は、どっちかって言うとナチュラルなショートヘア。この時代の男子が全員結っているちょんまげじゃなく、罪人か最下層民しかしていない〝ざんぎり頭〟だし、典型的な不審人物に見られるだろう。
これじゃ人通りの多い場所には出て行けない……いや、ちょっと待てよ!四条河原近辺なら、大丈夫かも。
四条橋の東詰から、四条通を真っ直ぐ東の突き当たりにある八坂神社までの地域は祇園町……京の都最大の歓楽街だ。
現代では歌舞伎興行で有名な劇場・南座の前身にあたる芝居小屋・南芝居や、明治時代まで続いた北芝居といった大きな見世物小屋が建ち、辻々には大道芸の曲芸師や踊り子たちが立った。舞子や芸妓を呼んで飲み食いできるお茶屋は五百軒もあり、カフェにあたる水茶屋や、料理茶屋、うどん屋、茶漬け屋などの飲食専門店も軒を並べて賑わっていたと物の本に書いてあった。
しかも、今が旧暦の元治元年六月十日なら、江戸時代までは祇園御霊会と呼ばれていた祇園祭の真っ最中じゃないか!
京都守護職配下の治安維持組織・新撰組が、尊王攘夷派志士を襲撃した池田屋事件は、この年の六月五日。祇園御霊会開催直前の出来事だったんだから、間違いない。街は普段よりもずっと人でごった返してるだろう。
河川敷で刀を抜いた姿を通行人に見られているし、できればあまり目立ちたくはない。でも夜なら、見世物や大道芸の関係者に紛れて、こんな格好をしてたって案外目を引かないかも。
四条中州も人で混雑していて身を隠すには都合がいいけど、江戸時代だと橋の両端に番人がいて、渡るには通行料が必要だ。奉行所の役人とも常日頃通じていそうな橋の番人に、顔を見覚えられるのは避けたい。
巾着をジーンズのベルトに結び、刀を左手で持ち、人目を避けながら鴨川の土手を南下して祇園町に入ると、街の風景は一変した。住民だけでなく、祭りを見るために全国からやってきた旅装の老若男女で想像以上の人だかりだ。
北芝居と南芝居の周囲には屋台が立ち並び、餅、団子、飴、瓜、桃、枇杷、正体不明の焼き鳥やなんかが売られていて、人垣ができている。腹ペコだからすぐに食べたいけれど、用心するなら外より屋内の方が安全だろう。ここは、もうちょい我慢しなくちゃ。
四条通りは現代より幅が狭いものの、十数メートル以上はあり、この時代の京では歴としたメインストリートに違いない。
通りを少し東へ進むと、両側にはお茶屋と思われる木造二階建ての建物に混じって、屋内で飲食できる居見世も結構たくさん見えてきた。軒先の行灯にひらがなで「めし」「うどん」と墨書きしている店を覗くが、どこも満席だ。
ようやく「ちゃめし とうふでんがく」の行灯を出している店に空席を見つけた。「ちゃめし」はお茶を入れた炊き込みご飯、「とうふでんがく」は焼いた豆腐に味噌だれを付けた料理……のはず。幕末のことなら、一応食文化の知識だって頭に入れてる。
俺は、勇気を出して中に入った。