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 丘の頂上にあるアパートの三階である彼の部屋からは、これはまた美しい空を拝むことができる。雲が細くたなびいき、紫色に染まる。オレンジ色の空に紫色の雲、たまに寝ぼけて黄昏時と勘違いしてしまう。

 

 もし、朝だと思っていたら実は夕方でした。なんてことがあったら、きっと自分が時間を無駄にしたことに本気で怒り狂い、歯磨き粉のチューブをすべて飲み干してしまうだろう。


 蒼也がスマホの時間を確認すると、朝の六時だった。どうやら今日も彼は歯磨き粉のチューブを飲み干す必要はないみたいだ。SNSを確認すると、一件のメッセージを三十分前に受け取っていた。碧夏からだった。


『こちらこそ、昨日は楽しかったよ!ありがとうね!』とあった。


 碧夏のメッセージの上には『やあ!安岐だよ!今日はアイス奢ってくれてありがとう!』とある。これは昨日蒼也が一時間かけて悩んだ末に送ったメッセージだった。送信したのは、午前一時だった。


 蒼也はスマホを見たまま考え込んだ。


 さて、どう返信すれば良いか。この流れだと、せっかく始めたやり取りがもう終わってしまう。それに、あんな誤解をされてしまったのだ。きっと碧夏は俺のことを気味悪がって、避けるのに違いない。もう碧夏と話すことは二度とないのかもしれない。ああ、碧夏が俺の心を読めたらいいのに。と蒼也は考えながらスマホを見つめていた。


 もう一件別のメッセージを受け取っていた。

 千華からだった。


『今日の朝十時、一緒に陸上競技場に行かない?』とあった。


 千華は去年、蒼也と英語のクラスが同じだった女の子だ。彼女は正月のことが好きで、蒼也が正月と仲良くしているのを見て話しかけてきた。と蒼也は考えている。実際は自然と仲良くなったが今思い返すとそんな気もするのだ。周りからしっかりと固める、戦略家のような女子だ。


「正月関係か~」


 蒼也が陸上競技場に誘われるのは初めてだ。

 少し面倒な気もすると蒼也は思ったが、去年、彼女はよく英語の宿題を写させてくれた恩がある。それに加えて、午前中暇なので、『いいよ』と返信した。


 蒼也が通う大学はアパートから自転車で約三十分の所にある。距離自体は遠くないが、道中急な坂が多くさらに角度が急な上に長い。特に大学の通りは、激坂で有名だ。季節に関わらずあの坂を自転車で登るだけで汗だくになる。ロードレーサーと駅伝ランナーの練習場所としても有名だ。


 激坂を登り終え、大学の駐輪場に自転車を止めた。

 咲き誇っていた桜は少しずつ若葉で覆われ始めている。汗で貼りついたシャツを静かな風が吹き付ける。冷たくて気持ちが良い。


 スマホを見ると、『卵ドームで待ってるね』と千華から連絡がきていた。

 蒼也は卵ドームへと向かった。

 卵ドームは一階がバス停で、建物への入り口は二階になっている。


 どっちで待っているのだろうか。一瞬彼は迷ったが、千華は、卵ドームの外で待っていた。


 千華はスマホをいじっていて、接近に気が付かない。蒼也は「おはよ」と声をかけると、

 ようやく気が付き、「あ、おはよう!」と彼女は言った。


「正月と接近するのに成功したのに、まだ俺の力が必要なのか?」

 千華は、人差し指を立てると「チッチッチッ、残念、三分の一しか正解してませんよ!てか来るの遅い!」と元気に言うと、蒼也の肩を軽く叩いた。


「痛いな……この前暴力をすぐ振るう女子は嫌いだって正月が言ってたぞ。で、残りの三分の二は?」


「いいの、いいの、叩くのは蒼也だけって決めてるから。それに時間を守らなかった蒼也が悪いんだし。ところでさ、蒼也。君は彼女とかいる?」


「いや、いないけど」


 彼女はわざとらしく笑いながら「そうだよね~、サークルにも部活にも入っていない。アルバイト先でも孤立。女の子の知り合いって実は私だけとか?ああ、なんて可哀想な男の子なんだろう。だから、今日は君に私の友達を紹介しよう」 


「お前の友達の彼氏になれってか?」

「そんなわけないでしょ。紹介するだけ」

「友達ね……それが残りの……三百分の一か?」


 蒼也は苦い顔で言った。


「ちがう。目的の三分の二よ」


 千華は気兼ねなく話せる数少ない友達だ。少し暴力的な所があるが、常識の範囲内だ。明るい性格で、恋愛対象として意識する必要がないこが要因だ。知らない女子と話すのは緊張するし、そもそも好印象を持てるか、もしくは持たれるのかどうかもわからない。


「まあ、細かいことは気にしない。赤バスが来るよ」

 千華は蒼也の背中を押して、学内を巡回するバスの停留所に向かった。

「ヘイヘイ」


 つまり、俺を紹介するという口実を作り、さらに正月と近づきたいんだな。蒼也は千華の目論見を想像しながら、体育棟行きのバスに乗った。

 体育棟までの山の間を縫うような道はもはや東京ではなかく、どこか田舎の山中のようだった。


 バスを降りるとすぐ、青い陸上競技場が広がっていた。

 競技場は空が開けている。雲一つない晴天だ。優しい暖色系で爽やかな風が、彼の頬をゆっくりと撫でた。蒼也と千華から反対側のタータンを走っている人影が二つあった。今日は陸上部が休みらしいので、あの二人は自主練種をしているのだろう。


 最初はその二人の姿は豆粒のように小さかったが、少しずつ大きくなり、やがて走っているのは、正月と碧夏だと分かった。今日はちゃんと予約したのかな。


「千華が紹介したかったのって、碧夏のことか?」


 蒼也が尋ねると、千華は驚いた様子もなく、「なんだ、蒼也も知ってたんだ」と言った。


「二人も知り合いだったのか……」


 青いトラックを走っている二人も蒼也たちに気が付いたらしく、二百メートルのスタート地点辺りで手を振った。蒼也は恥ずかしそうに無言で小さく片手を肩まで上げたのに対して、千華は「やっほう!」と言いながら両手を手旗信号のように大きく振った。


「やあ、二人とも」と最初に挨拶したのは正月だった。海のように青い空に、空のようになめらかなブルーのトラック、彼の額に流れる汗、まさしく爽やかなイケメンだ。


「おはよう、正月くん!と碧夏」


 千華は口元が緩んでいる。


「や、やあ碧夏」と蒼也が言うと、碧夏は微笑みながら「や、あおくん」と返した。

 

 蒼也は笑顔を作ってはいたが、とても気まずくて内心では笑顔にはなれなかった。


『あおくん』という単語は人前で禁句にしてもらいたい。

『あおくん、ってどういう意味?』なんて聞かれて碧夏が答えたら一生の黒歴史になってしまう。いや、あの日、碧夏に見られた時点で、もうすでに黒歴史だ。


 碧夏と正月は整理体操を始めた。

 正月は隆々とした足を伸ばしながら、物珍しそうな顔をした。


「蒼也、どうして君が陸上競技場に来てるんだい?陸上部入る気になったの?」

「そんなわけないだろ」 

「友達ができるよ」

「悪かったな」

「で、」と正月は続けて言った。「蒼也って、碧夏と知り合いだったんだな。『あおくん』ってなに?」


 ほら、碧夏が『あおくん』って言ったせいで、聞かれてしまったじゃないか。蒼也はスプーンよりも鋭い目つきで碧夏を凝視した。


「最近知り合ったんだ。『蒼也』の『蒼』が『青』っていうのと、私と会った時、真っ青な顔してるように見えたから、『あおくん』だよ!」


 碧夏は意地悪をするかのように、蒼也に目配せをした。バツが悪かったが、ネタにされるだけ、幾分マシなのかなと、彼は思った。


 碧夏はこのまま、『ちなみに私と会った時、あおくんはコンドームを眺めてたんだよ』と言ってしまうのだろうか。いや、眺めてなかったけど。彼女がそんなこと言うと思わないけど。と蒼白する蒼也。


「正月君、一緒にご飯食べよ!」


 次に口火を切ったのは明るい性格の千華だった。

 碧夏は相変わらず、微笑んだまま整理体操をしている。


「そうだね、僕たちも毎日二人で飯を食うのに飽きていたし、四人で食べよう」


 蒼也は突然の碧夏と接近することができ、ビックリすると同時に皆で食べようと言い出した正月に感謝した。


 碧夏と正月がダウンを終え、着替え済ませた時にはもうお昼の時間になっていた。

 体育棟から食堂のある学部棟までは距離があるので、キャンパス内を巡回している赤バスに乗る必要がある。待っている間、あたかも自然に千華と正月、蒼也と碧夏という形になったが、それはとてもとても千華による人工的なものだった。


 バスの座席も、完全に分かれた。千華と正月が並んで座り、その後ろの席に碧夏が一人座り、その横に蒼也が立っている構図だ。途中、正月は何度も蒼也や碧夏に話しかけようと、後ろを振り向くが、そのたびに千華が阻止した。なんと図々しい女なんだと蒼也は思ったが、それを口にするとまた殴られてしまうので、言わないことにした。


 結局、俺は千華に碧夏と正月の間に立つ障害物の役割を押し付けられたんだな。と考える蒼也。彼はスマホに視線を落としている碧夏に声をかけようとした。


 しかし、なかなか声が出ない。


 彼女に話しかけたところで、良い会話ができるとは思わない。建前も無ければ、話のネタもない。日本にはスモールトークの文化は無いに等しいので、「その服カッコイイね」なんて話しかけるのも不自然だ。


 蒼也は、スマホを見る碧夏を凝視しながら、『碧夏』と言った。つもりだったが、やはり、声がでず、口パクになってしまった。


 ダメだ。と思った時、「何?あおくん?」と碧夏が反応した。

「えッ……」


 驚いた様子の蒼也を目の当たりにした碧夏は「今、私の名前呼んだよね?」と怪訝な表情になった。

 蒼也はすぐに思考を回転させ、「ああ、さっきからスマホで何見ているのかなって気になって……」と、咄嗟に思いついたことを話した。


「英語の記事だよ!あおくん、さっきから私のスマホ見てたよね?覗き見は良くないよ!」

「俺はいつ覗き見した?」

「さあね、あおくんが自覚してる回数の三倍は無意識に覗き見してるんじゃない?」

 微笑む碧夏。

「そういえば、あおくんって、スポーツ法学の授業とってるよね?」

「月曜の一限の?」

「そうそう!」

「履修してるけど……」

「いつも一人で受けてるよね?」

「まあ、一人で受けてるけど……」蒼也は恥ずかしそうに言った。

「よかった!私も一人なんだよ!来週から一緒に受けない?」

 予期せぬ誘いだった。なんだ、この夢のような話は。蒼也は一瞬まごついたが、すぐに「それはいいね!」と返事をした。その声が少し大きすぎたのか、正月と千華が「どうしたんだ?」と蒼也の方を振り向いた。


 蒼也はきまりが悪くなり、「ごめん」と顔を赤くして囁いた。

 まさか、碧夏がこんな誘いをしてくるなんて。棚から牡丹餅とはまさにこのことを言うのか。と蒼也は思った。


 碧夏は笑みを浮かべながら「やっぱり、大学の授業って仲間が必要だよね」と言った。

「そうだよな。情報交換は大切だよ」

「あおくんは、もう課題やった?」

「課題?スポーツ法学に課題なんて出てたっけ?」蒼也は思いがけない事実に再びビックリした。

「出てるよ!競技団体の強化政策調べるやつ!あれ提出しないと、テスト受けられないらしいよ」

「そ、そんなのあったっけ……俺寝てて聞きそびれたかも……」

「大変じゃん!すぐやらないと!私のお勧めはサッカーの競技団体かな。ちゃんとまとめられていてわかりやすかった」


 まるで自分のことのように心配してくれる碧夏。本当に碧夏がいてくれてよかったと、蒼也は「俺もサッカーの団体を調べるよ。ありがとう」と心の底から感謝した。

「どういたしまして!」


 碧夏はニコニコしながら返事した。


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