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 佐倉碧夏は大自然を切り開いて作られた陸上競技場で走っていた。

 沈み始めた太陽は橙色に染まり、陸上部の練習の終わりを知らせている。

 碧夏は自分の練習メニューを終え、ダウンを済ますと、部員の荷物が置かれているベンチへと向かった。集められている水筒の中から、一つ選ぶと、それを走り終えた先輩の所へと運んだ。


「お疲れ様です!」

「おお流石碧夏ちゃん。気が利くね。ありがとう」


 先輩はこれまでとないくらい良いタイミングで飲み物を持って現れた碧夏に礼を言うと、それを口に流し込んだ。


 次に碧夏は、後輩の元へと向かうと、片付けを手伝った。


「先輩、いつも良いタイミングで駆けつけてくれますね。助かります!」

 

 碧夏はいずれも、「いえいえ!」と笑顔で対応した。


 部活が解散し、家に帰る準備を整えていると、「碧夏、一緒にかえろ!」とジャージ姿に黒いリュックを背負った坂下千華坂下千華(さかしたちか)が、手を振りながら体育棟から出てきた。


「今日はもう走らないでしょ?」

「うん、今日はそのまま帰るよ。疲れちゃったし」


 碧夏は嘘を言った。彼女は家に帰り、食事を終えたらまたいつもの公園で走る予定だった。   

走らなければならない、理由があった。


『なんとしてでも、良いタイムを出さなければならない。』


 陸上競技の結果は、数字で表されるので、メジャーラブルなのだ。自分の成長がとてもわかりやすい半面、停滞していることも一目瞭然となってしまう。それが、時に選手をある高原へと誘う。


 人は必ずしも、一定に成長し続けるとは限らない。成長というものは、右肩上がりの波のようなのだ。競技を始めてから暫く成長するので、大抵は気が付かない。アマチュアがプロに近づくと足を踏み入れることができる停滞期、それはプラトーと呼ばれている。


 プラトーは広い高原という意味を持っている。それを抜けるには個人差はあるが、時間も、運も必要とする。


 碧夏は、自分自身が広い高原に迷い込んでいることをハッキリと自覚していた。そして、彼女はそのプラトーを意地でも抜け出すために、日々奮闘していたのだ。とても長く、厳しく、、苦しい戦いだ。しかし、碧夏はそれを他人に見せることは無かった。


「あ、見て!」


 普段明るい千華がより一層光った。


 碧夏と千華は中学校からの仲だった。碧夏が唯一、気を緩めることができる友達だ。千華は明るく、そして暖かく照らしてくれる恒星のような存在だった。そして、碧夏自身は惑星だ。惑星は恒星から大きな影響を常に受けている。良い面もあれば、悪い面もある。それは沢山ありすぎてかつ複雑すぎて、分類することはできない。しかし、彼女の明るさは様々な恩恵を与えていることは断言できた。


 そんな、千華のボルテージを急激に上昇させることができるのは、正月だった。

 正月は碧夏たちに気が付くと、ニッコリと笑って爽やかに手を振った。碧夏と千華も笑顔で手を振り返した。


「正月君ってやっぱりカッコいいよね」

「相変わらずだね」


 今いる体育棟から、駅行きのバス停がある、『卵ドーム棟』まで、歩くとかなりかかってしまうので、二人はキャンパス内を巡回する『赤バス』が来るのを待つことにした。


「正月で思い出したんだけど、正月の友達で蒼也君って知ってる?」

「知ってるよ……去年、蒼也と英語クラスが同じで知り合ったんだ。因みに、蒼也は私が正月君とくっ

つけるように協力してくれてるの」


「えっ」意外と千華は策士だった。


 赤バスは体育棟から、経済学部棟、図書館棟、卵ドーム棟、スポーツ健康学部棟の順番で止まる。端から端まで、バスでおおよそ十分程度だ。


 碧夏は体育棟から経済学部棟の山中を縫う長い坂の一端を見つめていた。

 バスはまだ見えない。


「千華って去年英語いくつだっけ?」


 二人が通う学部は必ず英語の授業を履修しなければならない。でないと卒業できないのだ。英語のクラスは全部で九つある。クラスは各年度初めてに受けるテストによって分けられ、点数が高い学生が九になる。つまり、クラスの番号が高ければ英語のレベルも高くなるということだ。特に、九クラスはレベルが高く、帰国子女も混じっている。


 碧夏、正月は二年連続九クラスを履修している。つまり、最高レベルだ。

 彼女は誰にも言わないが、それを誇りと思っており、一種のアイデンティティとしていた。


「四だよ。でも今年は正月君と同じ九クラ!」

「知ってる。千華はすごいよね。正月のためだけに九クラ入っちゃうんなんて」

「し、失礼だよ。私は自分の将来のために一生懸命勉強して、九クラスに入ったんだから。正月君ってほんとハイスペックだよね。陸上ではなんかの決勝出ちゃうし、勉強では英語が九クラスだし、イケメンで皆に優しい」

「そうだね。千華は正月とくっつくために勉強したんだもんね」

「違うし!」


 二人はケラケラと笑った。

 赤バスが来るのが見えた。坂を下るバスは闇に溶け込んでおり、暗然たるバスのボディが体育棟の明かりを吸収した。

「バスが来たね」


 森閑した春の夜。鈴虫もいなければ、セミもいない。暑くもなければ、寒くもない。全てがゴルディロックスのライン上に位置する。全てが最高だが、この瞬間は長くはもたない。


 沿道のピンク色はやがて散り、緑が芽吹くように、その期間は春の夜の夢のようにはかなく短い。

 停車したバスに二人は乗り込んだ。碧夏と千華以外に利用している人はいなかった。


 バスの運転手に二人は「お願いします」と挨拶をした。大学内のルールになっているわけではないが、赤バスを利用する学生の八割は挨拶しているので、自然と二人も挨拶をするようになったのだ。運転手はやわらかく微笑み二人に、「お疲れ様」と言った。


 碧夏は後方の席に座って窓を眺めようとした。すると、千華が碧夏の隣に座ろうと、腰で碧夏を押した。


「他に人がいないんだから、ぎゅうぎゅうにまでなって私の横に座らなくてもいいじゃん」

「いいのいいの。ほら、もっとくっつこうよ、カワイ子ちゃん」


 ぼやく碧夏に千華は笑いながら言った。

 碧夏もそれにつられて笑った。


「しょうがないね……そういえば、蒼也君も陸上やってたんだって?」


 千華は昔のことを思い出そうとすかのように、目線を右上にやると、「やってたらしいね。もうやめちゃったらしいけど」


「速かったのかな?」

「速かったらやめないでしょ?」

「そうだよね……悔しかったのかな」

「なにが?」

「英語も陸上も」と碧夏が言うと、千華は「確かに、蒼也は碧夏より陸上の成績も英語の成績も碧夏より悪かったかもしれない。もし、碧夏が蒼也だったらすごく悔しかったかもしれないけど……どうだろうね。あいつ呑気だから」

「それにちょっとドジなところあるよね」

「あるある」と千華は大きく頷いた。「あいつ、カッコつけるとドジるんだよね。多分」

「何それ」 


 碧夏は一瞬、嬉しそうな表情を浮かべたが、何かを悟ったようにすぐに窓の外のように薄暗くなった。


「すぐ他人と比べるのは、私の悪いところだね」


 すると千華は笑った。「確かに碧夏は、他人と比べたがるよね。でも、それが良いところでもあるじゃん。純粋で可愛い」

「どうも、おほめに預かり光栄です」 


 あれこれしているうちに赤バスは卵ドーム棟の前に到着した。

 卵ドーム棟は文字通り、屋根が卵のような形をしている。空は暗闇に包まれていたが、卵ドーム周辺の木々にはイルミネーションが施されており、燦然と輝いていた。卵ドームの一階は吹き抜けており、バスターミナルとなっている。まさしく、大学の玄関だ。


 東京方面のバスと、神奈川方面のバスが発着している。碧夏と千華はともに東京方面のバスだった。そして、学生のほとんどは京王線の駅もしくは中央線の駅にあるバス停で降りる。


 二人は、中学からの幼馴染で、高尾山の麓にある下町のような山の手で暮らしていた。しかし、近所ではない。碧夏の家は山の手のランドマークタワー近くにあり、、そこはそれなりに栄えている立地である。千華の家はそれより西の落ち着いた所にある。


 二人はバスを乗り換えた。


 そのバスは学生以外も利用するので、二人は各々、静かにスマートフォンと睨めっこをして時間をやり過ごした。

 先に千華がバスを降りた。千華は降りる際、「バイフォーナウ」と囁いてから碧夏に手を振った。『また明日』碧夏も小さな声で手を振り返した。

『発車します』という冷たく機械的なアナウンスの後、バスは発車した。もたれかかっている座席に強く押し付けられた。


 気が付くと、あっという間に碧夏が降りる番だった。

 バスを降りると、冷たい風が碧夏の背中を舐めるように吹いた。碧夏が降りたバス停は帰宅途中の歩行者で賑わっていた。それなりに規模が大きい商業施設が駅を囲うようにあり、バス停の上にはペデストリアンデッキがかけられている。大きいスクリーンが駅の正面に取り付けられているが、きっと誰もそれを気にかけてはいないだろう。


 碧夏にとって、それらは幼い頃からよく見る光景だったので、見慣れた退屈な景色に感じた。

 家はそんな繁華街の裏路地にあった。駅から歩いて五分位。古本屋を生業としており、一階は店なので、碧夏は二階で暮らしている。


 店の入り口には苗字の『佐倉』と書かれた看板が貼られている。碧夏は幼い頃、それが恥ずかしく、嫌になることがしばしばあった。

 古い建物に高く積み上げられたエロ本。


 今となっては、割り切れるが、当時は友達を家に招き入れることは絶対にしなかった。


「姉ちゃん、お帰り」


 弟の大智が祖父の代わりに店番をしていた。大智はレジの所で夢中になって漫画を読んでいる。今、この店は本を無料で配っているようなものだ。盗まれても弟が気づくことはありえない。


「ちゃんと店番しなよ」


 碧夏が声をかけると、「りょーかい」と大智は湿った空返事をするだけだった。

 店の奥から続く階段で二階に上がった。

 ドアを開けて「ただいま」と碧夏が言うと、部屋の奥から「おかえりなさい」とシワシワな声と共に、ご飯が炊かれる良い匂いが漂ってきた。


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