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 蒼也が正月にお願いされたのは、スポーツ健康学部棟に置いてあるラダー(陸上部の練習道具)三セットを体育棟に運ぶことだった。


 大学は山の中にあり、敷地が広いことで有名だ。その敷地の広さゆえ、キャンパス内を巡回するバスが走っている。しかし、彼らのスポーツ健康学部は体育棟の真反対に位置する。体育系の学部なのに、体育棟から一番遠く、バスでも多少時間がかかる。


 蒼也は今日の授業が全て終わってからの条件で正月の頼みを引き受けた。

 普段はジョークを言ったり、からかいあう仲だが、正月は優しくて、イケメンなのを知っている。先輩とのコネクションもあり、テストになるとよくテストの過去問をくれる。頼みを断る理由が無かった。


 今日は陸上部が休みなので、競技場が空いている。タータンも先月張り替えられたばかりらしい。新しいタータンでコッソリと走ってみようとかな。と蒼也は企んだ。


 バスが体育棟に到着した。


 蒼也は想像していたよりも一回り大きい荷物を抱えるとバスの運転手さんにお礼を言ってからバスを降りた。

 風はふんわりと暖かく、空は鮮やかな茜色をしている。カラスの口ずさみをよそに、陸上競技所へと向かった。


 競技場は体育棟の目の前に位置しているので、迷うことはない。しかし、体育倉庫は入り口から反対側にあるので、結構歩く。


 陸上競技場に着くと、蒼也は荷物を抱えたまま立ち止まった。

 さっきまで彼の頭の中にあった『少し陸上競技場で走ろう』という軽い考えは、風によって彼方へと飛ばされた。その風は、猛風でもなければ、きっと微風でもない。荒々しい呼吸だ。


 陸上競技場はガラガラだった。しかし、無人ではなかった。一人だけ、一生懸命に走る彼女がそこにいた。


 碧夏という少女だった。


 彼女の額を流れる汗が茜色の空を照り返す。蒼也はその光に包まれたような錯覚を覚えた。


 今は黄昏時、自分は暗い木の下にいるので、彼女がこちらに気が付いても、誰だかわからないだろう。蒼也は彼女の練習風景をしばらくの間、ただ漠然と眺めた。


 その後、彼は碧夏という少女に気が付かれないように、わざと大回りをして、倉庫に行った。

 正月に渡された鍵を使って倉庫の中に入る。

 倉庫内は真っ暗だった。


 扉から入る夕暮れの日差しが、倉庫内のホコリを模様のように浮かびあがらせている。その模様は緩慢と恒常的に変化している。


「テキトーに置けばいいって言ってたけど、どこにおけばいんだ?」


 蒼也はラダーを持ったまま、倉庫の中を見回した。中はしっかりと整理整頓されていて、明らかにラダーの置き場所があるように思える。思ったより倉庫の中は広く、色々な用具があるので、少しわかりづらい。


「こんにちは、この前はどうも」


 突然、後ろから声をかられた。蒼也はビックリして振り向くと、例の少女が立っていた。頬からは汗が頬を伝い、それがオレンジ色の日差しを反射している。彼女は蒼也に微笑んだ。


「ああ、公園の。まさか同じ大学だったんですか。びっくりしました」


 蒼也は少し大げさにビックリした。同時に鼓動が大きくなってきた。


「やっぱり、同じ学部の人だったんだね。なんとなく顔だけは知ってたんだ!同じ二年生でしょ?だから敬語なしでいい?」


「そうだな、敬語なしでいいよ」

「ここでなにしてるの?」

「ああ、ラダーを片付けるんだ。頼まれてね。でも、どこに置けばいいのか分からなくて」


 碧夏は「じゃあ、私が片付けるよ。ありがとうね」と蒼也からラダーを受け取ると、ニッコリした。それを見た蒼也はしばらく石のように固まっていた。


「これ誰に頼まれたの?」

「正月だよ。知ってる?陸上部なんだけど……」

「知っているよ。正月と知り合いなんだ。優しいね」


 碧夏はラダーを片付け終わると、苦笑気味に言った。


「いやいや」と遠慮気味に否定する蒼也と彼女との間で沈黙が生まれた。それはとても短い間だったが、蒼也にとっては果てしなく長い時間だった。


 一瞬で、話すことがなくなった。しまった。蒼也は一生懸命頭をグルングルンと回転させた。


 そうだ、自己紹介がある。彼が思いついた時だった。


「私は『佐倉 碧夏』、よろしくね。自己紹介まだだったね」碧夏は微笑んだ。

「安岐 蒼也。こっちこそよろしく……佐倉」蒼也は赤面しながらも紋切型の自己紹介を返した。


 薄暗い倉庫を出るとき、碧夏に鍵を渡した。


「自習練習なんてすごいね」蒼也は鍵をかける碧夏の背中をじっと見つめながら言った。

「そんなの普通だよ。大学で陸上やってる人は、みんなやりたくてやってるからね」


 明るい声で碧夏が振り返ると蒼也はとてつもない速さで視線を明後日の方向にかっ飛ばした。


「その、佐倉は凄く速そうだね」


 細くも逞しいふくらはぎ。蒼也は一昨日の夜見た、碧夏の足を思い出した。

 碧夏は、首を横に振った。「イヤイヤ、私なんて……自己ベストが全然でないし、ダメダメだよ」と、末枯れる紅葉を眺めるかのような瞳で、足元を見つめた。


「十五メートル走で俺と勝負しない?」


 突然蒼也が提案した。


「突然どうして?」と不思議そうにする碧夏。

「一部体育会の陸上部さまがどれだけの走りをするのか、体験したくなったんだ」蒼也は本当のことを言った。これはただの思い付きだ。蒼也は続けて、心の中で申し訳なさを感じながらも「まさか、逃げないよね?」と彼女を煽った。


「逃げたりしないけど。でも、安岐君の方が圧倒的に速いよね?」

「いいから、いいから」と蒼也は彼女の前を通り過ぎ、スタート地点へと向かった。


 スタートは百十メートルハードルのスタート地点の奥にある、レーンナンバーが記されているライン。ゴールは百メートル走のスタートラインで丁度距離は十五メートルだ。


「なんで十五メートルなの?」


 碧夏の質問に蒼也は「そりゃあ、距離が長いと、一位と二位の差も長くなっちゃうだろ。それだと二位の人が可哀想じゃないか」と遠回しに碧夏をからかった。


「安岐君って面白いね。乗った」彼女の瞳に炎が灯された。

 二人はスタート位置についた。蒼也はスニーカーを白いラインギリギリまで近づけた。

 靴はスニーカー、ズボンはジーンズ。服装からしたら蒼也が圧倒的に不利だ。


「スタートの合図をどうぞ」


 蒼也は碧夏にスタートの合図を譲った。

 大抵の場合、合図を言う方が、好きなタイミングでスタートできるので有利なのだ。


「あ、っそう」


 碧夏は少し、不機嫌そうに言った。

 蒼也は彼女の表情を覗き込んだ。

 十五メートル先のゴールではなく、もっと遠くを見据える碧夏。彼女の瞳を見た蒼也は赤面した。腰を浅く落とし、右足を後方に引いて、右手を左足と揃えるように伸ばす。蒼也はスタンディングスタートの態勢に入った。


 碧夏はタータンの外に落ちていたアスファルトの欠片を持っていた。

 どうやらそれを後方上空へ投げて、石が地面に落ちた音が聞こえた瞬間にスタートするという形にするようだ。その形式だと、お互いにいつ石が落ちるかわからないので、同じタイミングでスタートできる。


「せっかく有利にしてあげようと思ったのに」

 すると碧夏は「いいの」と言わんばかりの表情をしてスタート態勢になった。

「位置について」

 碧夏は蒼也にだけ聞こえるような小さな声で言った。そして、石を持っていた右手を大きく振り上げた。


 静寂が訪れた。吹いていた風は収まり、鳴いていたカラスはどこかへと消えた。蒼也の視界から碧夏はいなくなり、視界の中には、白いレーン番号である数字の四が彼を見つめていた。

 鈍い音が響いた。

 刹那、全反射神経が反応した。地面を滑るようにしなやかに右足が前に出る。

 蒼也は察知した。彼女よりも速く一歩目が出ていることを。

 

 そして盛大にずっこけた。

 

 蒼也は転んで三回転ほどタータンの上を転がった後、仰向けになって空を見上げた。

 タンタンタンと靴がタータンを蹴る音が遠ざかって行き、そしてまた近づいてきた。

 碧夏が心配そうに蒼也を覗き込んだ。


「大丈夫?」

「うん大丈夫、空、綺麗だね」


 すると碧夏は「何それッ!」とお腹を押さえて笑い始めた。 

 暫く笑い続ける碧夏に「そんなに面白かった?」と不満そうに言った。


「うん、面白い!私の勝ちだね」


 二歩目で靴が脱げてしまったらしく、碧夏はそれを拾った。


「佐倉の勝ちだ。やっぱり足すごく速いじゃないか」


 きまりが悪そうに蒼也は碧夏の顔を見つめた。


「ありがとう!でもあんなにイキっておいて、転んで負けちゃうなんてカッコ悪いぞ」

「わざと負けたんだよ」と強がる蒼也。 

「久しぶりに走るのが楽しいって感じたよ」碧夏は嬉しそうにニッコリと笑うと手を差し出した。

「それは良かった。スポーツは本来、楽しむための活動だからね。それを君に教えたかったんだ」自分でもよくわからない言い訳をした蒼也は碧夏の手を取り起き上がろうとした。その時、彼女の胸元を見てしまい、彼はすぐに視線を明後日の方向に飛ばした。


「それ、今思いついたの?」

「さ、さあね」顔を近づけてきた碧夏の瞳を見た蒼也はまた赤面した。

「ちょっと君たち」


 楽しむ二人に水を差したのは、青い服に身を包んだ警備のおじさんだった。目つきで二人を睨みつけている。


「どうかしましたか?」と蒼也。

「陸上競技場の予約してないですよね。してないと使えない決まりなんですよ」敬語を使いつつも警備のおじさんはかなり怒っているようで、鋭い目つきと強めた語気で二人を威圧した。

「え、佐倉がしてるんじゃ……」と蒼也は佐倉に視線を送った。


 碧夏は緩慢と顔を逸らした。


「シテナイ」

「してないの……」


 警備のおじさんは「予約しないとだめでしょ!」と叱ると「二人の名前、学部と学籍番号を名乗りなさい」とメモ帳とペンを胸ポケットから取り出し、何かを書き始めた。


 これは、怒られちゃうパターンだ。無断使用だとどうなるんだ。停学とかは流石に無いよな。もしかして不法侵入になっちゃうパターンか?「まじかよ」と落ち込んでいる蒼也の背中を碧夏がツンツンと突っついた。


「逃げるよ」


 碧夏は耳元で囁くと、蒼也の袖を掴んで走りだした。おじさんは書くのに夢中でまだ気が付いていない。荷物を回収すると、二人はそのまま陸上競技場を出て行った。間もなく、「待ちなさいッ!」と背後から怒号が聞こえたが碧夏が止まることは無かった。


「こんなことしちゃっていいの?」


 蒼也は揺れるリュックサックを両手で押さえながら不安げに言った。

 前を走る碧夏から「いいの、いいの!」と明るい声が流れてくる。 

 二人は逃げ切った。体育棟から徒歩五分くらいの所にある総合棟の食堂に駆け込むと、二人は座って休憩した。


「いや~危なかったね。こんなの初めてだよ」と、碧夏はプリンの賞味期限が切れるところだったね、くらいのノリで言った。


 一方蒼也は息を切らしながら「いや、大丈夫なのかな」と心配している。


「そんな大ごとにならないし、大丈夫だよ」

「当分、体育棟に行けないな」と蒼也は呟いた。


 ポケットに手を突っ込んだ。ポケットにはスマホが入っている。碧夏と連絡先を交換したいが、なかなか言い出す勇気が無い。


「あ、そうだ!連絡先交換しよ!」 


 蒼也の勇気が勝る前に、碧夏が連絡先の交換を提案した。


「あと、私のこと、苗字じゃなくて碧夏でいいよ」


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