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朝、大学に行く前、蒼也がパソコンに向かっていると、スマートフォンが鳴った。
『祖母』という表示を見るや否や、蒼也は顔を歪めた。
「もしもし、蒼也君?」
「もしもし」と蒼也は電話に出ると気怠そうに返事をした。
「元気にしている?」
「はい、元気ですよ」蒼也は小学校の出席簿の返事のように気怠そうに言った。
「そう……よかった。もう春なんだし……」
叔母は何か言うのをためらっている。
「春なんだし?」と蒼也が催促すると、叔母は「そろそろ、お母さんに会ってあげて」と言った。
すると、蒼也はわざとらしくため息を吐いた。約三億個存在する肺胞に溜まっている空気を吐き出すように、電話越しの叔母が確実に聞こえるように彼は吐き捨てた。
「心配しなくて大丈夫だよ、ちゃんと母さんに感謝しているって。そうじゃなかったら、高校の頃から、毎月バイト代の二割を母さんに渡したりなんてしないよ。今だって、ちゃんと続けてる。まあ、どうせあの人のことだから、全部ギャンブルにつぎ込んでいると思うけどね」
「でも……」
叔母の皺の入った声を遮るように蒼也は続けた。
「ここから遠いし、交通費もないし。カツカツなんだ」
「そう、じゃあ、夏には、夏には会ってあげて……お母さんも……」
叔母はまだ何か言いたげだったが、蒼也は「じゃあ」と強引に電話を切った。
ここ最近になって、叔母からこんな電話がよくかかってくるようになった。そして電話の度に祖母は「母に会って」としつこく言う。それが蒼也にとって、心の底から煩わしいことだと知らずに。
午前中の授業が終わると、蒼也は食堂の入り口で、今日の昼食のメニューを確認した。
蒼也が通うスポーツ健康学部では、学費に昼食代が含まれていて、食事をするのに、財布が必要なく、毎日、日替わりで三つのメニューから選ぶことができる。
昨日は麺類を食べた。今日もラーメンを食べることにした。
この学食はとても美味しいと評判で、さらに栄養もしっかりと考えられている。貧乏一人暮らしの学生にとっては最高の学食だ。
公園で会った少女にまた会ってみたいな。今、彼女はどこでどんなことをしているんだろうか。蒼也はそんなことを考えると、窓際の日向で、スマホをいじりながらラーメンを食べ始めた。
「また一人かい?」
食べ始めてすぐ、正面に座ったのは、西城正月だった。
彼は蒼也と大学に入学したときに知り合った。端正な顔立ちで頭も良く、一年生の時は成績優秀者に選ばれる程だ。そして蒼也が大学生活で唯一、よく話す相手だった。
「よっ、正月。髪切ったか?」
「いや、切ってないよ」首を横に振る正月。
「そうか……ちょっと変わったか?」
蒼也は正月を一切見ることなくスマホを操作しながら言った。
「うん、蒼也はよく気づくね。実は今日コンタクトレンズつけるのを忘れたんだよ」
「なるほど、やっぱりな、いつもと違う。とても似合っているぞ」
「ありがとうね。来週の水曜日って暇かい?」
「いや、バイトよ」
「そうかい。わかった……蒼也はいつも通り一人なんだね。寂しくないのかい?」
「正月もさっきまで一人だっただろ?」
「はは、そうかも」
正月が後ろを振り向いた。そこには正月の知り合いがいたらしく、彼に手を振った。
「ああ、ごめん、僕の友達だよ」
蒼也は、スマートフォンを操作していた指を止め、正月の方に目をやった。
「そりゃあ、良かった。安心したよ。それにしても、一人称の『僕』やめたら?そろそろ本性見せてくれよ」
「いやあ。ごめん、無意識に『僕』って言っちゃうんだよね」
「そうか」
蒼也は再びスマホに視線を戻そうとした時、奥の片隅で一人、ランチ中の少女を見つけた。
突然、箸をお盆の上に落とした。
なんとその子はつい先日、足をつっているところを蒼也が助けた少女だったのだ。「まさか」と呆気に取られ、すぐに正月に声をかけた。
「正月、あそこで、ご飯を食べている女子を知っているか」
「ん?どこ?」
「お前から見て、五時の方向だ。一人で食べていて、髪が短い子だ。今、茶色い物体を口に運んだ」
「なに?茶色い物体?」
正月は自分の右斜め後ろに素早く振り向いた。
「多分、唐揚げだ」
「唐揚げか。下品なこと言わないでくれよ。食欲が失せちゃう。あれは茶色じゃなくてキツネ色だね」とクールに言う正月。
「下品なのはお前だろ。で、あの子、知ってる?」
「碧夏か。知っているよ。同じ陸上部だからね。僕たちと同じ二年生だよ」
「なんだ、一部体育会陸上部のエリート様か……初めて見た」
蒼也はできる限り平静を保つのに務めたが、内心では、天地がひっくり返ったかのように驚いていた。
そんなことがありえるのか。
偶然、助けた女子が偶然同じ大学で、しかも偶然同じ学部で、偶然同じ食堂に居合わせるなんて、一体どれほどの確率なのだろうか。
蒼也は遠目で彼女を見つめた。
「彼女よくあそこでお昼ご飯食べているけど、見たことないのかい?」
「ああ、見たことない」
「惚れたのかい?釣られたのかい?」正月はニヤリと笑みを浮かべた。
「いや。まあ、確かに彼女はつっていたよ。足だけどな。この前、公園で練習していたみたいでな、足をつって倒れていたんだ。だから、俺が助けたんだ」
「そうなんだ。いつの話?」
「確か、一昨日の夜だったな」
「一昨日か……すごいな碧夏は」
正月からどこからか暗さを感じた。
「どうかしたのか?」
蒼也は正月に話を切り込むと、餃子を口に運んだ。
「一昨日も練習があったのに、夜も走り込みをするなんて。すごい努力家だなって思って」
一方蒼也は何も言わず、ラーメンをすすった。と言っても、日本人のように豪快な音を立てているわけではなく、上手にすすることができないので、パスタのように途切れ途切れに食べている。
「碧夏はいい子だよ。可愛いし、明るいし、すごい気が利く子だって評判だよ」
「なるほど」
碧夏という少女は運動も勉強もできて、明るくて周囲からも評判がいい女子なのか。
蒼也はまたスマホをいじり始めた。きっと楽しくて明るい人生を送っていて、映画のような恋愛をして、イケメンの彼氏とかも、いるんだろうな。あの子の彼氏はどんなイケメンなのだろうか。やはり、頭のいい大学に行っていて、スペックも高い奴なんだろうなと、蒼也はその架空のイケメン彼氏を羨ましがった。
「あ、ねえ蒼也」
正月は何かを思い出したかのように言った。
「なんだ?」
「頼みがあるんだけど」
「話は聞こう」
最後に残ったチャーシューをパクリと一口で食べた。
「今日、陸上部が休みで、この後用事が入っているんだ。それで、もう帰るんだけど、さっき先輩に荷物運び頼まれちゃって……」
「まあ、三限の後なら時間あるからいいけど……まさか、スポ健棟から体育棟までか?もちろん、巡回バスに乗せられるよな?ここから体育棟まで歩いたら二十分はかかる」
「うん、バスに乗るよ。陸上競技場の倉庫にテキトーにぶち込んで」
「それって、もちろん漢字の『適当』か?」
「ありがとう、いや、カタカナの『テキトー』でいいよ」