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墓石の前で手を合わせてしゃがんでいた青年は、ため息を吐くと静かに立ち上がった。
「やっと気付いたよ。ありがとうね」
青年は見上げた。青い空に雲はない。
「そういえば、明日は付き添いがあるんだったな」
明日もこんな空だったらいいな。と思いながら彼は墓牌に背を向けて歩いていく。
青年はある女子との出会いを思い出した。
夜、公園内を横断するメインストリートの真ん中で倒れている人影を見つけた時、安岐蒼也はすぐに駆け寄るべきかどうか一瞬だけ迷った。
彼は薄情な人間ではない。
迷った理由は主に二つある。一つ目は遠目からだったので、どんな人物が倒れているのかわからなかったこと。それともう一つは、冤罪だ。
日本では不審者と間違われる可能性はいくらでもある。挨拶しただけで通報された事例もあるらしい。それが本当かどうかはわからないが、蒼也はそういった情報をネットで見てから、慎重に行動するようになった。
少し迷った後、蒼也は乗っていた赤いクロスバイクを降りてから、道の真ん中で倒れている人の所へ向かった。
その人を観察するかのようにあからさまに接近するのではなく、公園に咲き誇っている夜桜を見に来た人という設定で、あたかも偶然を装って、そして善意に真心も装って、蒼也は確認しに行った。
倒れていたのは、一人の少女のようだった。
その少女は、蛍光色のランニングシューズを履き、着ていたのは紺色の生地のTシャツで、背中側にピンク色で『才能有限 努力無限 但し 時間は有限』というカッコいいような、名言のような矛盾している迷言が印刷されている。これは陸上競技部の部員が好んで着るTシャツだ。彼女は陸上部員なのだろうと、蒼也は一目でわかった。
蒼也は自分のふくらはぎを両手で押さえて悶え苦しんでいる彼女が気付くように、一回通りすげて、わざと彼女の視界に入ってから、さらにわざとらしく驚くように近づき「大丈夫ですか?」と言って、自転車のスタンドを立てると、彼女の目の前でしゃがんだ。
高校生くらいの女の子だろうか。
髪型はショートボブ。分けた前髪は彼女の左目を隠すか否かの絶妙なライン。すーっと自然に通った鼻筋に、控えめな口元、薄っすらと髪の奥に見え隠れする大きな瞳。蒼也は一瞬、彼女に見惚れてしまった。
「つ、つっちゃいました……」顔を歪ませながら彼女は蒼也の方に振り向いた。
てんで上の空だった蒼也は我に返ると「どっちの足ですか?」と心配そうに覗きこんだ。
「右です。押さえている方です」
彼女は右足のふくらはぎをつってしまったみたいだった。
「とりあえず、伸ばしますね」
蒼也は、躊躇しながら少女のふくらはぎを掴んで動かないように固定させた。触った瞬間、彼女の足の筋肉はまるで生温かい鉄のようにカチコチに固まっていた。これは足が悲鳴をあげている証拠だ。
「邪魔なので、靴、脱がしちゃいますね」
緊張しながら彼女の靴を強引に剥ぐと、つま先を力いっぱい脛の方に押し、ふくらはぎを伸ばした。すると彼女は大きな声でうめいた。
目のやり場に困る。蒼也は彼女のお腹あたりをまじまじと見てしまった。まるで出産時の時のように、肋骨や横隔膜の運動によって、胸とお腹が大きく収縮しているのが、薄いTシャツ越しでわかる。
ああ、ここを見るのも、あまり良くないかもしれない。また目のやり場に困った。
彼女は苦しんでいる。あまりの痛みに反射的に暴れるが、蒼也の腕力の方が強かったので、そのまま無事に処置することができた。
それにしても困ったものだ。彼女のうめき声に暴れる姿、彼の立ち位置、傍から見たら彼女が強姦されそうになり、抵抗しているかのように写ってしまわないだろうか。それにこんなにも可愛い女の子なのだから、もし見知らぬ人に見られたら、冤罪という罪を着せられそうだ。と蒼也は心配した。
でもきっと彼女が証言してくれるので、そんな心配をする必要がないことは明白なのだが。
と自分に言い聞かせ、処置を続けながら、橙色に光る街灯に照らされる桜を眺めた。
何かが彼女の頬を駆け下りたのを蒼也は見た。それが、涙だったのか、桜だったのか見分けることはできなかった。
桜の木の枝が、強い風で大きく揺れ、この時間帯にはめったに来ない通行人が数人通り過ぎた頃には、彼女の足はだいぶ柔らかくなってきていた。良い筋肉というのは、力を入れると鋼のように硬くなり、力を抜くとマシュマロのように柔らかくなる。
彼女の足は、マシュマロのように白かった。
蒼也は、不自然に彼女の足をもむことも無ければ、短パンと太股の間から見えそうなパンツを覗こうともしなかった。彼は紳士でありたかったのだ。
白か。思わず心の中で囁いてしまった。
彼女の足はどこか自分の足に似ている。もちろん、見た目が似ているのではない。浅黒い肌の蒼也に対して、女の子の肌はきめ細かく、白く、薄い黄緑色の血管がかすかに浮いている。
色も形も違うのにどこか似ている。
『よく、足をつるんですか?』
蒼也がそう尋ねようとした時だった。質問をする前に彼女が、「私、よくつっちゃうんですよね」と笑った。少女の笑顔を見た蒼也は面映ゆさからすぐに視線を逸らした。
彼女がつるのは足か。それとも男か。蒼也は一瞬思った。
「足つるの凄く痛いんですよ!」と彼女は付け足すかのように言った。
「わかります。俺も陸上をやっていたんですが、現役の時はよく足をつっていました。辛いですよね。足がつりやすい体質とかあるんですかね」と蒼也は頷いた。
「どうなんですかね!ただ、いつも、走り込みの後半でつるんですよね」
「俺はランダムだったな……走り始めてすぐにつることもありましたよ」
「それ、ウォーミングアップが足りなかっただけでは?」フフフと少女は笑った。
「そうかもですね。種目は短距離ですか?」
「そうですよ。短距離だったんですか?」
「はい、俺も短距離でした。今もたまに走りますよ」
蒼也は彼女の足をゆっくり地面に置くと、「もう大丈夫ですか?」
「大丈夫そうです。本当にありがとうございます!あなたが来てくれなかったら、このまま朝までずっと公園で苦しむ所でしたよ」と少女は笑顔を浮かべて言った。なんて明るい少女なんだろう。と蒼也は思った。
続けて少女は「よろしければお礼とか……」と言ったが、蒼也はすぐに「あ、いえいえ。お礼なんていらないですよ」と断った。
蒼也がゆっくりと立ち上がった時、桜の花びらがヒラヒラと彼の頭の上に乗っかった。
「わあッ!」と蒼也はビックリすると、尻もちをついた。
「だ、大丈夫ですか」少女はビックリすると、蒼也に手を差し出した。
「なんだ……虫かと思った……大丈夫です」
蒼也は恥ずかしそうに彼女の手を借りて立ち上がると、赤いクロスバイクにまたがった。
「じゃあ、帰り道気を付けてください」と言い残すと、足早に公園を出た。あんな子は二度とお目にかかれないのかなと蒼也は別れを惜しんだ。
そしてすぐ彼は道に迷った。行ったことのない方面の出口から出てしまったようだったのだ。