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人生に絶望して死のうとした男が夜の公園で見つけたもの

作者: 天音光人

 それにしても、生きていくのはなぜこんなにも辛くて苦しいのだろう。


 だが、くだらないこの世とも、もうすぐおさらばだ。これでやっと、辛くて苦しいだけの人生から解放される。

 次に生まれ変わったら、もうちょっとは幸福な人生を送れるのだろうか。いや、そもそも来世なんてあるのだろうか。

 まあどうでもいいさ。何もなかったってかまやしない。俺というちっぽけな存在なんか、虚無の中に消滅してしまったっていい。こんなくそったれの世界の中にいるよりははるかにマシだ。


 深夜の公園は人気がなく、ひっそりと静まりかえっている。俺は首にロープの輪をくぐらせた。足下のアルミ製の脚立がぐらついている。こいつを蹴っ飛ばせば、すべて片がつくんだ。


 この脚立は昨日、リサイクルショップで訳あり品として処分価格で売られていたものだった。あちこち汚れて、傷だらけでボロボロになっていた。まるで俺自身のようだった。

 同類としての悲哀を感じながらじっと見ていたら、店員が近づいてきて「持ってってくれるならタダでいいですよ」と言った。邪魔者扱いされているのも、俺と同じだなと思った。

 俺はスクラップ寸前の脚立を無料で引き取り、アパートの自分の部屋へと持ち帰った。こうして脚立は、俺の人生の最後を看取ってくれる親友となったのだ。


 俺には人間の友だちというものがいない。俺の友だちは犬や猫、鳥や虫、道具や石ころなどばかりだった。今、すぐ横に立っているクスノキも俺の大事な親友だ。

 悲しいときや寂しいときに、よくこの樹の下へやってきては幹に背中を寄りかけて根元に座った。そうしてじっとして目を閉じていると、樹が俺を慰めてくれているような気がした。

 俺は親友であるこのクスノキにも自分の最後を看取ってもらうことにして、枝にロープの端を掛けたのだ。

 

 俺には家族ももういない。一人っ子だったから兄弟もいないし、父親は俺が五歳のときに交通事故で亡くなり、母親も十年前に病気で他界した。

 三十九歳の今日に至るまでずっと独身だから、妻も子どももない。それどころか女性と付き合ったことも、生まれてから一度もない。

 風俗へ行く勇気もなかったからいまだに童貞で、キスすらしたこともないし、女の子の手を握ったのも、小学校の運動会のフォークダンスのときが最後だ。相手の女の子がものすごく厭そうな顔をしていたのを、よく覚えている。


 勉強も運動もからっきしだった。ちょうど『ドラえもん』ののび太のようなダメ人間だったが、俺にはドラえもんも静香ちゃんもいなかった。

 ジャイアンやスネ夫もいなかったが、みんなからは空気のように無視されていた。俺はのび太がうらやましかった。


 地元の工業高校をどうにか卒業したあと、自動車部品メーカーの工場に工員として就職したものの、とんでもないブラック企業で、一年もしないうちに体を壊して辞めた。

 それから職を転々としたが、人間関係がうまくいかず、どこも長続きしなかった。五年前にアルバイトで入った弁当工場でようやく落ち着き、正社員にしてもらえたけれど、そこも半年前に倒産した。

 その後は失業保険やアルバイトで食いつなぎながら次の就職先を探していたが、なかなか見つからず、何もかもが厭になっていた。


 そんな俺にとって唯一の心の慰めだったのが、牝猫のミケだ。三年ほど前に雨の日の公園で、段ボール箱の中で震えながらニャーニャー鳴いていたのを、拾って帰ったのだ。

 本当はアパートではペットを飼ってはいけないのだが、ミケはおとなしかったので、大家のばあさんも見逃してくれた。

 ミケは俺にすっかりなついた。俺は毎晩ミケを抱いて寝た。毛がふかふかして、あったかくて気持ちよかった。ミケがいてくれたら、もう寂しくないと思っていた。

 だがそのミケも病気になり、先月あっけなく死んでしまった。


 思い返してみると、何もかもがうまくいかない人生だったな……


 俺は脚立の上の両足に力を込めた。脚立のきしむ音がした。続けてロープを掛けたクスノキの枝がたわむ音がした。それらの音がなぜだかミケの鳴き声に聞こえた。俺は死んだミケのことを想い出した。


 辛くて苦しいばかりの人生だったけど、ミケと一緒に過ごす時間は楽しかった。そういえば大家のばあさんも親切な人だった。

 考えてみると、人生いやなことばかりではなかった。天気のいい日にこのクスノキの木陰に座って、本を読んだり近くの野草を眺めたりしている時間は、たしかに楽しかったんだ。


 再びミケの鳴き声が聞こえたような気がした。とても小さな鳴き声だ。俺は耳を澄ませた。また鳴き声がした。たしかに聞こえてくる。少し離れた植え込みの中からのようだ。

 気になった俺はいったん脚立を降りて、植え込みの方へ向かっていった。また鳴き声がする。植え込みの中を探ると、一匹の子猫が震えながら鳴いていた。ミケによく似た牝の三毛猫だった。


 「ミケ!」


 俺は猫を抱きかかえると、上着を脱いで包んだ。そしてクスノキからロープを外し、脚立を持って自分の部屋に猫を連れ戻った。

 残っていたわずかな金を持って深夜営業のコンビニまで走り、牛乳と缶入りの子猫用キャットフードを買った。

 猫は牛乳をペチャペチャと舐め、キャットフードを少し食べると、ぐっすりと眠り込んだ。俺も布団に入って眠ることにした。


 翌朝、猫に顔を舐められて目が覚めた。猫は拾ったばかりの頃のミケによく似ていたが、模様は少し違っている。だが俺にはなんだか、ミケが帰ってきてくれたように思えた。そして俺はもう死のうという気がなくなっていた。

 この子猫を飼おう。そのためには、俺ももう少し生きなければならないな。もしかしたら昨夜は、死んだミケが俺を助けにきてくれたのかもしれない。


 そのときドアをノックする音がした。大家のばあさんだった。


「あら、また子猫を拾ってきたの? 前の猫とよく似てるねえ」

「ええ、昨日の夜、公園で震えながら鳴いてたので、つい可哀想になっちゃって」

「しょうがないねえ。このアパートはいちおうペット禁止になってるんだけどねえ」

「すみません……」

「まあいいよ。ところでさあ、知り合いが近くで弁当屋を始めるというんで、開店スタッフを募集してるんだけど、よかったらやってみないかい? あんた以前に弁当工場で働いてたんだよね?」

「はあ……ありがとうございます。ちょうど失業中でしたので、助かります」


 それから俺は弁当屋で働き始めた。仕事は結構きつく給料も高くはないが、店長も親切な人で、こんな俺でもなんとかやっていけそうだ。

 それに何より、部屋に戻ればミケがいてくれる。そうして休みの日には公園へ行ってクスノキの木陰に座り、ミケを膝の上に乗せて、本を読んだり野草を観察したりするのだ。


 俺は今、そんな人生のささやかな歓びを味わいながら、一日一日をせいいっぱい生きている。


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