透明な壁
初めてのデートで、遠く離れた街の、知らないカフェに入った。
そのときジャスミンティーを頼んで以来、貴方はことある毎にジャスミンティーを差し入れてくれる。
ペットボトルのは香料っぽくてあまり好きじゃないのにな、と思うけれど。
わたしの好きなものを覚えていてくれたことと不器用な優しさが嬉しくて、いつも笑顔で受け取っている。
空になったジャスミンティーのペットボトルをデスクに置いて、あたしは席を立った。
「係長、データの整理終わりました」
「ん」
パソコンの画面をじっと見つめたまま小さく貴方が頷く。
(うなじが、きれい)
あたしは振り向いてほしくて後ろに立っているけれど、貴方はそんなあたしの気持ちに気づかない。
頬杖をついた貴方の右手の薬指には銀色の証が光っていた。もうすぐ、左側にも増えるのだろう。
大きくて滑らかな掌も、きれいな長い指も、わたしの為には存在しない。
わたしからは決して貴方に触れることはできないのだ。
(透明な壁があるみたい)
大人の男のひとは、ずるい。
こちらが隙を見せた瞬間にするりと心に入り込んでくるのに、近づこうとすると上手く躱してくる。
心の中で溜息をつくと、あたしは自分の席に戻って帰る支度を始めた。
「よし、終わり」
ところが立ち上がった貴方はわたしの背後に立つと、腰の辺りにそっと両腕を回してきた。
それから、右肩に額を乗せてくる。背が高い貴方の、柔らかな猫毛が首筋に当たった。
海外製の独特な煙草と柑橘系のシャンプーの香り。
男性の引き締まった体つきを背中で受け止める。
「……飯でも食いに行くか」
恐ろしく低いのに甘ったるい声が、耳朶を打った。
途端に心臓が痛いくらい高鳴る。さっきまでの憂鬱は吹き飛んで貴方のことしか考えられなくなる。
あたしは瞳を閉じて、貴方の存在を全身で感じようとした。
(このまま融けて、ふたりの境界線がなくなればいいのに)
そんなことは、叶わないのに。
***
ただの上司だった筈の貴方が特別な存在になったのは、一瞬のことだった。
『私の監督不行届です。誠に申し訳ございませんでした』
課長に向かって深く頭を下げる貴方の背中を今でも鮮明に覚えている。
あたしのミスで迷惑をかけて、申し訳なさでいっぱいだったけれど。
ぽん、と頭を撫でて貴方は言ったのだ。大丈夫だよ、と。優しく、笑って。
『人間、ミスのひとつくらいするさ。その後にどう挽回するかが大事なんだよ』
それから些細なことでもよく会話するようになった。
あたしが3年間付き合った恋人に別れを切り出されたときも、相談に乗ってもらって。
なんでも話せる、頼りになる相手だと信じて疑わなかった。
そして、やがて、それが恋だと気づいて絶望する。
——貴方には生涯を約束した相手がいたから——
『係長のこと、好きになってしまいました』
言わなければよかったと、半分後悔しているのは事実。
***
アパートの前まで送ってくれた貴方は、少し寂しそうに微笑みを浮かべる。
「今夜は悪かったな」
「いえ、あたしはいいんですけど。……彼女さんは大丈夫だったんですか」
「二泊三日で出張なんだとさ。まぁ、本当のところは俺にも分からないが」
それ以上は訊けなかった。尋ねる義務もなかった。
あたしたちだって似たようなものだ。どちらが先か、ということすら意味がない。
「……おやすみなさい」
自動車から降りようとすると、貴方はぐっとわたしの体を自分の胸元に引き寄せた。
心臓の鼓動が重なって響く。貴方も緊張していた。そして、ひどく掠れた声で囁いてくる。
「卑怯だよな、俺は。俺の弱さに付き合わせて。だけど、お前だけは俺を裏切らないと思ってるんだ」
あたしの、一番好きな声。
子宮の奥まで届きそうな、音とリズム。
(かべが、ない)
今、あたしは貴方のことをどこまでも愛していいと、許されていた。
あたしのすべてが貴方を欲しがっている。貴方に触れたくてたまらなくて、おかしくなりそうだった。
だけど。
「駄目ですよ」
本能に体が支配されそうになるのを堪え、歯を食いしばって貴方からそっと体を離した。
「明日は大事な会議です。早く帰って、明日に備えてくださいね」
精一杯笑顔をつくって小さくガッツポーズをしてみせた。
「かっこいい係長を見るの、楽しみにしているんですから。今日は本当にごちそうさまでした。おやすみなさい」
貴方が何かを言い出す前に無理やり会話を終える。
逡巡する様子を見せつつも、貴方は諦めたようだった。
「……あぁ。また明日」
赤いシビックが見えなくなるまであたしはアパートの入り口に立っていた。
鍵を開けて部屋に入った途端に緊張の糸が切れてしまったようで、へなへなと玄関に座り込んでしまった。
自然と、嗚咽が漏れる。
「……っ……」
解っているのだ。こんな関係を続けてはいけないということくらい。
いい大人のくせに、お互い、何をやっているのか。
頭の隅では理解している。だけどどちらも止めると言い出せずにいる。
大人になったらこんな辛い想いをすることなんてないと思っていたのに。どうして。
まさか、貴方があたしの想いを受け止めてくれるなんて思わなかったから。
それは免罪符になるだろうか?
あたしは貴方の弱さにつけこんで。貴方は、あたしの感情を利用して。
だけどもう潮時なのかもしれない……。
ぶるっ、と鞄が震えて、スマートフォンにメッセージが届いたことを報せる。
『辛い想いをさせてごめん。今から彼女と話してくる』
貴方からだった。
また、ふたりの間に透明な壁が立ち塞がる。それを破るのか、もう一枚つくるのか、委ねられているようだった。
貴方の姿が脳裏に浮かぶ。
仕事のときの緊張感のある堂々とした立ち振る舞いも、普段の柔らかな笑顔も。他人に対して少し不器用なところも。
全部引っくるめて、心の底から、好き。大好きなのだ。
……どう返信するか迷いに迷って、最初の言葉を打つ。
『あたしこそ、』