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試行錯誤の異世界旅行記  作者: 取方右半
第8章 動き出す世界
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8-65 レティシアの覚悟

 肺が苦しい。酸素を寄越せと喘ぐ体に、心臓がポンプの役割を果たして血液を循環させるが、足りないと怒鳴り返される。その度に、肺は呼吸を繰り返すが、取りこんだ酸素はすぐさま消費されてしまう。


 現実の時間としては、ディオニュシウスと戦い始めて四十分ぐらいだろうか。


 しかし、《トライ&エラー》や《グレートディバイド》を多用したせいで、実感として経過した時間は一日に届きそうな程だ。


 死ぬ度に、体力は戻るが気力がすり減っていく。集中力が低下すれば、無駄な動きが多くなり、体力の消耗が増えてしまう。限界が近いのはレイとて承知の事だ。


 そんな状況でレティを追いかけて走るのは、はっきり言って自殺行為だ。


 彼女が北の戦場、つまり『七帝』同士が激突し、《神聖騎士団》と六将軍が鎬を削る闘争の場に辿り着いたとして、何が出来るのか。何をしようとするのか。それはいまだに分からないままだ。


 ただ、確信に満ちた、それでいて重々しい覚悟を秘めた瞳を見た瞬間、レイは彼女に勝利を託した。だから、こうして北に向かって一ミリでも近づこうとしている。


 問題は、希望に向かって走るレイ達を飲み込もうとする絶望の獣が追いかけている事だ。


「ニガサナイ、ニガサナイ、ニガサナイ。シシヲブンカイシテ、ハラワタヲナラベテ、チデモクヨクヲシテ、ソレデ、ソレデ、ソレデ、シヌマデコロシテヤル!」


 蜘蛛のような細い足が地面を削り、狼の頭部からは狂った叫びが繰り返される。体長が十メートルほどの狼をベースに、背中と腹からは無数の触手が伸び、足は蜘蛛のような節足の物が生えている。いくら人造モンスターだとはいえ、あまりにも出鱈目すぎる存在だ。


 だが、その体にも限界が来ているのだろうか。


 エトネがせっせと投げつけたケラブノス石の爆弾によって生まれた傷は、完全に修復しているとは言い難い。部位によっては肉が盛り上がって塞がっただけや、あるいは薄い透明な膜で覆っている程度。こうしてレイを追いかけている間も、自らの振動で傷口が開いていた。


 そんな手負いの状態でも、レイに対する殺意は薄まるどころか、より一層濃くなっていた。憎悪の炎が更に燃え上がる。


「シネ、シネ、シネェエエエエエ!!」


 武人めいた口調はとうに消え、自らを焦がしかねない復讐心を制御できない獣が雄叫びと共に触手を振るう。


 直径だけでレイの背丈ほどはある触手が、しなりを持って振るわれれば、それは殴打というよりも斬撃に等しい一撃だ。


 最も、レイやサファの持つ、日本刀のような鋭利で鋭い刃では無く、切れ味の悪い鉈で肉を抉るような物だ。


 斜めから振り下ろされた一撃が、レイの下半身を抉りとる。地面を転がる上半身が見たのは、止めとばかりに振り下ろされた二本目の触手だった。



 ★



 時は巻き戻る。


 同時に、世界が速度を失ったように遅く感じられた。レイは健在な右足を軸に回ると、自らを死に至らしめた二本の触手に向けて龍刀を構えた。


 あと数秒もすれば、下半身を抉り飛ばす触手の先端に向けて、龍刀を振るった。紅蓮の刀身が燃え上がり、裂けた傷口から一気に炎が吹きあがった。速度が失われた世界において、炎は自由を謳歌するように燃え上がり、先端を灰へと変える。


 一本目の処理を終えたレイは、二本目へと意識を向け、舌打ちをした。


 何故なら、二本目は天から降る途中であり、地を這うレイには届かない位置にあるのだ。


 攻撃が届かない以上は、割り切るしかない。再び足を軸に回転して前傾姿勢を取るなり、龍刀から炎を吹かせた。


 吹きあがる紅蓮の炎を推力に、短い距離を飛翔した。


 その時、世界は速度を取り戻す。


「グルウウウウウ、ニゲルナ、クワセロォォォ!」


 背後から轟く獣声は炎に巻かれる触手に着いては何も言わない。思考が滅裂となり、痛覚も曖昧になったのだろうか。


 そんな余計な事を考えている暇は、レイに無かった。空気を震わす高速の落下物に体を強張らせた。二発目の触手が頭上から降り注ごうとしているのだ。


 頼む、外れてくれ。


 祈る声ごと潰すように、触手は大地を砕いた。


 レイの体の、右半身を巻き込んだ。



 ★



 時は巻き戻る。


 世界が速度を失う中、レイは状況を把握した。眼前には炎に巻かれる触手があり、天にはこれから自分を磨り潰す殺意が存在する。


 そこまで確認できれば十分だとレイは判断し、右足を軸に回転。そして先程と同じように炎を推進力に飛ぶ。飛行距離は短いが、それでも距離は稼げた。


 そして世界が速度を取り戻す中、耳朶を先程の言葉を捉えた。


「グルウウウウウ、ニゲルナ、クワセロォォォ!」


 それを合図に、レイは炎の向きを変える。このまま同じ軌道を取っていれば、待っているのは繰り返される死だ。


 斜めに軌道を切り替えた直後、レイが先程まで居た場所を狙って触手が垂直に落ちた。土煙と共に地面が岩のような固さで飛び散るが、死ぬほどの痛さでは無い。むしろ、土煙が舞ったことで姿を隠しながら進む事が出来る。


 相手が起こした状況をしたたかに利用しながら、レイは北へと走るレティを追いかけていた。


 背後から容赦なく振るわれるディオニュシウスの攻撃は全てその身で味わっていた。全身の意識は、一歩でも前に進むという意思に集中され、攻撃を防ごうという余裕はない。


 明らかに暴走状態のディオニュシウスが放つ攻撃は、どれも即死級なため、死んだ瞬間に時間が巻き戻り、《グレートディバイド》の効果で対応する時間が貰える。その時になって初めて、レイは死を逃れるために行動をする。


 死を積み重ねながら北を目指す。それは《トライ&エラー・グレートディバイド》に目覚めた時と通じるようで、真逆の行為だ。あの時は、フィーニスに一撃を繰り出す為に、死を積み重ねながら近づいていった。今回は死を重ねながら逃げているのだ。


 幸いというべきか、《心ノ誘導》の効果はまだ続いているため、ディオニュシウスがレティを狙うような真似はしない。かと言って、ここでレイがレティとは別の方向に魔人を引きつけたとした場合、彼女の狙いが失敗に終わる可能もある。


 北へ向かうレティを追いかけ、レイが走るのをディオニュシウスが追いかけるという、不毛な追走劇。しかし、これももうじき幕を迎えようとしていた。


 一つは触手の攻撃が勢いと数を増してきたせいだ。


 《グレートディバイド》によって試行錯誤トライアンドエラーを繰り返すレイ。彼の主観からすれば、死ぬ度に時間が巻き戻り、成功するまで死を繰り返すという敗北の螺旋だ。


 だけど、ディオニュシウスからしてみれば全く違う光景になるのだ。


 自分が繰り出す攻撃の、悉くを躱し、防ぎ、凌ぐ。《グレートディバイド》による成功ルートだけを見せ続けられれば、例え《魔王ノ狂気》に置かされたとしても改善の余地があると認める。


 一本で駄目なら二本。


 二本で駄目なら三本。


 三本で駄目なら―――っと、レイが回避する度に、やり直すたびに難度が上がっていくのだ。


 死亡回数がトータルで百を超える頃、繰り出される触手の数は両の指で足りなくなり、神経をすり減らさなければ生き残れない領域となった。一メートルを走るのに、十回は死ぬのが当たり前になって来る。


 もう一つが、レティの体力が限界を迎えつつあることだ。


 彼女はヒーラー。体力は勿論の事、年齢的にも気力が絶えてもおかしくな。だというのに、懸命に足を回す姿は気高く、どこか悲痛さも併せ持つ。


 だが、悲しいかな速度は落ちてきている。


 今までは、ディオニュシウスの速度がさほど早くなかった事もあり、レイが上手く調整することでレティが攻撃範囲に入らない様にしていたが、このままでは彼女も巻き添えを食う事になる。


 状況は最悪の一言に尽きる。


 何か手は無いかと死にながらも注意を払うレイに飛び込んできたのは、まさに希望を象徴する白色だった。


 何故、そこに、それが居るのか。


 彼には分からなかった。


 だけど、誰かが希望を繋げようとしたのだと、それだけは分かった。



 ★



 肺が苦しい。ヒーラーとして動ける程度にしか鍛えてこなかった体が、今は恨めしい。もっと、大地を強く蹴れる足が、息切れをしない肺が、早く走れるだけの力が欲しいと心の底から思う。


 後ろから響いてくるディオニュシウスの足音と、耳朶を捉えて離さない狂った叫び。それが刻一刻と近づいて来る。


 目的地は見えているがいまだ遠く、このままではディオニュシウスに踏みつぶされるか、捕まってしまうのが先だ。


 本当に、これしか方法は無かったのだろうか。


 息が続かなくなり、頭がぼうっと靄が立ち込めた様になると、意識が唐突に湧いた疑問へと向いた。いや、唐突では無い。キュイを呼び出し北へと向かっている最中も、逸る気持ちの奥底で、その疑問だけは息を潜めながらも存在していた。


 こうして、考えが纏まらなくなった瞬間を見計らって、暗がりから飛び出してきたのだ。


 本当に、こうする以外、方法は無いのだろうか。少なくとも、ディオニュシウスは倒せるだろう。だが、その後は?


 今から行う事は、禁じられた手段。戦奴隷となる代わりに、生きることは辛うじて許されたあの日から、ずっと誰にも明かさないでいた秘密。それが白日の下になれば、もう闇に紛れ込む事は出来ない。


 否応なく、皆を巻き込む。相手は人や、単なる勢力ではない。


 帝国その物が、あたし達姉妹を狙うだろう。もしかすると、世界中が。


 認めたくはないけど、あたしはそれだけの価値があると、あの人は言っていた。そんな物は要らないと叫んだが、どうしようもなかった。


 生まれた事が罪だから。


 生きてしまった事が罪だから。


 これは罰なのだ。


 同じ翠緑色の瞳を持つ青年は、そう言い放った。


 右手に奴隷紋を刻まれた時、あたしは誓った。誰にも見つからない、深淵の果てに逃げよう、と。出来得る事なら、お姉ちゃんは陽の光が当たる場所で、幸せになって欲しい。でも、そのためにあたしは傍に居ない方がいい。


 それがこの有様だ。何かを決断する勇気も覚悟も無く、流されるまま生きて、身に余る幸せを享受していたら、気が付けばどうしようもない状況に追い込まれてしまった。


 今から、あたしは世界に自分が此処に居ると宣言するのだ。あたしを知っていた人、知らなかった人が皆あたしという存在に気づき、何かしらの反応を見せる。


 排除か懐柔か。


 それにレイ達を巻き込んで、本当にいいのだろうか。


 しかし、こうする以外、方法は思いつかなかった。もしかしたら、もっといい方法があるのかもしれない。誰も危険な目に遭わなくて、誰もが幸せになれる、そんな結末。だけど、あたしにはそれを掴み取る力は無かった。


 多分、この戦いを生き延びても、待っているのはより過酷な地獄だ。苛烈で、どこまでも残酷な地獄のような現実。死んだ方がマシだと、何度も思うかもしれない。それでも、あたしはこうするしかない。


 レイを、シアラを、エトネを、皆を守るためには、こうするしかない。


 絶望の未来を手繰り寄せる事よりも、現在いまを失う方が、遥かに怖い。


「レティ、乗れ!」


 虚ろだった意識が覚醒を果たす。今にも倒れそうだった体は背後からの声に背中を叩かれたように目覚め、レティは後ろを振り向いた。


 変わらずに異形の姿を晒すディオニュシウスを背景に、白馬に乗ったレイが猛然と迫っていたのだ。白馬の正体はアスタルテだ。


 予想外の存在の登場に目を丸くしたレティは、馬上のレイが速度を落とさず、腕だけを伸ばしているのを見て、そこに飛びついた。足が地面から離れる頼りなさを感じたのは一瞬。あっという間に持ち上がった少女の体は、手綱の間に収まった。


 レティを拾い上げた事で更に加速をする白馬。蹄が打ち鳴らすリズムは、間違いなくアスタルテの物だ。二か月近く旅をしていたから、これぐらい覚えてしまった。


「ご主人さま。なんで、アスタルテが此処に居るの?」


「さあね。僕も驚いたよ。もしかしたら、ダリーシャスが気を利かせてくれたのかもね。それよりも、レティ。このまま行けば、向かう先はサファさんの所だ」


 言外に、そこには『勇者』が居ると告げたレイ。だが、レティは動じることなく頷いた。


「あたしの行きたい場所は、そこなの」


「……そうか。うん、分かった。なら、僕は止めない。でも、そのためには一つだけやっておかないといけない事があるな」


 それが何かを尋ねる前に、レイはレティに手綱を託した。高速で走る馬の上で、器用に前後を変えると、彼は背後から変わらずに迫るディオニュシウスと正対した。


 依然として速度を緩めようとせず、狂ったような支離滅裂な言葉を繰り返す魔人に、龍刀を向けた。


 紅蓮の刀身に浮かぶのは褐色の少女、コウエン。縦に裂けた瞳孔がレイを睨んだ。


『レイ。炎はこれで打ち止めだ。少なくとも丸一日は、逆さに降っても何も出んぞ』


「……悪いな、コウエン。今回は、随分と無理をさせた」


『はっ! 今回の間違いじゃろう。それに、今更気にするな。それよりも、これで最後なのじゃから、間違っても余力なんぞ残そうと思うなよ』


「ああ。僕も、最後まで出し尽そう。《全力全開オールバースト》!」


 叫ぶと同時に、レイの体から生命力が抜けていく。赤色の指輪に吸われたエネルギーは内部で魔力へと変換され、魔法という形でレイに還った。


 能力値アビリティの増加に伴い器が拡張され、龍刀コウエンに残った全ての炎を引き出す事が出来た。


 神々しくもある紅蓮の刀身が煌めくと、一閃。


 空間を燃やし尽くす勢いの炎が噴射された。それはあたかも龍の姿のようにも見え、炎の津波はディオニュシウスを飲み込んだ。


「グガアアアアアアア!」


 絶叫すらも炎に飲み込まれる。狼の肉体が焼け、触手が黒ずんだ塊となっていくのに、蜘蛛のような脚は前へと踏み出していた。つまり、この炎でもディオニュシウスの復讐心は焼き尽くせなかった。


「本当に……しつこい奴だな、アンタも」


 呟くレイの体は、ぐらりと前へと倒れた。高速で流れる地面に向けて頭を垂れようとするレイにレティは気づき、手を伸ばした。だが、その手は、助けようとした相手に阻まれる。


「レティ。君が為すべき事を、しておいで」


 宙へと体を投げ出したレイは、それだけ言うと地面へと落ちた。


 アスタルテを止めず、首を後ろへと向けるが、落下したレイはぴくりともしないため、生きているのか死んでいるのかさえ、レティには判断できない。だが、もしも死んでいたのなら奴隷契約に則り自分も死ぬし、何より《トライ&エラー・グレートディバイド》が死を無かったことにしているはずだ。


 だからレティは振り返らなかった。


 何故なら、目的地はすぐ目の前にまで来ていたのだから。







 肺が苦しい。どれだけ剣を交わし、熱線を避け、死線を超えて来たのか。正確な所はサファにも分からない。


 エルフの未来の為にと参加した戦争で、まさかエルフの愚行と呼ぶべき『勇者』と相見えるとは思いもよらなかった。


 ジグムントだけではない。


 黄龍にしろ、ゲオルギウスにしろ、『機械乙女ドーター』にしろ。


 自分を含めた旧き時代を象徴する怪物らがこんな僻地で集う事など、ここ数十年あり得なかった。これの中心に居るのは、間違いなくレイだ。最後の『招かれた者』は他の『招かれた者』とは違う目的でもあるのか。それとも単なる偶然なのか。


 もしくは、世界が本当に終焉を迎えつつあるからこそ、滅びの因果に囚われつつあるのか。


 どれだけ考えても答えは出ないが、一つだけ言える事があった。


「此処で貴様に打ち倒されるほど、落ちぶれたつもりは無い」


『守護者』サファは己に残された力を一点に、刃の切っ先へと集中させる。既に『勇者』の《ブレイバー》は、極限まで高まっていた。生半可な攻撃では傷すら与える事が出来ず、サファは命を削らなければ放てない一撃へと己を集中させた。


 体から立ち上る闘気は渦を巻き、死者であるジグムントでさえ一歩退かせる迫力があった。


 だが、そのせいでジグムントは迫る別の存在に気が付いてしまった。白馬に乗った少女は真っ直ぐに、自分の方に向かってくる。


 ジグムントが下された命令は単純だ。敵を倒す事。


 それも倒せる敵から倒すという、極々自然で、それでいて厄介な内容が付随している。


 サファと少女を見比べ、どちらが倒しやすいかは一目瞭然だった。


 聖剣が横に構えられた。


 その時になって、サファはようやくジグムントが自分以外を狙っている事に気が付いた。あらぬ方向から現れた白馬に跨る、というよりもしがみ付く少女をサファは知っていた。


 何故、ここに居るのか。どうしてこの場面なのか。これはレイの指示なのか。


 尋ねたいことは幾らでもあったが、時間は致命的なまでにない。サファよりも早くに構えをとったジグムントの斬撃が、白馬ごとレティを切り裂こうとする。


 サファはそうはさせるかと神速の居合いを放った。


 横の斬撃を上から被せるようにして弾く。見当違いの方向に振るわれた聖剣の斬撃は、アスタルテの足元を深くえぐりとった。地面が陥没する中、白馬は辛うじて体重を掛けられる場所を見出して、跳んだ。


 良く鍛えられた馬だと、サファは状況を忘れて感心すらした。ジグムントの一撃を前に怯むことなく、そして足場の悪い中を高々と跳ぶ姿に唸ってしまう。


 ジグムントの頭上を越えた白馬は、そのまま一歩、二歩と走り抜いてから振り向いた。


 その馬上には、しがみ付いていたはずの少女の姿は無い。


 レティはアスタルテがジグムントの頭を越えて着地するなり、地面へと飛び降りていたのだ。


 そこは『勇者』の間合いだ。この世でも指折りの危険地帯。


 一秒後には、肉体が命なき肉塊へと成り果ててもおかしくは無い。だというのに、顔を上げて白錆すら浮いた鎧を見上げる少女の瞳には恐れは無かった。


 どこまでも重たい覚悟の眼差しがジグムントを貫いた。『勇者』は、その覚悟ごと少女を薙ぎ払おうとして聖剣を振るう。レティの反射神経では、その一撃は避けるどころか知覚する事も出来ない。首の左から右まで通り抜けて、初めて振るわれたことに気が付くだろう。


 しかし、それよりも早く、レティは告げた。


「止まって、『勇者』ジグムント! これ以上、誰も傷つけないで!!」


 それは種も仕掛けも無い、魔法や技能スキルの詠唱ですらないただの言葉だ。


 無力な少女の、無力な訴えと言い換えてもいい。それで止まるような事はあり得ず、力無き言葉は絶対なる力の前では容赦なく蹴散らされるのが運命だ。


 ―――あり得ざる光景に、サファは戦慄すらした。


『勇者』ジグムント。エルドラドの地に降り立った、世界を救った事のある英雄はその聖剣で、数多の敵を屠り、無辜の民の怨嗟を切り裂いてきた。


 なのに、今。


 何の力も無いはずの少女の前で、ジグムントは聖剣を止めていたのだ。


 首筋に触れる刃は、少女の皮を裂き、雫のような赤い血が刀身を伝わる。だが、刃はそれ以上―――動かなかった。


読んで下さって、ありがとうございます。


次回の更新は、日曜日頃を予定しております。

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