8-64 這ってでも前へ
激化の一途を辿る『七帝』同士の戦場。既に辺りは隕石が複数落ちたかのように地形が抉れ、これがたった二人の戦いによって生じた爪跡だとは誰も信じられないだろう。
互いに近距離を得意とする『守護者』と『勇者』。
その間合いは驚くほど近く、斬撃の激しさは世界を切り裂く。聖剣の振り下ろしを日本刀で優しく受け止め、刃で逸らすと、相手の隙を縫うようにサファの斬撃が横に薙ぐ。白錆が浮かぶ鎧の首を左から右へと抜けた。
手応えはある。斬撃の異常な鋭さと速さによって、刀身に一滴の血も付着していないが、首の骨を切った手応えはサファにあった。
だが、ジグムントは死者だ。首を落とされたとしても動きを止める事はなく、鎧の内側に仕込まれた呪符が自動的に損傷個所を繋ぎ合わせるように張り付く。応急処置が済むと、『勇者』は何の支障も無いと活動を再開した。
この時掛かった時間は、刹那ほどの短すぎる時間だった。
「本当に、死者という奴はやりがいが無い!」
どれだけ切っても致命傷に至らず、体を切断して分けようとしても鎧の内部に敷き詰められた呪符が傷口を繋ぎとめてしまう。その下にあるジグムントの体は、既に人の姿ではないだろうに、帝国の我欲が人の形だけを維持し続けていた。
ジグムントを後押しするように《ブレイバー》の効果がじわじわとサファを苦しめていた。劣勢になればなるほど、ジグムントの能力値は増加する。戦争が長引くにつれ、無念に散っていた兵たちの思いが流れ込み蓄積していた。
剣の冴えは恐ろしい領域にまで達し、サファですら死を覚悟する一撃が当たり前のように繰り出されてきた。
もっとも、それを全て無力化し、あるいは回避してきたこの男もまた非凡なのだろう。元日本人のエイリークから作り方を教わった着流しは、特にこれといった仕込みの無い平凡な衣服だ。それがいまだに原型を保ち、その下にある、鍛えたとは言い難い痩せこけた体が傷一つないのは奇跡を通り越して異質と言えた。
聖剣の突きを刀の腹で止めると、衝撃を殺し切れずサファは後ろへと弾かれる。起伏の少なかった平地は激闘の影響で陥没し、逆に隆起した場所も少なくなかった。そのうちの一つに激突する寸前、男は地面を蹴ってコブのように隆起した岩を回避した。
そうしなければ追いかけて攻撃を加えようとしたジグムントの刃を浴びる事となっていた。
岩の向こう側へと着地するのと同時に、岩が爆発した。
ジグムントが突進から聖剣の熱線を放ったのだ。
白色の光が視界を塗り潰す中、サファは意識を集中させ、目の前の空間を切った。
聖剣から放たれた、光を収束したような熱線は裂けた空間の中へと吸い込まれ、どこかでエネルギーを失うまで直進し続ける事となる。
サファが空間を切り裂くに至るまでにかかった時間は二百年。エルフの大移動が始まり、そして終わり、それから間もなくエイリークらと繰り広げた珍道中が一つの歴史書として世界中に広まった頃だ。
同じエルフの者らから、どうやっているのだとコツなどを請われるが、サファとしては何とも答えようが無かった。切ることだけに特化して修練を積んだ結果、この領域に達してしまった。刀を振るう時、何もないはずの空間に、重みと手触りを感じるようになり、それを切る事を想像して何度も刀を振っていたら、いつの間にか出来てしまった。
戦技でも、技能でも無い、サファが修練の果てに辿り着いた技術だ。
それを持ってしても今のジグムントを止めるのは至難の技だった。聖剣は発光を止めず、第二、第三の熱線は休むことなく放たれた。そうなると自然、サファも足を止めて空間を切断することへと追いやられてしまう。
サファの足が止まると、二人の距離は縮まっていき、再び死線が幾重にも折り重なる死地が出来上がる。
「嫌になるね。これでも千年以上生きてる爺なんだぞ。少しは労わってくれないか」
生者と死者。
幾つもの違いがある両者ではあるが、その違いを一つだけ絞るとしたら、それは体力の有無だ。生者であるサファとて三日三晩戦い続けるという事は不可能ではないにしろ望まない事だ。一方で死者であるジグムントに体力の低下による影響は微塵も存在しない。それこそ三日三晩戦い抜く事が出来る。
致命傷どころか、かすり傷すら浴びていないサファといえど、その体力は限界に近づいていた。《ブレイバー》の効果によって尻上がりに調子を増していくジグムントに合わせて、自分の力を解放してたこともあり、余力が残っているとは言い難かった。
斬撃と光線が織り交ざる猛攻を前に、サファは自身の死を、そう遠くない出来事だと覚悟した。
もっとも、自身の死を覚悟する戦いなど、両手両足の指を使っても数え足りないほど経験してきた身であるため、今更それで臆病になったりすることは無い。そして、それら全ての戦いを超えて、生き延びてきたという事実がサファにとって最大の支えであった。
(元から、負ける覚悟で武器を取るつもりは無い。勝ってこそ、生きてこそ意味がある)
死に名誉は無い。
あるのは無念に朽ち果てた屍だけだ。
余分な思考を打ち消し、サファはより深く戦闘に没頭しようとした。そうする事で、自身をより高みに置き、一振りの剣となろうとした。
深い集中は同時に周りへの警戒を怠らなかった。この状況下で一番恐ろしいのは六将軍による横入りだ。流石に強化された『勇者』と六将軍の二人は同時に相手する余裕はない。
だからだろうか。
急速に迫ってくる飛翔物体に、サファはいち早く気が付いたのだ。
風きり音を耳朶が拾い上げると、サファはそれを飛竜による爆撃だと判断した。帝国が今回の戦で飛竜を投入しているのは知っているため、ある意味自然な想像と言えた。
ジグムントを巻き込んでの爆撃を彼は想定していなかった。流石に、『勇者』をこの外地での戦争で使い潰すような真似をするはずがないと、頭から思い込んでいた。
そのため、風きり音に素早く反応し、まさかという思いで振り向いた彼は、しかし全く違う光景に面喰った。
飛翔物体の正体とは、人間だった。
恐らく帝国の正規装備を纏った兵士なのだろう。それがどういう訳か空中で弧を描いていた。
予想外の事態にサファの思考は停止するが、体は最適解を叩きだす。
死角から繰り出されたジグムントの斬撃を呼び込みながら避ける事で、空を舞う人間の軌道に『勇者』をおびき寄せた。即座に聖剣は同じ軌道を逆から進もうとするが、それはサファの居合いで防いだ。かくして回避も防御も出来なかった『勇者』は弧を描いた人間と激突した。
鎧の内側で肉体が潰れる音がしたが、果たしてどちらからだろうか。
嫌な音を立てながら地面を転がる二人から視線を切ったサファは、続いて飛んできた物へと斬撃を放った。空中で二つに分かれたモンスターの血が空間を赤く染めるが、サファはそれすら浴びることなく避けた。
「一体、何処のどいつがこんな人間投石を思いつ……何だあれは」
視線を空から地平に戻したサファは、地面を疾走する巨大な怪物を発見した。主戦場を舐めるように移動する怪物は、遠目で見ても超級、あるいは超弩級モンスター並みの巨大さを誇っている。流石に黄龍とは比べ物にはならないが、それこそ迷宮のボスと言われれば納得する巨大さだ。
問題は、その外見だ。
狼のような体毛に胴体は覆われ、大地を走る足は蜘蛛の如き細さと数を揃え、どういう訳か腕のように伸びた幾種類もの触手が辺りの物を手当たり次第に投げていた。そのうちの一つが、大きく弧を描き、サファの元へと届いた。今度はデゼルト国の兵士だ。
金属鎧を身に纏った人間が高速で迫れば、衝撃はそれなりの物となる。事実、ジグムントですら不意打ちとはいえ直撃を浴びれば吹き飛ぶ程度。それに対してサファは刀を仕舞い、そしてぶつかる寸前、兵士の襟首を掴んだ。
そのまま、男の持つ運動エネルギーが放出されるように、回転するサファ。一周、二周、三周と数を重ねていくとようやく速度が低下した。そしてエネルギーを使い切ったのを確認して動きを止めると、掴んだ男の顔を覗き込み、舌打ちした。
既に事切れていた。
投げられる前か、あるいは投げられている間なのか。いつ死んだのか不明だが、情報は得られない。男を丁寧に寝かせる間も、奇妙なモンスターによる投石ならぬ、投人は続く。あちこちで落下した人間の腸や肉塊が散らばり、『七帝』の戦場を血腥く装飾した。
ふと、視線をモンスターよりも手前に移せば、そこには記憶を刺激する物があった。
奇妙なモンスターに追われているのは、ニチョウが引く馬車だ。
悲鳴が耳朶を揺さぶる。
上げているのはレイ達では無く、主戦場で命の削り合いをしている兵士たちだ。ディオニュシウスの背中に生えている、無数の触手は辺りの物を掴んでは投げるという攻撃を仕掛けて来た。
狙いは前方を走る馬車。より正確に言えば、そこに乗っているレイだ。
戦場へ乱入しようとした魔人を《心ノ誘導》を使い、意識を自分に向けさせたのは良いが、互いの距離が縮まらない事に業を煮やしたのか、ディオニュシウスは投擲を繰り返すようになった。
地面から頭を出している巨石などを掴んでは投げ、馬車を直接狙うか、あるいは馬車を超えて進路を妨害しようとしている。
それだけならばまだ対処できた。宙を舞う岩を砕き、あるいは触手の一部を攻撃することで相手の投擲を防げばよかった。
しかし、ディオニュシウスは方針を変えた。
触手を戦場に大勢いる兵士たちへと向けたのだ。
人といっても、金属の鎧を纏った物体。それが放物線を描いて激突すれば、巨石と衝撃はさほど変わらない。いや、それ以上にレイ達の精神が影響を受けていた。
訳も分からないまま触手に絡めとられ、天高く持ち上げられたと思ったら、そのまま高速で投げられる。待っているのは固い岩盤の如き地面だ。悲鳴が尾を引き、激突と共に血と肉の花が咲き誇れる。
歴戦の冒険者であるミストラルでさえ目を背けたくなる光景に、年若いレイ達は血の気を轢かせる。そして、これ以上は繰り返させないとばかりに抵抗を行った。
「手前と奥は生者、それ以外は死者よ!」
シアラが金色の瞳を輝かせながら指示を出す。それに従ってレイ達は攻撃を繰り出した。
《ラプラス・オンブル》による、死の影は生者にしか宿らない。つまり触手に絡めとられた時点で影が纏わりついていないのは死者と言う事だ。
彼女の選別によって、レイ達は兵士たちがなるべく犠牲にならない様に戦っていた。
再び悲鳴が連鎖する。シアラが餞別を済ませると、ミストラルが矢を繰り出し、それに続く形でレイも龍刀から炎を刃として放つ。
触手が半ばで焼けきれた事で、高く持ち上がった兵士は重力に絡めとられ真下に落下する。そのまま地面に激突するか、あるいは他の人を巻き添えにするかまではレイ達の位置からでは確認できない。
気休めかもしれないが、ミストラルが範囲回復魔法を施すしか方法は無かった。
レイ達三人が人を弾に見立てた投石を防ぐ間、攻撃を受け持ったのはエトネだ。
ケラブノス石が大量に詰まった木箱を脇に置き、彼女は呼び出した精霊の力を借りながら、石を投げる。レイが前に戯れで教えた野球のオーバースローから繰り出される速球は、彼女の狙い通りの位置に吸い込まれるように届く。
紫電を帯びた石は鳴動するように点滅し、ちょうどディオニュシウスにぶつかる寸前に爆発する。爆炎が狼のような顔や、蜘蛛の如き細い足を何度も抉り、その度にディオニュシウスの速度は落ちていった。
しかし、それに比例するように魔人の殺意は増加していき、今にも溢れんばかりの勢いとなっていた。
「グルウウウウウ! シネ、シネ、シネエエエエエエエ」
大きく裂けた口から怒気と共に放たれる言葉は、それまでの傲慢だが礼儀を持ち合わせていた武人めいた姿とは大きくかけ離れていた。まさに、身も心も化け物となった様にしか、レイには思えなかった。
「さっきまでの姿は何だったんだよ。それとも、こっちが本性だった訳か!?」
「ディオニュシウスの奴め。《狂気》に飲まれましたね」
同じ頃、主戦場よりも北の地でマクスウェルとクリストフォロスは壮絶な魔法合戦を繰り広げていた。辺りはぶつかりあった魔法の影響から異界の如き様相を為し、『七帝』同士の戦いとは別の意味で、ここがどんな地形だったのか想像できなくなっていた。
そんな中、地響きを鳴らしながら近づく存在に両者は気が付き、そちらに意識を向ければ互いに絶句したのだ。
マクスウェルは見た事も、そして何よりもモンスターの生態学的にあり得ない存在に衝撃を受け、クリストフォロスは同胞が秘密を明かし、本来ならあり得ない行動に出ている事に眉を顰めていた。
「ディオニュシウスじゃと。お主、まさかあれが六将軍第六席だと言うつもりなのか!」
「ええ。こうなれば仕方ありません。秘密にしても無駄ですし、そもそも秘密にするだけの価値もありません。あれが私達の六将軍の末席に位置する魔人、ディオニュシウスですよ」
当たり前の話だが、六将軍達はディオニュシウスの正体をフィーニスから聞かされていた。特に、人魔戦役の指揮を執っていた参謀のクリストフォロスは更に踏み込んだ情報を教えられていた。
聖印を与えられた人造モンスターが獲得した物。それは《魔王ノ理性》と《魔王ノ狂気》だった。
どちらも戦闘において直接力を発揮する類の能力ではないが、これが無ければディオニュシウスはただの肉の塊と同じだとフィーニスは説明していた。
「あれはね。生まれて何もできないまま死ぬことを憎み、それだけを支えに復讐心を尖らせていたんだ。でも、こうしてカタリナに見いだされ、ぼくの憎悪を取りこんだことで、彼はそれ以上の成長を望めなくなった。欲求だけが理性や狂気以上に成長し、満たされてしまって満足したんだね。だからこそ、彼にはぼくを『魔王』たらしめる理性と狂気を分け与えたんだ」
理性無くして狂気はあり得ず。
狂気無くして理性はあり得ず。
この二つを持ってして、ディオニュシウスは知性を得たのだ。
魔人として振る舞う時は、理性の方に天秤を傾ける事で、武人らしい人格を構築できた。しかし、クリストフォロスの眼前で奇異なる姿を晒すあれは、真正のモンスターであった。おそらくモンスターとしての形状へと変身するにつれ、狂気の方へと天秤が傾いているのだろう。
正常な判断を下せるかどうか微妙な所だ。
とはいえ、ディオニュシウスに関して問題は無かった。あれが狂気に陥ったとしても、六将軍側の目的は果たせる。人々を凄惨なる惨禍へと突き落す事ぐらい、今のディオニュシウスでも十分役割は務まる。
気になるのは、ディオニュシウスが追いかけている点のような存在だ。
あれは何だと『窓』を呼び出そうとするも、マクスウェルが長杖を振りかざし魔法を放つ。
「いいのですか、『三賢』。あのような禍々しき存在を放置しても」
「良い訳あるか。じゃから、お主を速攻で倒して、あれをどうにかしなくてはいけない。であるからして、お主に頼みがある。大人しく、死んでくれんかのう」
「はは、御冗談を!」
呵々大笑。楽しげに笑ったクリストフォロスはマクスウェルを打ち倒すための魔法を展開した。
クリストフォロスの言葉は概ね正しかった。
ディオニュシウスは自己の体を、より異形へと変化させるにつれて精神が狂気に侵されつつあるのを、気が付かないでいた。健全な肉体に健全な精神が宿るのなら、異形の肉体には、それに相応しい精神が宿るのは道理だ。
それに加えて、レイの《心ノ誘導》を浴びた影響で、意識がよりレイの方へと引き寄せられていた。だが、それとは別に、冷徹な理性は残っていた。
目的の為に視野が狭まった狂気を、後ろから支える補助の役割として、理性は働いた。眼前を走る馬車を止めるためにディオニュシウスは体を更に変化させた。
一口に変身変化というが、ディオニュシウスのは、自分の細胞を組み込まれたモンスターのそれに変化させる。そのため全身が一種類の個体に統一されている方が体に掛かる負担は少なく、大きく、かつ複雑な機構を兼ね備えた物へと変身するほど体力は消耗されていく。
その点で言えば、更なる変身を行おうとする理性は、決して狂気の歯止めをしている訳ではない。本能に赴く狂気が、目的を果たせるようにしているのだ。
狼の体。その腹の部分がぼこぼこと音を立てると、何本もの触手が皮膚を突き破って現れた。そのまま流れる地面へと潜る触手は、毒腺から流れ出す毒液で大地を溶かしながら前を行く馬車を追いかけた。
あっという間に追いついた触手が地中からレイ達を狙う。
「な、下からだと!?」
気が付いた時には遅かった。地面を砕きながら伸びた触手は、そのままレイ達の乗る馬車をも、下から貫いた。一瞬の浮遊感と共に、耳朶に木が衝撃で軋む音が響く。
それはあっという間に広がると、サファから貰った魔法の馬車が砕ける。乗せていた荷物が散乱し、レイ達も為す術がないまま、宙へと弾かれた。
前へと進んでいたのが幸いしたのだろうか。レイ達は真上では無く、前方に向かって投げ出されたお蔭で、待ち構えていた触手の木々に絡めとられる事はなかった。
だが、地面へと激突したレイ達にあまり時間は残されていない。
起き上がると同時にレイへと触手が津波となって襲った。どれもが毒腺からしみ出した毒液に濡れ、掠めただけでも絶命するかもしれなかった。
しかし、レイに触手が届くよりも前に、彼らに大寒波が押し寄せた。
「《アイスエイジ》!」
シアラが唱えた魔法が、触手を一瞬にして凍結させたのだ。馬車が壊される直前まで詠唱を続けていたシアラは受け身も満足に取れなかったのか頭から血を流しつつも、魔法への集中を解かずにいた。
「主様、走って! ディオニュシウスは主様を狙ってるの! ここに居たら、殺されるわよ」
《アイスエイジ》が凍結させたのは地面を突き破って押し寄せた触手のみ。幾つものモンスターの姿を具現化している本体は依然として健在であり、蜘蛛の足がレイの方へと真っ直ぐに向かっていた。
エトネのケラブノス石による爆発や、キュイの激走のお蔭で幾らか距離は稼げていたが、それでも巨大モンスターの歩幅では、走っている間に追いつかれてしまう。レイがキュイの様子を見ようと辺りを見回すと、そこに居たのは倒れ伏すニチョウにしがみ付くレティの姿だった。
「レティ。キュイはどうしたんだ!」
呼びかけに振り向いた少女は顔を青ざめさせ、必死の形相で主に伝える。
「どうしよう、ご主人さま。キュイ、触手の毒液に触れたみたいで、意識が戻らないの。それに、様子も変なんだよ」
彼女の言う通り、キュイの様子は素人目でも危険な状態に思えた。瞳孔は開き、口から泡を吹いているから毒消しの薬は飲めず、毒液が触れた箇所は肉が変色していた。このままでは危険な状態だ。
同時に厄介だとレイは呟いた。
レティが何のために北へと向かっているのか分からないが、ここに来て足が無くなるのは死活問題だ。後ろからはディオニュシウスの迫る震動が響いていた。
死に向かいかけているキュイを前にレイが呆然と立ち尽くしていると、後ろから女性の鋭い声が飛んだ。
「レイ様、レティちゃん。そこを退いて下さい」
銀髪を翻す美女はミストラルだ。彼女は空いたスペースに体を捻じ込むと、キュイの状態を診断し、回復魔法を施す。
「《この者に神の息吹を》《ピュア》」
光の雫がキュイに降りかかると、毒素が体の中から排出された。死相すら浮かんでいたニチョウはどうにか一命をとりとめた様子だ。
しかし、流石に起き上がって走る事までは無理そうだ。
どうするべきかと考えるレイを余所に、レティは既に考えを、いや、覚悟を決めていた。彼女は立ち上がるなり、
「ミストラルさま。後をお願いします」
と、言って走り出したのだ。彼女とて疲弊しているはずなのに、少しでも目的地に近づこうと形振り構っていなかった。
キュイが立てないのならば、自分の足で。その足も折れたのなら、這ってでも前へ進もうとするその姿に、レイは考え過ぎていたと自分を笑った。
「ミストラルさん。申し訳ないけど、キュイやシアラ達の事をお願いします。僕らは、少しでも前に進みますから」
「……分かりました。お気を付けて」
本来なら、その無謀を止めるはずのミストラルは言葉を飲み込み、レイ達を見送った。
読んで下さって、ありがとうございます。
次回の更新は金曜日頃を予定しております。




