8-60 ディオニュシウスⅤ
意識を取り戻した時、真っ先に感じたのは息苦しさだった。プールの底から水面に向かって泳ぐ時に、肺の中が苦しくなっていくのと同じ感覚だった。呼吸をしようとすると、血が細かい飛沫となった。
暖かい液体が顔にべったりと塗りたくられ、それが呼吸を邪魔している。レイは朧げな意識のまま、手で顔を拭った。ブレイブサラマンダーの手袋を見れば、鮮血が赤い手袋を更に赤く濡らした。
ディオニュシウスの蹴りが顔の下半分に突き刺さったせいで、顎の骨は砕け、鼻は潰れていた。顔を汚す血が、どちらから流れているのか定かではないが、口から喉へと流れ込んだ血液が気管に入り込むとレイは咳き込んだ。口内に溜まっていた血が塊となって吐き出され、乾いた大地に赤黒い染みが生まれた。
立ち上がろうとするも腕に力が入らず、そのまま自分の作った染みの上に倒れこむ。
気を抜けば、今にも意識が闇に落ちそうなほど、脆く危い。元々、魔力を使いきった指輪に自分の生命力を差し出して二度目の《全力全開》を発動した。代価とばかりに根こそぎ奪われた生命力を補てんしてくれたのはレティだ。
彼女が新しく手に入れた回復魔法によって、レイは多少なりとも回復できた。それが今まさに、尽きかけていた。
もっとも、レティの献身的な行為が無ければ、ディオニュシウスの蹴りを浴びた時点で死んでいてもおかしくなく、こうして辛うじて生を繋げているのは全てレティのお蔭だ。
それを自覚しながら顔を上げたレイに飛び込んで来た光景は―――悪夢そのものだった。
首なし鎧の暴れ狂う嵐から退避するシアラ達。そんな中で一人、逃げきれなかった少女が嵐に掴まったのだ。
ディオニュシウスがレティを片手で拘束すると、もう片方の手を頭に沿えた。いや、あれは添えたという優しい表現では済まない。もっと暴力的に鷲掴みにしていた。
心臓が一際強い鼓動を打つ。
脳裏を過るのは、アクアウルプスでの戦い。エレオノールに拘束され身動きが取れない中、為す術なく、レティが死ぬ所を見せつけられた瞬間だ。
レティが捕まった事に焦るシアラが通じないと分かりつつも魔法の詠唱を始め、エトネが辛うじて繋がったままの精霊の力を借りて大地を蹴り、ミストラルが自分のミスに舌打ちしつつも矢を番える―――よりも早く、ディオニュシウスはレティの首を折った。
左手で彼女の体を固定して、そして右手に力を込めた。まるで、花壇に咲き誇る花を摘むかのように、簡単に、呆気なく、どこまでも無慈悲に、首を折った。
一瞬、辺りは奇妙な静寂に包まれ、否が応にも乾いた音を耳朶は拾い上げる。
乾いた枝を手で折るような、あまりにもあっけない動作で殺されたレティの体が地面に投げ出されると、レイは知らずの内に絶叫を上げていた。
「―――ッアアアアアアァ!!」
怒りが体に充満すると、動かないはずの体に力が漲る。まだ辛うじて残っていた精神力が怒りと共に体の隅々まで行き渡り、レイに立つ力を与えたのだ。言葉という鋳型に押し込める事も出来ない真っ赤な怒りと共に、少年は魔人へと駆けだそうとした。
しかし、その怒りに水を差すように、右手の甲が痛む。
慣れ親しんだとは言い難いが、身に覚えのある痛みは手の甲から始まり、腕、肩と昇っていく。そして、戦奴隷との間に結ばれた対等契約がレイの生命活動を停止させた。
視界が傾き始める。レイの目には、まるで地面が起き上がったかのように見え、それはすぐさま真っ暗な闇に切り替わった。怒りと共に激しく打ち鳴らされた心臓は、これ以上鼓動を刻む事はなく、そしてレイの体は今度こそ動かなくなった。
★
悪夢のような光景だった。
草木も生えない赤い岩山だらけの場所で、レイは拘束されていた。首は地面に固定された枷を嵌められ、四肢には直接杭を打たれている。あちこちで火の手が上がり、その熱が地面を伝ってレイの体を炙る。
うつぶせの状態で、下から熱を加えられている状態のレイに近づいたのは、周りの景色とは違う青い鬼だ。腰布だけを申し訳程度に巻き付け、むき出しの肌は金属のような光沢が浮かぶ。それが一匹では無く、何十ともレイを取り囲んでいた。
そして、彼らは手を伸ばした。
無防備に晒している背中を、鋸のように鋭い指で摘まみ、千切った。
「ぐぅ、あああ!」
肉が抉りとられる。面積にすれば、本当に指先で摘まめる程度。だが、その痛みは想像以上だ。皮が裂け、肉が抉られ、神経や血管が引き千切られる。それが一度で終わる訳も無く、一体で終わる訳も無い。
レイを取り囲む何十もの青鬼がレイの背中を容赦なく千切っていった。あっという間に背面は血みどろの様相を為し、皮膚で隠れていた筋肉が荒れた地面のように波打っていた。
しかし、青鬼たちは此処からが本番だとばかりに、再び群がった。
筋肉が丁寧に、余すところなく千切られる。その奥に隠れていた器官も、骨も、何もかも。
レイという人間が肉片になるまでその行為は終わらず、肉片となれば再生して再び行われる。
いつ終わるとも知れない悪夢をレイと、そしてレティは味わい続けた。
★
―――だが、本当の悪夢は此処からだった。
「―――っう! ごほっ、げほっ!!」
目覚めると同時に感じたのは、暖かい液体に口と鼻を押さえられ、呼吸が苦しい事だった。レイは咳き込みながら、状況を確認する。
レティと共に死んだことでペナルティが進行し、髪の白色化が進むのを何とはなしに感じながら、レイは今がどのタイミングなのか理解して絶句した。
瞬きを繰り返してピントが合う視界に飛び込んで来た光景は、先程と全く同じ光景だった。
ディオニュシウスに拘束されたレティが今まさに命を文字通り手折れそうになり、彼女を助けようとシアラ達が動き出していた。
多少の相違点を見出そうとするのなら、レティの様子だろうか。おそらく、彼女は死に戻りのイタミで意識が混濁しているのか、ディオニュシウスの手の中で力を抜いていた。
―――ああ、これは駄目だ。
言葉に出さずに、レイは絶望に囚われていた。あと十数秒もすれば、先程の光景の焼き直しだ。レティの首が折られ、彼女の死を引き金に自分も死ぬ。二人であの死に戻りのイタミを味わい、そしてここに戻ってきてしまう。
それだけは絶対に阻止しなければならない。
だというのに、体は満足に動かなかった。レティが殺され、そして今まさにまた殺されそうになっているというのに、レイの四肢は夜の海に囚われた様に重く、冷たくなっていた。
代わりに心臓は鼓動を強め、流れていく血の中で恐怖が運搬されていく。
そして、ディオニュシウスの右手がレティの頭部を掴み、彼女の幼い体に圧力が掛けられた。
一瞬、彼女の小さな口から空気が押し出され、そして木の枝を折るような乾いた音が耳朶に飛び込んだ。
どさりと、投げ出されたレティの首はあり得ない角度に曲がり、たまさかレイと視線が合った。虚ろなエメラルドグリーンの瞳は光を失い、伽藍洞のように深淵が顔を覗かせていた。そこに引きずり込まれるようにして、レイもまた死の淵から飛び降りる事になる。
二度目の死が、二人をその腹に飲み込んだ。
★
二度目の死に戻りが終わり、そして、三度目の死が始まろうとする。
死のイタミで白色化する髪に見向きもせず、レイは虚ろな瞳で、眼前で起きようとしている悪夢を直視した。ディオニュシウスがレティを片手で拘束し、今まさに右手を持ち上げている。
何ら変わりない、十数秒の繰り返し。
これこそが、レイの恐れていた状況だ。
意識を覚醒してから十数秒以内に自分か、あるいは誰かが死ねば、《トライ&エラー》で戻れるのは僅か十数秒前。そして十数秒後には体験した死が容赦なく襲いかかり、それに殺されれば、戻れるのはまた十数秒前。
それがまさにレイ達の身に降りかかっている惨状だ
回転木馬が回り続けるのと同じで、逃げ場のない死の円環に閉じ込められてしまった。
あと十秒もすれば、レティは死ぬ。首の骨が折れ、育ちきっていない体が地面に落ちる。花が開く前の蕾が落ちるように、彼女の命は散る。
そして、彼女の死を引き金に対等契約の楔が、自身を襲う。
二人を待っているのは終わりなき死の循環。レティの死がレイの死を呼び、二人の死が次の死を誘う。このまま何もしなければ、待っているのは永遠に死を味わい続ける地獄か、あるいは死のイタミに屈して本当の死を得るかのどちらかだ。
それを回避する方法は二つしかない。
一つは、レティを見捨てる事だ。
戦奴隷の対等契約を解除すればいいのだ。そうすれば、死ぬのはレティ一人であり、自分は生き残る。やり方は知っている。アクアウルプスの戦いで、エレオノールに体を操られた時、奴隷契約を解除したのだ。
そのやり方はまだ覚えていた。
ただ一言、奴隷契約の破棄を告げれば、それで二人を縛る鎖は露となって消え、そしてレティが一人で死んでいくのだ。
―――そんな事、認められるわけがないだろう。
レイは、考えるまでもなく、その選択肢を放棄する。自分一人だけが助かる為に、レティを捨てるなど、あってはならない事だ。
《トライ&エラー》という、死をやり直せる力を持った以上、自分の命を誰かの命の上位に置いてはいけない。レイはこの力を使うにあたり、そのように考えていた。助かるなら、レティと一緒でなくてはいけない。
しかし、そんな奇跡のような方法があるのだろうか。
―――いや、あるとも。
レイは、考えるまでもなく、その選択肢を選んでいた。というよりも、最初からその方法しかないと覚悟していた。
この死の円環はいずれ訪れるだろうと覚悟し、如何するべきか幾つもの可能性を思い描いてきた。それでもこれ以外の方法は思いつかなかった。
使えば最後、誰かを失うのは明白な禁断の力だ。もしかしたら、リザを失うかもしれない。あるいは、シアラを失うかもしれない。それとも、エトネを失うかもしれない。もしかすると、失うのがレティなのかもしれない。
だが、それでも構わなかった。
未来で失うこと以上に、いま失う事の方が自分は耐えられない。
レティは二度にわたる死の感触と、死のイタミに意識が明滅を繰り返していた。体を鷲掴みにされ、万力の如き圧力を掛けられている自身を、どこか他人事のように感じていた。
魔人の大きな手が頭の方へと持ち上がるにつれ、拘束している左手に力が入る。途端に、体の各所が悲鳴を上げる。ディオニュシウスは見た目の割に繊細で用心深いのか、首の骨が折れるのと同時に、体にもありったけの圧力を掛ける。そのせいで骨は砕け、内臓は破裂するのだ。
生き残る可能性を極限まで零に近づけようとしているのだろうか。彼の努力は実ると保証されていた。
過去二度の死は、どちらも即死だった。
この状態から、彼女が自力で脱出することは不可能だ。
単純な筋力で上回ることなどできず、魔法を使う余裕も無い。言ってしまえば、ギロチンの真下で首を差し出しているようなものだ。あとは死刑執行人が刃を落とすのを、黙って待つしかできない。
弱者が強者の前に立つとき、何時だって選択肢は弱者の側には無い。理不尽だと泣き叫んでも、それが絶対のルールだと言わんばかりに、その法則はこの世に存在した。
―――あたしは、なんで弱いのだろう。
これまでに何度繰り返したか分からないフレーズを、レティは胸中で呟いた。
一人残された黄龍討伐の時も、レイがフィーニスの憎悪に囚われた時も、アルビノ砂漠で超級モンスターの群れを前にした時も、アクアウルプスでの惨劇が終わった時も、シアトラ村地下にレイを残してきた時も、シュウ王国で発生したスタンピードに巻き込まれた時も、前の主人に囮として捨てられた時も。
そして、あの時も。
リザと共に隠れ住んでいた修道院に帝国軍が押し寄せ、『勇者』ジグムントの刃が向けられた時も彼女は自分の弱さを嘆いていた。
あたしは弱かった。
あの時、自分だけでも死ねれば、あるいはこんな事にはならなかったかもしれない。
帝国四大貴族の一つによる内乱が起きたのは、自分が生まれてしまった事が原因だった。だから、あの時、ジグムントの刃を素直に受け入れる勇気があれば、死ぬ勇気があればきっとこうはならなかったはずだ。
こんな形で、ご主人さまの足を引っ張る事なんてなかったはずだ。
あの時だってそうだ。
あたしが死ねば、お姉ちゃんは見逃してもらえたはずだ。二度と家名を名乗らない事を条件に命は保証されたはずだ。死ぬまで監視が付くだろうが、それでも平穏な一生は送れた。実際、投降の呼びかけは再三行われていた。
あたしの命を差し出せば、修道院の人間たちの安全は保障する、と。
でも、あそこに居た人たちはあたしたちを守る為に最後の一人になるまで戦い抜いた。戦って、戦って、戦って、そして皆死んでしまった。
それでも、お姉ちゃんだけが生き残る術はあったのだ。
全ての原因となった自分が死ねば、それで物語は幕を引くはずだった。
なのに、あたしは弱かった。
生きたいと願ってしまい、そしてやってはならない事をしてしまった。
結果として、あたしたちは辛うじて生き残る事が出来た。姉妹揃って戦奴隷に落とされ、表舞台に戻らない事を条件に闇へと追いやられた。その代りに、お姉ちゃんは背負わなくてもいい重荷を背負う事になった。
『勇者』への重すぎる復讐心に自らを苛まれながら、お姉ちゃんはあたしを護り続けた。茨のようなそれが肌に食い込み血を流すのも承知で、どちらも手放す事をしないで、歩き続けた。きっと、歩いた道には流した血が点々と続いているのだろう。
そしてあたしは、自分が生き延びた事でお姉ちゃんが苦しむ所を後悔し、死ぬ機会を待ち望みながら生きて来た。自分さえ居なくなれば、きっとお姉ちゃんは幸せになれると、そう、今でも信じていた。
そんなあたしの気持ちを嘲笑うように、神様は奇妙な、そして奇跡のような出会いを与えて下さった。
ご主人さまだ。
穏やかで、頼りなさそうで、でもいつだって一生懸命、理不尽な運命に立ち向かう、あたしのご主人さま。
ご主人さまに出会った事で、お姉ちゃんは少しずつ変わっていった。
茨のような復讐心は変わらないままだけど、そこにもう一つ、別の感情が生まれてきた。それが恋とかのような明るくて、ふわふわとした感情なのかどうかはまだ分からない。
あたしはそれに気が付いて安心した。
『勇者』への復讐心だけで生きてきたお姉ちゃんが、それとは別の感情を抱いた。この先、その復讐心が満たされるか、あるいは消えた時、それまで支えて来た強い感情が無くなったら、お姉ちゃんは果たして生きていけるのか不安だった。
でも、復讐心とは別の、生まれたての感情がある限り、その心配はしなくてもよくなった。
こんなに素晴らしい事は無い。
これで、安心して死ぬことが出来ると思ったのは、多分、誰にも気づかれていないはずだ。
でも、あたしの願いは中々叶えられないでいた。戦奴隷の対等契約で縛られているせいで、あたしが死ねばご主人さまが死に、そして死に戻りが発生してしまう。
つまり、あたしは死ねないのだ。
死ぬことを許されていないのだ。
こんなにひどい話があっていいのだろうか。
死にたがりのあたしが、死ぬことのできない状況に陥るとは、皮肉な運命とでも嗤うしかない。予行練習とばかりに何度も死の感触を味わい、イタミを耐えて戻るという経験を繰り返してきた。
もしかすると、このイタミに屈すれば、そのまま死ねるのかもしれない。そんな誘惑に何度もかられ、しかし、あと一歩の所で実行する勇気は無かった。自分に何かしら都合のいい理由を作り、誤魔化し、汚くも生き延びてきた。
その報いを受ける時が来たのかもしれない。
あと数秒もすれば訪れる無慈悲で絶対な死。そしてそれを始点とする死の輪。
この死の輪から抜けるには、方法は二つしかない。
一つは奴隷契約の破棄だ。
あたし達を鎖のように繋げて縛るこの契約が無くなり、あたしだけが死ねば、この輪は循環しない。あたしが死んで、ご主人さまは生き残り、時は流れる。問題は、契約の破棄を出来るのが、ご主人さまの方だけという事だ。
彼は優しい人だ。
恐らく、あたしなんかを見捨てる事も出来ずに最後の瞬間まで足掻くのだろう。彼が、傷つきながらも、もがきながらも、歩みを止めようとしなかった場面は、幾度も見てきた。修道院で学んだ過去の殉教者や、聖人に並ぶ尊さがそこにはあった。
だからこそ、止めて欲しい。
あたしは、貴方のような尊き人に救われる価値なんて、無い。
だから、あたしはもう一つの手段を選ぼう。あの人が自らを犠牲にするよりも前に、この命を自分で絶つ。
つまり、自殺だ。
《トライ&エラー》において、自殺は許されざる死のようだ。ご主人さま曰く、自殺した場合の死に戻りは成功するが、その後は技能が使えなくなるという。だから、あたしたちにも安易に自殺はするなと厳命していた。
だからこそ、あたしは自殺を選ぶ。
あたしが自殺したことで、《トライ&エラー》が『使用不可』となれば、どれだけ優しいご主人さまでも決断を下すはずだ。
あたしを見捨てる、という決断を。
卑怯なやり方だ。軽蔑に値する。
ご主人さまを追い込むために言い付けを破り、自分で自分を殺し、その上で見捨てるという決断をさせようとするのだ。
しかし、これ以外の方法は思いつかなかった。
このまま延々と死を積み重ねていき、二人が死に続けるか。
あるいは一人が犠牲になる事で、もう一人が助かる方を選ぶか。
あたしは、後者を選ぶ。勿論、犠牲になるのはあたしだ。
腕を拘束され、全身が悲鳴を上げる状態だが、それでも口は動く。虫歯一つない歯は、舌を噛み千切るのに十分な鋭さを持っているはずだ。
レイが何かを決断するよりも早く、レティは自らの命を断とうと大きく口を開いた。舌を伸ばし、勢いを付けて噛み千切ろうとしたその行為は、しかし、彼女の頭を捉えた腕が一瞬早く、彼女の命を摘んだ。
首が強制的にあり得ない角度に曲がり、全身の骨が折れ、内臓が潰れる音が内部から響く。一瞬の暗転の後、自分が死に引きずり込まれていくのがレティには分かった。
―――失敗しちゃったな。じゃあ、次だね。
暗闇に落ちながら、レティは死への決意を固くした。
★
三度目のイタミも変わる所は無かった。
前回までの焼き直し。赤い岩山ばかりの場所で、うつぶせのまま拘束され、金属の光沢を放つ青鬼の集団に取り囲まれて、肉片になるまで引き千切られていく。
どこか鳥葬に近いイタミの中、レティは意識を手放すことが出来なかった。
自殺をするという強い覚悟が、イタミに耐える強靭な精神を与えてしまった。
近いようで遠く、遠いようで近い場所からレイの気配を感じていたのも、彼女を支えていた要因かもしれない。
レティは言葉に出さずに、レイが耐えられるようにと祈っていた。
彼はここさえ乗り切れれば、この死のイタミを二度と味わう事はないのだから。
★
死のイタミと共に意識が覚醒する。三度目のイタミだというのに、魂を削るイタミに慣れる事は決してなかった。
だが、それもこれで最後だ。
三度の死のイタミを味わいながらも、彼女の決心は変わらなかった。
レティは口を開けて、舌を噛み千切ろうとして―――気が付いた。
周りの風景が奇妙な事に気が付いた。
ディオニュシウスが自分の体を鷲掴みにして、背後ではシアラ達が助けようと奮闘しているという状況は変わらないのに、何かがおかしかった。
自殺するという事を忘れ、レティは翠の目で周りを観察して、何がおかしいのかを理解した。
時間の流れる速度が異常なまでに遅いのだ。
ディオニュシウスが右腕を持ち上げる動きは非常に緩慢で、青銅の鎧に反射して映る背後の光景はスローモーションに映った。まるで時間が解きの刻み方を忘れたかのように、全てが遅かった。
―――ただ二人。自分と彼を除いて。
「《崩剣》!」
戦技を叫ぶ声は、血にくぐもり何と言っているのか、レティには分からなかった。ただ、周りが異常なまでに遅くなった状況で、平時と変わらずに動けるレイに呆然としていた。
龍刀に宿った戦技がディオニュシウスの左手首を切り落とし、レティの体は地面へと落下した。人を潰す勢いで掴んでいたというのに、斬られた手首は力を無くしたように落下の衝撃で関単に外れると、レイが彼女を肩で担ぐように持ち上げた。
そして、時間は正常に動きだした。
「ガァアアアア!!」
頭部を無くした鎧の胴体から再び悲鳴が上がる。切り落とされた手首を天に向かって突きだし、何かを喚いているが、レティの耳朶には一切入って来なかった。
彼女の思考はそれどころでは無かった。
何故、どうして、何で。そのフレーズが何度も繰り返し頭の中で踊っていた。
突如として魔人との距離を詰めたレイがレティを助け出した事に唖然としたシアラ達の傍に、少年は抱えていた少女を降ろした。途端、体は力を失ったように膝から崩れ落ちそうになると、今度は逆に少女が少年を支えた。
「は、はは。これじゃ、あべこべ、だね」
笑う端から血が噴き出るレイに、ミストラルが治療を始めようとする。だが、それよりも前にレティがレイの顔を掴み、下から覗きこんだ。少女の相貌に浮かぶのは戸惑いと、そして怒りだ。
「どうして……どうして、あたしを助けたの!」
助けられたというのに、出てくる言葉は感謝の言葉じゃない事に、レティは自分を恥じる。レイが自分を助けるのに、文字通り身を削ったのを知っているのに、怒りをぶつけようとしている自分が大嫌いだった。
それでも問わずには居られなかった。
「なんで、あたしを助けるのに、《グレートディバイド》を使ったのよ! それを使えばどうなるのか、分かってるでしょ!!」
レティの絶叫に、遅れてシアラとエトネが理解を示した。
レイが何をして、そしてレティが何に怒っているのかを。
《トライ&エラー・グレートディバイド》。
『魔王』フィーニスとの戦いでレイが会得した《トライ&エラー》の進化形とも呼べるこの技能は、得られる効果以上に、支払う代償が重すぎる。
死亡した時点から僅かに五秒だけ時間を撒き戻し、時間の流れを遅く感じさせる。おそらく、レイが死に戻ってから五秒間は、周りの人間には異常な速度で移動したように見えたのかもしれない。だが、その代償に彼は自分の記憶から、認識から、誰か一人を失う事になるのだ。
フィーニスとの戦いでレイはある人物への認識を失っている。顔も、名前も、過ごした時間も、約束したことも、何一つ彼の中には残っておらず、これから先何処かで出会ったとしても、その人を認識することは出来ないのだ。
そしていま、その列に誰かが加わる事になったのだ。
自分なんかを助けるために、レイは《トライ&エラー・グレートディバイド》を使ってしまった。その事実がレティには絶望的な出来事だと襲い掛かっていた。やはり、もっと早くに自殺をすれば、こうはならなかった。
いつだって、決断するのが遅い。あと一歩を踏み出す勇気だけが、自分には足りていない。
いつの間にか、翠の瞳から涙が連なって大地へと落ちていった。レイは何かを伝えようとして喋るも、血が噴き出すだけだった。準備を終えたミストラルが回復魔法を使用すると、傷口は塞がり、失われた生命力が戻って来た。後に残されたのは固まった血だけが顔を汚していた。
レイは自力で立ち上がると、レティの体を抱き締めた。自分よりも小さな少女が嗚咽を漏らすのを、レイは優しく撫でた。
「そんな風に言わないでくれ。僕は君が居なくなったら凄く、凄く寂しいよ」
「でも、でも、その力を使えば、誰かを失うんだよ。お姉ちゃんかもしれない、シアラお姉ちゃんかもしれない、エトネかもしれないし、ファルナさまや、ナリンザさまかもしれないんだよ。それでもいいの!?」
「構わないとも。この力を使う事で、自分の中から誰かが居なくなるのよりも、ここで君を失う事の方が僕はよっぽど嫌だ。そんな事は、絶対に許さない」
そう言って、レイはレティを抱き締める力を強くし、彼女にだけ聞こえるように囁いた。
「それと、自殺なんかさせないからな」
「……なんで、そのことを」
秘していた覚悟を言い当てられ、レティの膝は体を支える力を失いそうになる。レイは彼女を支えながら、
「死のイタミの中で、君の考えている事が伝わって来たんだ。自殺して、ペナルティを利用して僕に君を見捨てさせようなんて事、考えるだけでもとんでもないのに、実行しようなんてしないでくれ。……例え自殺したとしても、僕は君らを見捨てる事なんて、絶対にしない。そんな事をするぐらいなら、一緒に死んでやる」
強くて、そしてどこまでも優しい言葉が、レティの中にあった覚悟を柔らかく包み込んだ。涙は止まる事を知らず、レティは自分の浅慮を詫びた。
「……ご主人さま、ごめんなさい。あたし、あたし」
「さあ、泣くのは後にして、レティ。どうやら、あの化け物は、まだ戦うつもりの様だ」
レイが視線をディオニュシウスに向けると、それまで魔人を包んでいた鎧にひびが走る。
ミストラルが与えた蹴りに加え、レイの《崩剣焔》による崩壊。そして何より、脆くなったこともお構いなしの自身の猛攻で鎧に限界が来ていた。
バラバラと崩れ落ちる鎧の下から現れた姿に、一同は吐き気を催した。
醜悪にして、異質。人ならざるその姿は――――。
読んで下さって、ありがとうございます。
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