8-22 心の決闘 『後編』
無辺に広がる宇宙から、無数に敷き詰められた星々を拭い去った様な暗黒の世界。その空間を突き破った光の道を巡り、二つの星がぶつかり合っていた。
一つは禍々しき黒。人の悪意や憎悪を表すかのような、混沌とした黒き闇を身に纏い、手にした剣も、宙に浮かぶ剣もまた黒。だというのに、晒した素顔は恐ろしいほどまでに純白なのだ。髪も、肌も色素を失ったかのように純白で、だというのにそれは恐ろしくも感じられる。金色の双眸が余計に恐ろしさを掻きたてているのかもしれない。
一つは猛々しい緋。轟々と燃え盛る命を表すかのような、生命に満ちている紅蓮の炎を手に携え、急所を守る鎧もまた緋色に輝く。黒色の頭髪に混じる白髪が揺れ、その下にある相貌は真剣な面持ち。特筆すべきなのは左目下にはしる刀傷と、右目だけが紅蓮の虹彩へと変わった事か。洗練されたとはお世辞にも言えないが、しかし、その出で立ちは勇ましさに溢れていた。
暗黒世界に二つしか存在しない星が幾度目かの激突を行い、世界を震わした。互いに持つ龍刀と黒剣が鎬を削る。
紅蓮の防具による加速を余すところなく発揮した超加速による激突。レイの顔に浮かぶのは紛れもなく焦燥であり、フィーニスに浮かぶのは冷笑だった。
「そこを退け、フィーニス!」
「はは、退けと言われて、退く奴が居ると思うかい。君は此処でボクと交わり、魔人となるんだよ」
「断る! お前と一つになるなんて、天地がひっくり返ってもあり得ない」
フィーニスの腹を狙い放った足蹴りは首から下を隙間なく覆う闇に防がれる。爪先に伝わるのは、沼に足を踏み入れたような頼りなさだ。そのまま足首へと闇が伝わり上って来るが、紅蓮の脚甲が闇を燃やした。
その炎を利用して距離を取ろうとするも、フィーニスは闇の中を泳ぐように加速した。
龍刀に力を籠め、真一文字に振る。赤い軌跡が力ある刃となってフィーニスへと迫るも、フィーニスは枝から離れた木の葉のように躱した。躱しざまに宙に浮かべたままの黒い刃を三本、投擲し返した。
反撃に対して、レイは炎弾で応じる。三本の刃と炎がぶつかり合い、爆発が黒闇に華のように咲く。レイは、その爆発に紛れてフィーニスを振り切るべく飛び込だ。
熱が頬を焦がす前に通り抜けようとするレイだが、即座に足を止め防衛行動を取らざるを得なかった。なぜなら、フィーニスが爆炎の中に潜みレイを待ち構えていたのだ。
黒い刃が爆炎を振り払う。龍刀がその軌跡を撃ち落すべく振り抜かれる。
一合、三合、七合と打ち合いは激しさを増す。
「ははは! いいね、随分と真面に戦えるじゃないか。前にやり合った時とは大違いじゃないか」
尋常ならざる膂力で放たれる重い斬撃を撃ち落すレイと違い、フィーニスはどこか余裕を感じさせつつ口を開く。
実際、余裕があるのだろう。レイが両手で龍刀を握るのに対して、フィーニスは片手で黒剣を握る。筋肉のような鎧が盛り上がり、渾身の一撃が振り抜かれると、レイの体は水平に吹き飛んだ。
武具の力を借りて態勢を立て直すと、フィーニスとの距離は歩幅にして十五歩程度離れた。もっとも、フィーニス相手では一足の間合いに変わりなかった。
なにより、フィーニスの飛び道具は間合いなどお構いなしに迫るのだ。
空間を滑るように放たれた黒い刃、合わせて五本がレイを串刺しにせんと迫った。
「やらせるか!」
レイは龍刀を構え、五つの斬撃で応戦する。
刃が龍刀に砕かれ二つに折れていくと、それらは塵に―――ならなかった。
「―――っ、しまった!」
後悔が漏れるも遅い。砕けた刃は半液体のような柔軟さを発揮すると、両腕を手錠のように押さえつけた。拘束されたレイに対して、すかさずフィーニスが攻撃を仕掛ける。
あっという間に距離を詰めた『魔王』はレイの体を縦に両断するかのような大上段からの一撃を放った。避けなければ、フィーニスの目論見通りの姿を晒す。しかし、レイはそれをあえて受けた。
腕を掲げ、拘束する手錠で受け止めたのだ。
濁流に飲み込まれる木々のように、手錠は砕け、自由になったレイは龍刀を横に薙いだ。交差する龍刀と黒剣。黒色緋色と金色の双眸。
両者は仕切り直すように距離をとった。
レイは乱れた呼吸を整えるのと同時に、フィーニスの向こう側に見える光の道。そして出口へと視線を向けた。コウエンが飛び込んで来た闇の世界に空いた穴は、黒いクレヨンで画用紙の中心に向かって色を塗るように、狭まりつつあった。
「急げよ、レイ。流石に奇跡は二度も起きん。あの出口が塞がれば最後、内部から脱出する術は無く、後は奴に飲み込まれ同化されるだけだぞ」
「そんなの百も承知だよ。だけど、アイツは簡単に逃がしてはくれなさそうだ」
黒い刃を手の内で弄ぶフィーニスへと視線を戻す。幼い相貌と相まって、まるで子供が玩具で興じているようにも見えるが、対峙するレイにはそんな微笑ましさに頬を緩める様な余裕はない。
コウエンから、外の状況をある程度聞いた。ローランが重傷を負いつつもゲオルギウスに勝利し、リザ達が自分を助けるために捨て身の覚悟で飛び込んで来た事。もし、自分がフィーニスに敗北すれば、全てがひっくり返されてしまう。
ローランやリザ達が必死の思いで繋げてくれたこのこのチャンスを逃す訳にはいかない。
手放すわけには行かない。
「ここで負けるわけには行かないんだ」
「勇ましいね。でも、君がボクに勝てるかな。あの時は《トライ&エラー・グレートディバイド》を使ったから、どうにか一撃を与えられたんだろ。でも、それは此処では使えない。なぜなら、ここは心の世界。心が死ねば、それは消滅を意味するんだから」
フィーニスの言葉にレイは絶句する。
心の世界で死ねば、消滅を意味することに驚いたのではない。フィーニスが《トライ&エラー・グレートディバイド》を知っていることに驚いたのだ。
レイの様子からそれを察したフィーニスは唇に微笑を浮かべ、
「おいおい、驚くことじゃあるまい。これでもあの戦いからずっと、君の中に居たんだ。それぐらい知って当然だろ」
言われてみれば確かにとレイは納得した。コウエンもレイの記憶を読み取り、《トライ&エラー》や未来での出来事を知覚していた。
「いまだって、君の心の揺らぎぐらいは感じ取れるさ。当ててみようか? ……おや? 随分と落ち着いているね。てっきり、焦りや苛立ち、あるいは闘争心で煮えたぎっているのかと思ったよ」
「本当に感じ取る事が出来るんだ」
訝しがるフィーニスにレイは続けた。
「正解だよ。今はただ、どうやってお前を倒すか。それだけを冷静に考えているんだよ!」
言うのと同時に、手甲から炎で構成された鎖が二本、のたうつ蛇のように奔る。
フィーニスは宙に展開していた黒い刃をより細くすると、鎖の輪を狙って突き刺した。指の直径よりも細い輪を射抜いた刃によって、二本の鎖は動きを止めた。しかし、それを読んでいたかのようにレイは笑った。
途端、鎖の先端が弾けた。
鎖の先端は刃となっており、後端から炎を吹いて、真っ直ぐフィーニスの眼球へと迫る。目と鼻の先まで近づいた奇襲に対して、フィーニスは驚くべき反応速度で手にした黒い刃を振り抜いた。弾かれる炎の刃たち。
だが、その一工程を引きだすのがレイの狙いだった。
武具の加速を利用して、瞬時に十五歩の距離を潰したレイは龍刀を上段から振り下ろした。舌打ちすると同時にフィーニスは振り抜いた刃を戻して、龍刀を受け止める。再び噛み付くようにぶつかる二本の刃。だが、レイはそれで止まらなかった。
龍刀を振り抜いた右手とは別の、左手に炎が収束する。それは瞬く間に、一本の刀の形を成した。
龍刀影打ち。
刃の形となった炎がフィーニスを貫くべく放たれた。
「させるかぁ!」
フィーニスが周囲に展開させた刃を操作し、レイとフィーニスの間に壁のように立ち塞がるも、赤龍の炎を凝縮した紅蓮の一振りを止める事は出来なかった。
刃は刃を砕き、フィーニスの鎧をも貫いた。
沼の中に沈むような頼りない手応えでは無い、はっきりと肉を貫く感触が手に伝わる。
体を刃に貫かれ、苦痛に呻くよりも、むしろ呆気にとられた様子のフィーニスに向かって、レイは冷然と告げた。
「お前相手に《トライ&エラー・グレートディバイド》を使うつもりなんて無いよ。だって、お前、あの時よりもずっと弱いじゃないか」
言葉がフィーニスに伝わり、理解されるよりも前に、龍刀影打ちが刃の形を保たなくなった。どろりと、金属が高温に溶けるように、秘めていた炎が傷口から流れ込む。人の体を内側から炎が食む。一瞬、白い肌が透け、体内からライトを照らしたようにフィーニスの体は輝きを放ち、直後その肌を炎が突き破った。
「ははは! 火あぶりか! こいつは、懐かしい!」
喉も、肺も、内臓も、何もかも焼け、黒い鎧が辛うじて人の輪郭を保っているというのにフィーニスは叫ぶ。哄笑を上げるその姿に、レイはおろかコウエンですら龍刀の中で呻いた。
その哄笑も次第に途切れていき、最後は塵となって消えた。
黒闇の世界に残ったのは緋色の星だけだった。
「勝った……のか」
そう呟くレイは信じられないとばかりに自らの掌を見下ろした。掛け値なしの怪物である『七帝』。その一角である『魔王』フィーニスを撃破したことをどこか夢のように感じていた。特にフィーニスはナリンザの仇だ。それをこんな形とはいえ討てたことに奇妙な達成感すら抱いていた。
すると、龍刀と変化していたコウエンが元の幼女の姿になると、レイの感傷を吹き飛ばす。
「大戯け者。貴様とて口にしておっただろう。あれは『魔王』と形は似ていたが、宿した力は雲泥の差だ。貴様は水面に映った月を斬って満足するのか」
「それじゃ、今のは何者だよ」
「『魔王』の魂から剥離された一部が、貴様の中で巣食い、憎悪を餌として成長したのだ」
詳しい説明を求めようとしたがコウエンが紅蓮の瞳を上に向け、いかんなと呟いたせいで何も言えなくなった。空にあったはずの穴が更に狭まっていた。
「急ぐぞ。フィーニスを下しても、ここを抜けられなければ元も子もなかろう」
レイは頷くと、四肢を重点的に守る武具を使い、何も無い空間を裂くように加速した。
頬に切る風が増すと共に、出口が近づく。
あと少しで、この黒闇の世界から脱出できる。
そう思った瞬間、悪意は牙を剥いた。
―――そうは、させないよ―――
内臓を素手で撫でられるような悍ましい声は直接耳朶を震わせた。
この声を聞き間違えるはずがない。
フィーニスの声だ。
しかし、何処から声がするのだ。
「下だ、レイ!」
疑問に答えるように、コウエンが叫ぶ。紅蓮の瞳を吊り上げて、下を睨む少女の先に、白い粘土のような塊が、緋色の奇跡を塗りつぶすように加速していた。粘土の一部が変形すると、黄金の双眸を持った少年の顔になる。顔には凄惨な笑みが浮かび、レイを見上げていた。
「言っただろう、君を逃がすつもりはないと」
「フィーニス! お前、まだ生きていたのか!」
「なんだっけ? ああ、そうだ。水面に映る月か。随分と豊かな表現を使うじゃないか。そして、案外的を射ている。このボクは確かに水面に映る月さ」
言いながら白い肉塊は表面を泡立たせると、そこから赤子の腕のような物を数十も伸ばした。出口へと向かうレイを捕まえようと伸ばされる腕は、コウエンの苛烈なる炎に阻まれる。しかし、それでも腕は止まらずに幾度も押し寄せる。
「そして水面。つまり湖か、あるいは川か、それとも海か。それはこの黒い世界の事さ。この闇もまた、ボクなのさ」
「―――っ!? それじゃ、この闇ごと消さないと」
「ボクは消えず、水面に映る月は何度も蘇るだろう。もっとも、それじゃらちが開かないのも事実さ。だから、こうすることにしたんだ」
フィーニスの言葉が終わるや否や、世界が震えた。無辺に広がる空間に圧迫感が増していく。まるで、見えない壁が四方から迫るような息苦しさを感じていると、肉の体を持たず精神のみの生命であるコウエンがフィーニスの狙いを看破した。
「貴様! 空間を狭める気か!」
「その通りだ。さっきみたいな、冗談のような奇跡は二度と起こさせない。絶対に破れない鳥かごに君らを閉じ込め、ゆっくりと手足を切り刻み、洗礼を与えるように溶かしてあげるよ」
どこか陶酔した響きを含めたフィーニスに怖気が走る。肌が粟立ち、レイは更に加速しようと力を籠める。だが、出口まではまだ距離があり、そしてフィーニスの加速はレイを超えていた。
あと少し。
あと少しで出口という所に来て、遂に炎を突破した腕が踵を掠めた。
「くそ、あと少し。あと少しなのに!」
見上げれば、すぐそこにある。
地下から地上へと出るマンホールのように丸く空いた出口を仰ぎ見つつ、レイは背中から感じるフィーニスの存在に飲み込まれようとしていた。
だが、そんなレイを安心させるように、コウエンが囁いた。
「レイ。問題だ」
レイの首筋に顔を埋めていたコウエンに、何を言っているのだと叫び返そうとするも、彼女は機先を制するように続けた。
「簡単な引き算だ。二から一を引けば、残りは幾つだ」
「コウエン、お前、今がどういう状況か」
「答えは一だ。では次の問題に行こう。今度は、文章題だぞ。間抜けで貧弱で、どうしようもなく優しい小僧と、古代種の記憶を引き継ぎ、崇め奉られる超常の妾。どちらが生き残るべきだと思う」
「……コウエン、お前、何を」
コウエンはゆっくりと顔を上げると、紅蓮の瞳にレイの顔を焼きつけるように見つめ、そして笑った。散る前の華のように、綺麗な笑みを浮かべた。
「答えは一つ。其方が生き残るべきだ」
言うと、コウエンは体を入れ替える。背中にあった圧迫感が消え、コウエン越しに肉塊とかしたフィーニスの姿が目に飛び込んだ。呆然としているレイに対して、コウエンは足蹴にした。
今までにも何度か、コウエンはレイを足蹴にした。だけど、今回のは一番優しく、そして強かった。レイの体が更なる加速を得て出口へと矢のように放たれ、代わりにコウエンが肉塊へと落ちていく。
「これが正解じゃ。妾を抱えて跳ぶよりも、一人の方が速い。妾が足止めすれば、その分時間が稼げる。妾が帰らなくとも……誰も悲しまない」
「コウエン、コウエン! ふざけるな、君を残して、一人で帰れるわけがないだろ!」
半狂乱になりながら叫ぶレイ。だが、彼の体はコウエンが残した武具によって、強制的に出口へと向かってしまう。視界の中で、紅蓮の少女が肉塊の海に絡み取られ、飲み込まれつつあるのを眺めながら、体は黒闇の世界から外へ、荒涼の大地が広がる世界へと戻った。
「無事に出れたか」
ならば良し、とコウエンは呟いた。幼い少女の肉体は触手に絡み取られ、白い肉塊に飲まれ、磨り潰されようとしていた。
「驚いたな」
声が聞こえた。
白く、甘く、それでいて人に怖気を与える声の持ち主、フィーニスがコウエンの見える位置に上体を生やした。少年の相貌に驚嘆を張り付けたまま続けた。
「驚いたな。君のような存在が、一介の人間を助けるためにその身を犠牲にするとは。彼の異端性は認めるけど、そこまでする価値があるのかい」
フィーニスの問いかけをコウエンは鼻で笑った。頬を吊り上げ嘲笑を浮かべると、
「だから貴様は阿呆なのだ。あれの価値を理解できぬから、貴様は道を踏み外したのだ」
「……まあいい。どちらにしても、彼はボクが貰う。ここでとり逃したとしても、彼の心にボクという憎悪がある限り、何度でも繰り返せる。むしろ、邪魔な存在である君を、ここで潰せることを良しとしよう」
フィーニスの言葉に偽りは無かった。聖印がある限り、フィーニスの憎悪がある限り、レイの魔人化は止まらず、意識は常に狙われ続ける。
―――だからこそ、コウエンはこの場に残ったのだ。
白い肉塊に包まれ、肉に磨り潰されようとしていた腕が、足が、胴が炎に包まれる。紅蓮の炎が肉を削り渦を巻くと、フィーニスの顔に険しさが浮かんだ。
「何のつもりだい、コウエン」
「知れた事よ。貴様があやつを狙うのを諦めないぐらい、見抜いておったわ。じゃからこそ、妾はここに残った」
紅蓮の瞳に危険な光が宿り、むき出しの犬歯が牙のように威嚇する。幼い相貌は、偉大なる凶悪な龍のそれに近くなっていた。
「この暗闇を全て燃やし尽くす。内側から、全てが灰になるまで燃やし尽くしてやる」
「正気か!? そんな事をすれば、君だって!」
「うむ。死ぬだろうな。だが、それがどうした。元より帰還を諦めた身。ならばこそ、命の捨てがいがあるという物だろう」
静かに語るコウエンの姿に、フィーニスは彼女がハッタリや、虚勢、あるいは恫喝からの交渉や譲歩を狙った演技ではないと判断した。コウエンは本気で心中するつもりなのだ。レイを逃がしたのは、巻き込ませないためだった。
赤龍の記憶を引き継いだ超常の存在がそれほどの覚悟を抱いて、たった一人の人間を救おうとする姿に、フィーニスは驚き呆けた。しかし、それも一瞬だった。
「ははは! これは傑作だ。ならば、試そうじゃないか。君が水面を蒸発させられるか、それともその前に溺死するか。どちらが早いかな」
「抜かせ。いくら遠大な月とはいえ、所詮は幻影。塵も残さずに消えてしまえ!」
両者が闘気を漲らせ叫ぶ。純白の肉塊が膨らみ、紅蓮の業火が爆発する。
―――寸前、奇妙な、そしてあり得ざる三人目の声が水を差した。
「勝手に盛り上がるのは結構だが、そんな自爆技をしなくても勝てる方法があるだろう」
まるで、錆びついた歯車を無理やり回したかのような声と共に、コウエンの体が肉塊から弾き飛ばされた。
否。
蹴り飛ばされたのだ。
肉塊に新たな影が、文字通りの影が足を持ち上げ、幼女を蹴り飛ばしていた。飲み込まれつつあった体は自由になる。まさかという思いで振り返ったコウエンが、信じられないとばかりにその影を呼んだ。
「貴様、影法師……だと」
「おうよ。居候影法師、ここに推参、っと」
気の抜けた返事にコウエンは何故だと呟いた。
「何故、其方が何故」
「お? やっぱり気が付いてなかったか。アンタが柱に出来た穴に飛び込む際に、アンタの影に混じってね」
「違う! 妾が聞きたいのは、何故其方がこのような真似を。まるで、まるで」
レイを助けるような真似をしているのだ。
コウエンはそう続けようとした。だが、その言葉は影法師が差し出した手に止められた。
「なに。これでも居候の分を弁えているんでね。これぐらいしておかないと、家主に追い出されちまう」
どこか飄々と憎まれ口を叩く影法師、レイの後悔から生まれた存在は告げた。
「行きな、コウエン。三引く一は二だ。アイツとアンタと俺なら、俺が残るべきだ」
「―――っ! すまん、忝い」
「な!? 行かせるかああああ!」
「おっと、邪魔はさせないぜ。この身は戦闘力皆無のゴミだが、足止めぐらいならできるぞ」
フィーニスが正気に戻り腕を伸ばそうとするも、影法師が身を呈して触腕を食い止めた。僅かな遅れが致命的な差となる。紅蓮の彗星は黒闇の宙に鮮やかな軌跡を残して、針の穴までに小さくなった出口を無理やり突き破ったのだ。
同時にフィーニスの憎悪が収束する。空と大地を飲み込まんとした闇が柱へと逆再生するように集い、圧縮され、遂には掌に乗るほどの小さな球体へと至ったのだ。
「コ、コウエン! 良かった、君も無事で出て来れたのか。でも、どうやって」
喜ぶレイに対して、コウエンは表情を厳しくしたまま告げた。
「説明は後じゃ! 妾が最後の後始末を着ける。じゃから、其方は其方を助けるために命を賭けた者達へと会いに行け」
「……ああ、分かった。後は頼む」
言うと、レイの体は透け、光の粒子となって消えた。後に残されたのは赤灼けた空と、ひび割れた大地。そして光を飲み込み昏く輝く黒い球体だけだ。
コウエンはそれを摘まむと、躊躇せず紅蓮の炎で包むも、球体は炎に溶ける様子は無かった。
「これは、随分と時間が掛かるな。……戯け者め。貴様が居なくなれば、話し相手を失って妾は退屈してしまうだろ」
ポツリと呟いた言葉は誰にも拾われることなく、乾いた大地に染み込まれていった。
暖かい。
人の温もりを感じる。
暗闇の世界に慣れたせいか、目は開いているのに光が眩しすぎて何一つ見えなかった。ゆっくりと、何度も瞬きを繰り返して光量に慣れていくと、世界が色鮮やかに変貌した。
左右からしがみ付く柔らかな体躯。鼻をくすぐる香料は、どこか懐かしさを感じる。
「レイ……様?」
「ご主人さま?」
「主様?」
「おにいちゃん?」
四者四様の呼び方。共通しているのは、四つとも不安と恐怖に震えた、迷子の子供のような心細さだ。それが自分のせいだと気づき、申し訳なさが腹の底からせり上がった。
だから、彼女たちを安心させるように、はっきりと告げる。
「ただいま、皆」
―――おかえりなさい!!
満開の花畑のような鮮やかな笑顔にレイは笑みを持って返した。
その双眸はどちらも、雨に濡れた黒曜石のように艶やかな黒色をしていた。
読んで下さって、ありがとうございます。




