8-21 心の決闘 『前編』
気が付けば、黒闇の宙に投げ出されていた。
体が落ちているのか、上がっているのか、それとも左右に流されているのか。そんな事も分からない、理解できないでいた。
光など一切存在しない、ひたすら闇の中を漂っていた。
ここに来てからどれだけの時間が過ぎたのか。時の感覚も狂いだした。一分が経過したのか、一時間なのか、一日なのか、あるいは一年なのか。
外はどうなったのだろうか。
記憶にある最後の光景は、ゲオルギウスが槍を横に薙ごうとした瞬間だ。狙いは観客席の上段に位置する貴賓席。アフサルもろとも、シアラ達を殺そうとしていた。
はたして、ゲオルギウスの攻撃は止められたのか、それとも防げなかったのか。
リザは、レティは、シアラは、エトネはどうなったのか。
無事だと思いたい。だけど、あの瞬間、ゲオルギウスを止められる者は居なかったはずだ。
最悪の可能性が頭を過り―――。
―――そんな事、考えなくてもいいんだよ―――
思考が白い雑音に邪魔をされる。どこか聖職者を思わせる、穏やかな語り口は甘く、耳朶から染み込むように体の内側に這入りこみ、侵食していく。それが危険だと脳は叫ぶが、抗う事は出来ない。
四肢の感覚が鈍くなり、呼吸は散漫としていき、鼓動も穏やかになる。まるで羊水に満たされた赤子のように、どこまでも心地良い空間。何日でも、何か月でも、何年でもここに居たいと思わせる。
同時に、ここに居るのを恐怖に感じる自分も居る。
ゆっくりと、末端から細胞を入れ替えられるような、自分が自分でなくなる恐怖が足元を蟻のようによじ登ってくる。
しかし、恐怖を感じておきながらも、体は動かない。
動かし方を忘れた様にこの空間を漂っていた。
―――それでいい。それで十分だよ―――
―――だって君は、十分戦って来たじゃないか―――
雑音が再び語りかける。少年のような柔らかい声色の裏に、毒虫の液が染み込んだ針を忍ばせ、それを突き刺すように、ゆっくりと、深く、沈み込むように語りかける。
―――エルドラドに来てから、戦いの連続だ―――
―――凄惨極まる死闘の数々。このボクですら、戦慄を禁じ得ない―――
―――それに見合うだけの技能がある訳でも無く、己の命を武器に戦い抜いた―――
―――素直に敬意を評す。君は素晴らしい―――
少年の声に続き、手を打ち鳴らす音が聞こえた。
心の奥底がむず痒くなる。そこまで手放しで褒められるのは、慣れていなかった。
―――だけど、そんな君でも助けられなかった者は居た―――
心が軋み、悲鳴を上げた。誰の事を指しているのか、考えるまでも無く分かった。
琥珀色の瞳を、ベールの隙間から覗かせた女性。自分を守って死なせてしまった、ナリンザ。彼女の事を思い出すたびに、自責の念で心が張り裂けそうだ。
―――ああ、嘆かないでくれ、レイ。君の嘆きは、ボクの嘆きだ―――
―――君が悲しくなれば、ボクも悲しくなるんだよ―――
雑音は今にも嗚咽を零しそうだ。
それだけで、この雑音が自分の苦しみを、哀しみを本当に理解しているのだと感じてしまう。
―――そうだとも。君とボクは、一心同体と言っても過言じゃない―――
そうなのか。
頭の奥底が痺れ、深く考える事が出来ない。
何か、猛烈な違和感がするのに、心が喚き散らしているのに、それに向き合えない。
―――だからこそ、君に言いたい。もう、これ以上悲しむ事はない―――
どういう意味だと、聞こえてくる雑音に語りかけた。
―――君は、誰も失わなくていいんだ―――
―――喪失に悲しむことも―――
―――敗北になげくことも―――
―――絶望に恐れることも―――
―――もう、無い―――
それは、真実ならこれ以上ないほど嬉しいことだ。だけど、どうしてそんな事が断言できるのだろうか?
不思議に思うと、白い雑音は、
―――だって、君はボクと一つになるのだから―――
と、喜色に満ちた声で告げたのだ。
途端、闇に満ちた世界に、濁った白が生まれた。それは例えるなら、粘菌のように広がると、体を包みだす。抵抗するために腕を振り回そうと、逃亡するために足を動かそうとするも、体は動かし方を忘れた様に動かなかった。
粘菌のような白い塊は下半身を絡めとるとそのまま上半身へと手を伸ばしていた。おそらく、繭のように自分を包むのだろう。
―――恐れなくてもいい―――
―――心を楽に、身を委ねてくれ―――
再び、白い雑音が響く。腹立たしい事だが、この声を聞くと荒れた海面のような心が、不思議と穏やかになっていくのだ。まるで見えざる力が働いているかのように。
―――安心してくれ―――
―――君が消える訳じゃない。君の中に、ボクという人格が混ざるだけだ―――
―――主たる人格は君のままだ。ただ、そこに、ボクの憎悪が混じるだけさ―――
だから、安心しろと?
―――ああ。ボクを受け入れれば、君は遥かに強くなれる―――
―――ともすれば、ボクすら超える。そんな逸材なんだよ、君は―――
―――君の行く手を遮る者は居なくなるだろう―――
だったら、もう誰も失う事はない。
彼女たちを、……彼女たちを、彼女たち?
彼女とは誰だ。
頭の中を白い霧のような物が立ち込めているかのように、思考が繋がらなくなってきた。つい先程まで思い描いていた人の名前をも顔も思い出せない。
―――いいんだよ。それで―――
そうか。これでいいのか。
胸の内に、言語化できない漠然とした不安だけを抱くも、それが何かを考えるだけの思考が湧き上がらない。いつの間にか、聴覚以外の五感が消え去り、自分が生きているのか、死んでいるのかすら、分からない。
―――うん。そろそろ、お休み、レイ―――
―――次に目が覚めた時、君は七人目の魔人だ―――
ああ、おやすみ。
熱い。
まるで、太陽を掴んでしまったかのような熱量に意識が覚醒する。
同時に、失われたはずの五感が戻った。
驚き、四方に目をやるも白い粘菌が繭のように頭まで包み込んでいた。
熱に導かれるように視線を向けると、自分の右手小指が輝いていたのだ。白い繭を中から照らす光は四つの球体となって飛び出した。透き通るような金と、色鮮やかな茶と、紫がかった神秘的な黒と、瑞々しい緑と灰が混じる光球。
―――これを僕は、知っている。
何故だか知らないが、光の球を見た瞬間、そう思った。
すると、四つの光球はゆらゆらと動き出し、白い繭を突き破った。熱した球で金属を溶かすように、じっくりと穴をあけ外へ飛び出す。繭は溶けていき、黒闇の世界を流れていった。
再び、この場所に戻って来たが、周囲を四つの光が揺蕩う。
自分を取り囲む光球をぼんやりと眺めていると、透き通るような金色の球体が、目も開けられないほど光り輝く。
―――レイ様!
声が聞こえた。
それは、いつも背筋を伸ばし、背負った重荷に歯を食いしばりつつも、それを投げ出そうとしない責任感の強い女の子の声に聞こえた。
今度は、色鮮やかな茶色の光球が、目も開けられないほど光り輝く。
―――ご主人さま!
声が聞こえた。
それは、屈託なく笑っているが、笑みの裏に途方もない不安と重圧を抱え、それを懸命に隠そうとする健気な女の子の声に聞こえた。
今度は、紫がかった神秘的な黒い球体が、目も空けられないほど光り輝く。
―――主様!
声が聞こえた。
それは、気高く振る舞うも、口には出せないで実は誰よりも皆の事を心配し気を使っている、慈愛の心を持つ女の子の声に聞こえた。
今度は、瑞々しい緑と灰の球体が、目も空けられないほど光り輝く。
―――おにいちゃん!
声が聞こえた。
それは、幼くとも誇り高く、年上の仲間達に守られているだけでは駄目だと自分に言い聞かせている、背伸びしている女の子の声に聞こえた。
黒闇の世界を吹き飛ばすかのように、光の球は輝きを強めていき、それが最高潮に達した瞬間、四つの声が一つに揃った。
―――帰ってきて!!
帰る?
どこに?
―――そんなの、決まっているだろ。
あまりにも馬鹿々々しい自問の声に、怒りすら抱きつつ自答する。
―――僕が帰る場所なんて、一つしかない。
帰るべき場所、帰りたい場所と聞いて、迷わず彼女らの事を思い出した。頭の中に住み付いていた蜘蛛の巣を払い、叫ぶ。
「帰りたい、帰らなくちゃいけない。僕は皆の元に、帰るんだ!」
声を出したのは、何時以来だろうか。所々掠れ、上ずった叫びに呼応するように光球は一つになった。そして、真っ直ぐ、黒闇の宙を貫くように伸びた。
ぴしり、と。
音なき音を聞いたような気がした。
光が伸びた先で、どこまでも続きそうな無辺の闇に亀裂が走り、砕けた。
外壁が崩れるように闇が剥離すると、その向こうに世界が広がっていた。感じる気配は、どこか懐かしい、あの荒涼とした空と大地が続く世界だ。
忘れた体の動かし方を取り戻すように、闇の中で必死に四肢を振り回す。不格好な姿だが、少しずつ、裂け目に向けて進みだした。だが、その歩みは直ぐに止まってしまう。
足に何かが絡みついたのだ。
振り返れば、そこには白い粘菌のような塊が絡みつき、さながら重しのように黒闇の底へと引きずり込もうとしていた。
―――行かせないよ―――
声が聞こえた。
耳朶では無く、脳幹を直接揺さぶる、毒々しい邪気を孕んだ声に聞き覚えがあった。
「そうか。そういう事か。お前だったのか、これは! でも、なんで」
考えが纏まらないのは混乱しているからだ。刻々と、裂け目から遠ざかっていき、白い塊を蹴っても剥がれる様子は無い。むしろ、先程まで自分を内側から腐らせようとした毒を、再び注ぎ込もうとしていた。思考が、徐々にだがおぼろげになっていく。
「くそ、くそ、くそおおお! あと少しで、あそこに出口が見えているのに!」
天高くに見える裂け目に向けて手を伸ばす。黒闇の世界を貫く光は間違いなく、彼女たちがくれた導だ。帰り道なのだ。それから遠ざかっていく現状に無念さが口からこぼれて行く。
すると、世界に出来た裂け目が紅蓮に染まったのだ。
荒々しくも、美しい紅蓮の炎は軌跡を描きつつ、黒闇の世界を落下した。
何故か、自分めがけて。
「え? ええ、ちょっとまってぇ!」
叫ぶも、紅蓮の炎の塊はそのまま自分の体に突き刺さり、一気に体が燃え上がる。
息を止め、襲い来る熱に耐えようとするも、おかしなことに炎は一向に熱を伝える事はなかった。
「愚か者。この炎が其方を焼き殺す為にある訳なかろう」
声が聞こえた。
それは、傲岸不遜を地で行き、常に天から見下ろすかのようにふんぞり返る、それでいて人を、世界を見守る責任を手放さない、超常の存在の声だ。
閉じた視界を開くと、紅蓮の炎を衣のように纏った、褐色の少女と顔を合わせていた。灼眼に間抜けな面をした自分が映りこむ。
「随分と、間の抜けた面をして。全く、手間をかけさせてくれよって」
「コ、コウエン。何でお前が、というか、本物、あうち!」
尋ねた途端、容赦のない往復ビンタが襲い掛かった。手加減の無い一撃に、口内に血の味がする。
「何故? ここで何故と問うか。更に真偽を確かめるとは。度し難いほどの鷹揚とした問いかけだ。妾が手ずから下してやりたい所だが、此度は時間が無い。不問に付してやろう」
「……うん、この無駄に偉そうなのは、間違いなくコウエンだ」
頬を叩く手を止め、紅蓮の瞳を見つめつつ尋ねた。
「教えてくれ、コウエン。外ではどうなっている。リザ達は、みんな無事なのか」
「……この状況下でまず聞きたいことはそれなのか」
呆れたようにため息を吐いた少女は、
「無事じゃ。お主の知る者であれば……まあ、概ね無事じゃな」
と、何とも言葉を濁した。それ以上を尋ねるのは許さないとばかりに言葉を打ち切ると、コウエンは自分の体にしがみ付いたまま、視線を下へと向けた。そこには絡みついていた白い粘膜があったはずだが、コウエンの発する炎を避けるように距離を取った。
「ふん。やはり、ここで具現化しよったか。居るとは想定しておったが、魂の欠片だけとはいえ、悍ましき波動が伝わってくるぞ。例え、そのようなみすぼらしい姿でもなぁ」
―――ふふふ。そう言う君は、随分と可愛らしい姿になってしまった―――
言葉が響くと、白い粘菌が急速に体を作り出した。薄い体躯の胴体に粘土を絞るように四肢と頭が出来、そいつは黒闇の世界に姿を現した。レイは知らずの内に、少年の名を呼んだ。
「『魔王』フィーニス」
「久しぶりだね、レイ」
柔和な相貌に似つかわしくない、禍々しい金色の瞳を宿した少年は、親しげな友人に声を掛けるように挨拶をしてきた。視線は横へと滑り、レイにしがみ付くコウエンと向く。
「そして、赤龍の記憶を引継ぎし存在、コウエン。……レイの中から君を見た時は、驚いたよ。まさか、豪快奔放な赤龍がこんなに可愛らしいお嬢さんになるなんて。古代種の尊厳はどこに消えたんだい」
「これは妾の趣味ではない。小僧の煩悩を尊重した結果であって―――」
「―――こんな時に風評被害は止めてくれないかな! ……コウエン、なんでフィーニスがこんな所に居るんだよ。そもそも、ここはどこなんだ」
レイが場の流れを断ち切るように尋ねると、コウエンは仕方ないとばかりに答えた。
「ここはお主の心象世界の中に現出した、フィーニスの領域。世界の中に、他者の世界が出来たような物だ。お主は、それに飲み込まれ、ここで同化しようとしていたのだ」
「同化って、なにと」
「無論、フィーニスに決まっておろう」
全身をムカデのような虫が這った悪寒が襲う。フィーニスと自分が同化するという想像したくも無い可能性を思い描き、つい先程まで感じていた安堵感が同化による影響だと思いしり、二重の意味で体は震えた。
一瞬だが、フィーニスとの同化を受け入れそうになっていた。
「落ち着くのじゃ。むき出しの精神は、何かしらのとっかかりがあれば、弱い所を曝け出してしまう。今回の場合、それが憎悪だったのだろう。憎悪という感情と同期することで、そこから別々の魂を混ぜ合わせていく。何が祝福だ。そんな物、洗脳と呼ぶのだぞ」
「心外だな。六将軍は皆、喜んでボクの憎悪を受け入れてくれたというのに。レイもあと少しだったのに、残念だな」
金色の瞳が闇を突き破った光へと向けられる。特に、紫がかった黒色の光を見つめる瞳は、複雑な感情が浮かんでいた。
「シアラ、か。あの子が、こんなにも心を許すとはね。やはり、君は面白い存在だよ、レイ。だから」
一拍開けたフィーニスは全身から薄くとも、禍々しい闘気を立ち昇らせた。急速に切り替わりつつある場の雰囲気に一瞬だが飲まれそうになった。
「だからこそ、君を手に入れよう。最後の『招かれた者』。我が同士。滅びる世界を救うために、滅びる種族を救うために、君はボクと共に歩むべきだ」
そう言うと、黒闇の世界とは別の黒色の影がフィーニスを包み込んだ。首から下を黒い布上の影が絡みつき、あたかも皮膚を剥いだむき出しの筋肉のように身を守る鎧となった。
手には影で生み出した剣が握られ、フィーニスの周囲にも同様の剣が何本も浮かんでいた。臨戦態勢を整えたフィーニスは殺気と共に尋ねた。
「返答を聞こう」
明らかな殺意を向けられつつ、レイは覚悟を持って告げた。
「断る! 世界を救うと謡い、種族を救うと口にしたお前は、ナリンザさんを殺した。戦役の時に、大勢の人を殺した。魔人種を救うと決めて、それ以外を切り捨てると決めた。そんな人間と、僕は組むつもりはない」
強い拒絶の意思を籠めた返答に対して、意外な事にフィーニスは目を丸くして驚いていた。口を半開きにし、一瞬だが殺意を鈍らせた。
「……やはり、君は面白い。このボクを、人間と呼ぶか。こんなボクを、人間と呼べるのか」
小さく呟くと、フィーニスは更なる殺気を滾らせて吼える。
「良かろう! ならば、君の意思を屈服させ、我が手中に収めるとしよう」
「レイ! 妾を使え!」
叫ぶとコウエンの姿が一振りの日本刀へと変化した。紅蓮の刀身が鮮やかに色づき、剣先の鋭さに心が震える。
龍刀を手にした途端、力が漲って来るようだった。
―――否。本当に力が漲ってくる。
まるで魂の交換をしたかのように龍刀に宿る力が流れ込む。
「コウエン、お前まさか!?」
「魂の交換なら、既に済ませてある」
じくり、と。鎖骨の辺りが痛みを発し、視線を向ければ肉が裂け、血が流れていた。そこはちょうど、コウエンがしがみ付いていた辺りだ。紅蓮の刀身に浮かぶコウエンは口元を赤い液体で濡らしていた。
「妾の血は、頬を張り飛ばした時に流し込んだ」
口の中を満たしていた血の味は、自分の物では無かったようだ。
右目が灼けるように痛いのは、恐らく紅蓮の瞳になっているからだろう。
体に充満する力の量からして、アクアウルプスの時ほどではないが、それでもかなりの量の魂を交換したはずだ。龍刀からコウエンの苦しみが伝わってくる。
だが、彼女はそれをおくびも出さずに言う。
「話は此処までだ。奴を退け、ここから脱出するぞ、レイ!」
「ああ、分かっているよ、コウエン!」
読んでくださって、ありがとうございます。




