8-3 理由なき憎悪
扉一枚隔てても熱気が伝わってくる。頭の上からさざ波のように人の喧騒が押し寄せてくる。案内を務めた兵士曰く、この上は観客席となっているそうだ。
神前決闘を一目見ようと、朝早くから長蛇の列が途切れることなく続き、首都はほとんど無人の都となってしまったと誰かが大げさに口にしていた。
観客たちが決闘を待ちわびるかのように打ち鳴らす足踏みで、円形のすり鉢状の客席は震え、レイの頭へと埃が降る中、少年の意識は全く別の事へと向けられていた。
だらりと腕を下ろし、肩幅程度に開いた足で地面を踏むその姿は自然体な姿。傍に居る兵士は、年下の冒険者が決闘前に精神を集中しているのだなと誤解した。
実際は少し違っていた。
集中はしていた。ただし、それはこれから始まる戦いに向けて、精神を統一するような高潔な行いでは無い。むしろそれとは正反対。この世の不浄を混ぜて発酵させた汚濁のように淀み、自分の内側を少しずつ溶かそうとする得体の知れない感情。
正体は分かっている。しかし、動機だけが分からない。
自分の中で今にも自分という殻を打ち破って外へと飛び出そうとする、憎悪を押しとどめるのにレイは意識を集中していた。
新月の夜の如き闇を溶かして固めた鎧に身を包み、二振りの槍を両手に嵐のように戦う怪物を思うと、レイの中で抑えきれない憎悪が、津波のように打ち寄せる。粘り気のある、触れればそこから侵食してくるような穢れを秘めた感情。黒く煮えたぎるマグマのようなそれは、今にもレイの体を突き破り、この扉を壊し、その先に待っている将軍を飲み込もうとする。
レイの精神世界に居る、コウエンや影法師とはまた別の、人格があるかのような衝動に戸惑いすら抱く。
そう、レイは戸惑っていた。
顔も、名前も、正体も知らない帝国の将軍に対して、どうして自分は自らを焼き尽くすほどの憎悪の炎を抱いているのだ。
自分の中にある憎悪は、理由なき憎悪だ。
これまで出会って来た、帝国に関係している人間は少ない。
東方大陸の最大国家、シュウ王国。そこの一番の歓楽街、欲望と快楽が渦巻く都市を統べるジョゼフィーヌ・ヴィーランドとその従者たちだ。
彼女らとの邂逅は偶然であり、自分と彼女らとの間に因縁や因果が無いわけではない。結ばれた縁の先は彼女が従えているガシャクラとその一派だ。ウージアでレティを誘拐し、暴力を振るったのをレイは許していなかった。成り行きで一度は共闘したが、怒りはまだ燻り、何時でも大火へと変わる。
だが、ガシャクラへ感じるのは怒りだ。
憎悪とは、色が、質が、量が違う。
黒く、それこそタールのような粘性の高い感情。それが湧き水のように尽きる事なくあふれ出ているのだ。水たまりや湖すら飲み込む勢いで広がっていく。
これだけの憎悪を抱くのだから、おそらく将軍とどこかで出会ったはずだ。
これだけの憎悪を抱くのだから、おそらく将軍は何かをしたはずだ。
これだけの憎悪を抱くのだから、おそらく将軍は―――何をしたのだ?
考えれば考えるほど、記憶を遡れば遡るほど気持ちが悪くなる。自分の中にある尋常ならざる憎悪。体の内から自分を削る憎しみなのに、どこか他人事のような、自分のではない感情のように持て余している。
自分と将軍には、思い出せない因果があるはずだ。
自分と将軍を結びつけるナニカ。それが将軍の正体を明かす鍵になるだろうと、レイは考えていた。そのため、昨晩から、そして今日の朝も記憶を辿ろうと幾度も挑戦し、失敗した。
将軍の正体を探ろうと記憶を振り返ると、いつもレイは黒い靄のような塊に集中を邪魔されてしまう。形容しがたい雑音が取り囲み、動悸が乱れ、呼吸が苦しくなり、発汗が止まらなくなる。体が思い出す事を拒もうとしているのだ。
拒絶に抗おうとすれば、意識がぷっつりと途切れてしまう。黒い靄に包まれたまま、意識を喪失してしまうのだ。
数秒から、あるいは数分、時間だけが過ぎて行く。
意識が戻った時、自分が何を思い出そうとしていたかすら、おぼろげになってしまうのだ。それこそ、次に同じことをすれば自分が誰なのかすら、思い出せなくなりそうな予感にかられる。
理由なき憎悪。
その理由を思い出そうとすると、肉体か、あるいは心か、あるいは魂なのか。レイという人間自身が見えない何かに縛られたかのように囚われてしまうのだ。
ここに至って、レイは確信する。
これは《トライ&エラー・グレートディバイド》のペナルティ、認識の喪失が関わっている。
シアトラ村の遥か地下。深層迷宮のとある場所で遭遇した『魔王』フィーニス。どうやっても勝てない真正の怪物を相手に、レイの技能は新しい可能性を生み出した。
死亡した瞬間から十秒だけ遡り、同時に《生死ノ境》を発動させるという新しい技能を生み出し、相手との距離を、それこそ死にながら一歩ずつ詰めていき、どうにか生き残れた。
その代償は白髪化の進行とステータスの低下、そしてもう一つ。自分の出会った人間が一人、認識できなくなってしまった。
名前はおろか、声も、顔も、その人と過ごした記憶も。何一つレイは覚えていない。
いや、覚えていないどころか、それを認識しようとすると脳にフィルターが掛かるようになってしまった。レイと精神世界を共有しているコウエンが、レイの中から消えた人物の名前を口にしても、字にしても、レイの耳は、目は認識できない。声には雑音が混じり、字は黒い靄のようなもので塗りつぶされてしまう。
おそらく理由なき憎悪の理由もその認識できなくなった、奪われた誰かに関する事なのだろう。奪われたから思い出そうとすると、フィルターで遮られてしまう。それなら筋が通る。
コウエンに確かめてみると、その通りだと返ってきた。彼女は、レイの様子から将軍の相手に心当たりがあるようだが、それを伝えようとすると、レイの意識がぶつりと途切れてしまう。どうやらレイの記憶を知るコウエンから真実が伝わろうとするのをペナルティは許してくれないようだ。
そんな状況なのに、レイは嬉しく思っていた。
名も、顔も、思いですらも無くなってしまった人物。だけど、自分の中にこれだけの憎悪が産み落とされたという事は、それだけその人物が自分にとって大切な人なのだろう。そう、推測できる。
憎悪が重く、深く、濃いほど、それはその人への思いが重く、深く、濃かった証だ。
この思いが恋愛なのか、尊敬なのか、感謝なのかは分からない。だけど、自分がそんな感情を抱けるだけの人物が居たというのが嬉しかったのだ。
エルドラドに来て数か月。善人に出会い、悪人に出会い、狂人にも出会った。共に旅をする仲間であるリザ達や、共に旅をしたオルドやファルナを始めとした『紅蓮の旅団』。そして自分を助けたせいで命を落としたナリンザ。
彼ら以外にも自分が縁を結べた相手がいたという事が素晴らしく、嬉しかったのだ。
同時に、そんな人物を思い出せない自分に腹立たしさやもどかしさを感じていた。
―――なにより、その人物が今も生きているかどうか。それが分からない事が恐ろしかった。
もし。
もしもの話である。
《トライ&エラー・グレートディバイド》を発動してナリンザの事を奪われた場合。そのことを思い出せないままフィーニスと遭遇したら、自分は今と同じだけの憎悪を抱くだろう。もしかしたら、それ以上の憎悪になるかもしれない。
それだけの感情なのだ。自分の胸の内で暴れまわる、この黒い感情は。
自分はナリンザ以外にも誰かを死なせてしまい、そのままのうのうと生きているのではないかという懸念がずっと付き纏っていた。覚えている事もできず、思い出す事もできず、そもそもこんな状況にならなければ、その事に気が付く事すら出来ないでいた。
じわり、と。頬を何かが伝うのを感じた。
レイは何気なしにそれを拭い、ぬるりとした感触に違和感を覚えた。視線を指先に向ければそこには血が付着していた。
それは血と呼ぶにはいささか黒く変色していた。まるで、何日も放置した血が黒ずんだような色あいだ。驚いて手の甲で頬を拭うが、血はもうどこにも付着していない。
汗を血と見間違えたのかと考え、もう一度指先を見つめたが、奇妙な事に指先も何も付着していないのだ。ブレイブサラマンダーの皮から作った手袋だけが、変わらずにあった。
一体今のは何だったのだと不思議に思うレイ。すると、熱気を遮っていた扉が開いた。
全身を人の放つ興奮と熱気が実体を持った圧力のように吹きつける。傍に居た兵士が、舞台の手前まで進んで下さいと囁いた。
レイはもう一度だけ指先を見た。
やはり、何度見ても黒ずんだ血なんてそこには何もなかった。
(参ったな。戦う前だって言うのに、幻覚を見るほど精神的に追い込まれてるのかよ。集中しなくちゃいけないってのに、何やってんだよ)
自分を叱咤するように、少年は両の頬を手で叩く。景気の良い音がし、頬を通じて熱がこみあげてくる。
しびれる頬を心地よく感じながら、レイは舞台へと歩み出した。
―――左目の下を走る刀傷が、じくじくと疼くのも気が付かないまま。
「皆の者、静粛に。静粛に」
祭儀場の石を取り囲む観客席に老人の声が響く。魔法で拡声された声は、穏やかながらも威厳があり、よく人々の耳に残る特徴的な声だった。
その声に反応して、人々の熱気が徐々に収まっていく。視線は貴賓席の最上段に位置する玉座に居る老人へと向かった。
杖を突きながら立ち上がるものの、背は天から糸を垂らして引っ張ったかのように真っ直ぐに伸び、きっちりと手入れされた白い髭が日の光を浴びて輝いているようだった。
老人の名はカリバン・デゼルト。
デゼルト国の元国王である。
神前投票で票が割れた為、空白の玉座に一時的に腰を降ろしているに過ぎず、今回の神前決闘が終われば即座に明け渡し、新王が此処に座る。
更に言えばダリーシャスが敗北した場合、彼は命を失う事になっている。
神前投票において慣例に無かった掟の解釈をしてダリーシャスに票を投じた為、ダリーシャスの代理であるレイが敗北した場合、彼も命を失うのだ。十四氏族の族長らと協議した結果、その場合は病気で急死したと民衆に発表する手はずとなっている。
もっともその事実は伏せたまま、彼は神前決闘に至った経緯を説明する。
「此度! 我が病身が原因でワシャフの反乱が起きてしまった事。国を導く王だった者として、そして今は王家の者として深く謝罪しなければならない。民にはいらぬ苦労を掛けさせ、不安を招かせてしまった。故に、我、カリバン・デゼルトは王位を退くことにした」
水を打ったように静まり返る観客たち。事前の触れで退位についての発表はあったが、それが事実として公式の場で告げられたことに軽い衝撃を味わっていた。ワシャフの反乱という事態を招いたが、カリバンの治世は悪くなく、平和な時代だった。それだけに、これから先の国の行く末に言葉にしづらい不安を感じていた。
だが、不安を打ち払うように拍手が起きた。観客席の誰かがカリバンの決断を支持したのだ。次第に拍手はあちこちから起き、一つの大役を全うした男に対して、拍手があられのように降り注ぐ。
「ありがとう。……我の退位を受け、王に名乗り挙げたのは二名。共に、此度の反乱を鎮圧するために立ち上がった者達である。ファラハ・オードヴァーンの子、アフサル・オードヴァーン。そして同じくファラハ・オードヴァーンの子、ダリーシャス・オードヴァーンである」
名を呼ばれ両王子が腰を上げ、民衆に向かって手を振る。途端に、歓声が上がった。
ワシャフに制圧されていた首都の民にとって、この二人は一躍時の人である。
片や、ワシャフの率いた軍勢を打ち破ったアフサル。
片や、ワシャフに制圧された首都を解放したダリーシャス。
彼らの活躍は吟遊詩人が即興で作り上げた詩に乗せて、あちこちの酒場で謡われた。
そんな二人が王になると宣言すれば、反対意見は無かった。
「投票の結果、同数と相成った。よって、神前投票の掟に従い、神前決闘を開く事と相成った」
カリバンが病魔に侵されている老人とは思えないほど力強く告げた。
「王子たちはそれぞれに、己が命を預けられる戦士を選び、送り出した。これは天よりも高みに位置する13神へ捧げる決闘である! 両名にはそれに相応しい戦いを希望する!!」
その言葉に、民衆の熱狂は一気に振り上がった。歓声が噴火したかのように空高く昇り、舞台へと落ちて行く。まるで熱狂の大雨だ。
貴賓席で王の隣で立っていた神官が、進行を引き継ぐように前に出た。
「両名、舞台上へと参られい」
魔法で拡声された声に従い、レイは平たい石で出来たという舞台に足を乗せた。
事前に、ダリーシャスからこの神殿の来歴は聞いていた。こうして舞台に足を乗せただけでも、歴史ある自然物の厳かな雰囲気が伝わってくる。
とはいえ、レイにはこれがただの石にしか見えない。本当に砕けないのかどうか、はなはだ不思議だ。
ふと、反対側へと視線を向ければ、体の中で暴れる憎悪が一段と強まった。
遠くからでも分かる、漆黒の鎧を身に纏った男が二振りの槍を担ぐようにして歩み寄って来る。
レイは将軍の元へと切りかかるのを堪えつつも、足は敵の方へと進む。
まるで磁石で引き寄せられるように、両者は祭儀場の中央で睨みあった。
背は将軍の方が頭二つか三つは大きい。全身鎧のせいで余計に体格差を感じてしまう。日差しを遮るような兜では男の素顔を探る事すら不可能だ。
「そう、怖い顔をするな」
急に親しげに話しかけられ、レイは一瞬戸惑った。あまりにも気安い口調だったため、誰が話しかけているのか分からなくなった。舞台にはレイと将軍以外、誰も居ない。
声の主が目の前に相対する将軍だと気が付くと、不愉快げに眉を潜めた。そんな子供じみた態度すら面白いとばかりに将軍は続けた。
「小僧相手に本気を出すつもりはないし、そもそもこの状態では本気を出す事すらできない。故に、貴様は全身全霊を掛けて私に挑んでくるがいい。存外、それで勝ちを拾えるかもしれないぞ。そもそも、貴様との勝敗なぞ、私に関係ない事。この戦いはいわば―――」
「―――いまから負けた時の言い訳をしているのかい。帝国の将軍ともあろう人間が、随分と弱腰なんだね」
挑発に対して挑発で返すと、意外な反応を示された。
なんと、将軍は一瞬動きを止めると、兜を突き破るほどの笑い声を上げたのだ。
「ふははは! それでこそ、あの時の小僧だ。小憎たらしくもあるが、変わらずにいるな。その気概はむしろ好ましい。良き戦いを望むぞ、小僧」
予想外な反応と、その内容にレイは確信する。
こいつは、自分を知っている。
そして自分もこいつを知っている。
だけど、誰なんだ。
疑問の答えが出る前に、神官は舞台上の戦士たちの名を告げた。
「西より現れしはアフサル・オードヴァーン王子の戦士、遠き西方大陸にその名を轟かす、帝国の将軍が一人、ディオクレティア!」
呼ばれたことに面倒さそうに将軍は手を上げた。観客から一段と大きな歓声が上がる。ここでようやく名前が分かったが、ディオクレティアに聞き覚えは無い。
「東より現れしはダリーシャス・オードヴァーン王子の戦士、新進気鋭の冒険者、『緋星』のレイ!」
レイも同様に手を上げるが、観客からの反応は芳しくなかった。まばらな拍手を上回る誰何の声。そんな中で歓声と応援の声を上げている者達が居た。
「レイ様、頑張ってください!」「負けないでよ、ご主人さま!」「そんな変なの、さっさとやっつけなさいよ!」「おにいーちゃん! がんばれー!」「レイさん。王子の為に、そしてあなた自身の為にも勝ってください!」
《ミクリヤ》の仲間やラシードだ。それに続くように《神聖騎士団》の面々もエールを送る。そして、その上の方に位置する、貴賓席に居るダリーシャスが拳を突きだしたのが見えた。
無言で、しかしこれ以上ないほど雄弁に語りかけている。
―――勝って帰って来い、と。
それに応えるようにレイも拳を突きだした。
「両名! これは王を決める神前決闘である。己が命を燃やし尽くす覚悟で挑まれることを誓うか!?」
レイと将軍は神官の問いに、頷くことで答えた。
「宜しい。ならば、両者背中を合わせ、十歩の距離を取ること」
二人は舞台中央で背中を合わせると、それぞれの歩幅で一歩ずつ歩を刻んでいく。
瞬間、レイは背中から当てられる殺気に体の産毛が総毛立った。
一歩ずつ、距離を取っているはずなのに、殺気が強まって来るのだ。まるですぐ背後に死神が寄り添って鎌を持っているかのような、濃厚な殺気が迫ってくる。
それを振り切るように力強く伝説の石を踏む。
十歩目を踏んだ時、レイは後ろを振り返った。ほぼ同時に将軍も振り返っていた。
舞台上に二十歩の距離を取ったレイと将軍以外、誰も居ない。審判なんて、神前決闘には居なかった。
この戦いに決まりは無い。相手を殺すか、あるいは降参を告げない限り戦いは続く。武器は持ち込みが自由で、魔法も、戦技も、技能も使用して良い。
腰に佩いている龍刀を抜き放つと、待ちわびていたとばかりに紅蓮の炎が刀身を濡らす。同時に、自分の中で狂ったように暴れていた憎悪が更に強まった。もう、押さえる必要が無いと分かると、勝手に吼えるかのようだった。
将軍もまた、担いでいた二本の槍を両手で持ち替えると、構えを取る。
両者の間の空気が火薬庫めいた危険な物に変化していくと、それを察知したかのように観客は押し黙る。戦いが始まるのを今か今かと待ちわびていた。
そして、神官の合図が引き金となる。
「いざ、はじめぇ!」
読んで下さって、ありがとうございます。




