6-19 エトネの夏休みⅣ
少しかび臭い書斎でレイとシアラはそれぞれ思い思いの格好で本を読んでいた。シアラは自分の周りに本の塔を築きあげてその中に埋もれ、レイは窓際に興味を引いたタイトルの本を何冊か目を通していた。
ふと、窓の外を眺めると雲行きが怪しくなっているのに気づいた。どんよりとした灰色雲が空を覆い、いまにも一雨来そうな天気だ。
「雨が降りそうだな。エトネは今日も外で遊んでいるんだっけ」
「んー。そうよ。確か新しくできたハヅミって子と遊んで来るって言ってたわよ」
山暮らしが長く父と母以外の人間をよく知らないエトネが、同年代の子供と積極的に関われるようになったのは喜ばしい事だが、流石に雨が降って風邪をひかれては困る。
レイは本を置くと書斎を出た。敷地から外に出ないようにと伝えている以上、庭の何処かにエトネとハヅミという子は居るはずだ。とはいえ、個人の所有物としては途方も無く広い庭園のため、無暗に探すのは時間が掛かってしまう。
誰かに手伝ってもらおうかと廊下を進んでいると、タイミングよく箱が歩いていた。
正確には前が正面からでは人相が分からないほど積み上げた箱を持つカンネが歩いていた。
彼女は、屋敷で仕事を行うスヴェンと政所の間を繋ぐ橋渡しに奔走されている。それでも、レイ達の世話係を放棄せずに要望を聞き入れてくれている。
「カンネさん。お忙しい所申し訳ありませんが、ちょっとよろしいですか」
声を掛けられたカンネは首を横にしてレイを見上げた。
「これはレイ殿。ちょうどよかったです。魔工研に頼んでいた品の試作品が届きましたよ。いまそちらに持っていくところでした」
積み上げた箱を下したカンネは一番上に乗せていた細長い箱の蓋を開けた。中には布に包まれたクロスボウで使われる鋼鉄製の矢が収められていた。しかし、普通のボルトではない。一本を手に取ったレイはボルトの先端をひねると、中間ぐらいで二つに分かれたのだ。ボルトの先端のほうが空洞となっている。
「レイ殿のご希望通りの品だと自負しておりますが、いかがですか? 問題がなければ量産して、出発までに数を揃えることができるとのことです」
「凄いな。注文通りになっていますね。ああ、でもエトネに試しに使ってもらうまで待ってもらえませんか」
カンネは了解しました、と言う。話はエトネがナギバチを探しに庭に飛び出したころまで戻る。午後のお茶会時にダリーシャスから何か困ったことはないかと問われたのだ。彼にしてみれば、このお茶会が終われば地獄の書類仕事が待っているため一秒でも先延ばしにする抵抗だった。
特にないというレイだったが必死に食い下がるダリーシャスに負けてある物の使い道に悩んでいると口にしてしまった。それに意外と反応を示したのがスヴェンだった。当代最高の鍛冶師を父に持つゆえか、あれやこれやとアイディアを出した。その中にあったのがこのボルトだった。
楽しくなったのか、書類仕事を後回しにしてタオ老子を呼び寄せ図面を引かせて、一夜にして試作品まで完成させてしまう入れ込みようだ。鍛冶師の血か、あるいはロリコンの血が為せる業なのか。レイは深く考えるのを止めた。
「それにしても、このボルトだけでは意味がないのでは。聞くところによれば、あれを使うには雷が必要とのことですが、その機能をクロスボウに付けなくてもよろしいのですか」
「はい。ですが、クロスボウの方をいじるとなると、耐久性は下がりますし、壊れた時の修理などが難しくなるとタオ老師が仰るので諦めました」
成程と納得したカンネにレイは付け足すように言う。
「雷の方は別のものを使って代用しようと思います」
「そうなのですか。……ところでレイ殿は私に何か用なのでしょうか」
「ああ、そうでした。実はエトネとハヅミを探しているのですが、庭でメイドの子らが遊びそうな場所をご存知ですか」
「はぁ。……それは一体」
レイの質問にカンネは訝しげに相槌を打つ。
「雨が降りそうなので、帰って来るようにと伝えたいですし、このボルトの試し撃ちを頼みたいので探そうと思うのですが……お忙しいなら他の方に聞きましょうか」
「……いえ。そうではありません。……ハヅミ……エトネちゃんが遊んでいる子供の名前でしょうか」
「はい、そうです。薄水色の髪に同じ色の目をした、エトネと同い年ぐらいの子供の事です。きっと、この屋敷に居るメイドの一人かと」
エトネから聞いたハヅミの容姿をカンネに伝えると、彼女は表情を険しくする。
「私は……スヴェン王子の補佐として、彼の公私両方を支えていると自負しています。政所で働く官吏、従業員、出入りの業者も全て記憶し、同様に屋敷の管理も任されています」
一瞬ためらうように言葉を区切ったカンネは掠れた声で言う。
「その私が断言します。ハヅミという少女は、この屋敷にはいません」
「……それって、どういう。……まさか」
レイの脳裏を嫌な想像が過る。不審な子供、侵入者、ガシャクラ、単語だけが宙を浮かび、不吉な繋がりによって結びつこうとしていた。
「すいません、カンネさん。僕はエトネを探します!」
「レイ殿、待ってください!」
試作品のボルトを放り投げ、呼び止めるカンネの声を振り切ってレイは走り出した。
自分の、自分たちの見立てが甘かった。レイへの私怨程度で一国の王子と事を構えないだろうと言う推測からエトネを一人で遊ばせてしまい、不審人物と遭遇してもそれに気が付けなかった。
首筋を冷たい汗が流れ、腹の底が不安からざわつき始める。右手に宿る契約に対して反射的に命令を下した。
「《全員、エトネを探せ》!」
戦奴隷への契約がどれだけの効力を発揮し、どの程度の距離まで届くのか知らないが、一秒でも早くエトネを見つけなければという焦りからレイは命令を出した。
すると、焦る彼に冷や水を浴びせるように声が聞こえた。
『戯け者。少しは頭を冷やせ。……炎しか出せんこの身が恨めしいのう』
声の主は腰に差したコウエンだ。屋敷内だから気を使って武器を外そうとしたが、途端に不機嫌になり熱を上げるので持ち歩いていたのだが、これが逆に功を奏す。
武器を取りに戻る必要が無い。
「いまはお前に構っている暇はない。エトネを探さないと」
屋敷の入口に向かうレイに対してコウエンは事もなげに、
『そっちではない。向かうべき場所は逆だ』
と、告げた。足を止め、彼女の言う逆、すなわち屋敷の裏手の方を振り向いた。
「お前、エトネがどこに居るのか分かるのか」
『混ざり者の娘がどこに居るかは分からん。じゃが、其方らの言うハヅミなる者の居場所は、おおよそだが掴んでいる。昨日から感じておった、あの曖昧な気配が先程から明確な形を成し始めた』
コウエンが何を言っているのかレイには分からない。だけど、レイはコウエンの言葉を疑わない。彼女が言うなら、間違いないだろう、と。
レイは屋敷の裏手に出るために、手近な扉を開けて突き進む。急な侵入に抗議の声が聞こえるが、全く取り合わず、そのまま開いた窓から飛び降りた。
二階から、地上へと直接外に向かって落ちた。
「―――ッう。コウエン、どっちだ!」
芝生の上に着地した彼は足に走る痛みにも構わず、コウエンに方向を尋ねた。
『そのまま直進せい。……それにしても、どうしてこの地に、これほどの存在が出現しておるのだか。これも因果を重ねた結果なのかもしれんが、いやはや、浮世は常に混迷としておる』
コウエンの言葉も耳には届かず、レイはエトネの元へと駆けだす。いつの間にか、灰色の雲から雨が落ち始めていた。
屋敷に向かって逃げろと言うエトネに対してハヅミはやだと短く返した。緊迫した状況、視線を離した隙を突かれると承知の上でエトネは背後のハヅミを振り返った。
「ど、どうして?」
「だって、お友達を置いて逃げるなんて、そんなのできないわよ」
あっさりと。何を馬鹿な事を聞くのと肩を竦めたハヅミ。エトネにしてみれば最上級の言葉なのだが、いかんせん状況が悪い。
敵であるフジワラから目を離したエトネに対して、当たり前のように彼は攻撃を仕掛ける。
右手に構えたトンファーをそのままで、懐に忍ばせているナイフを三本、開いた手で投擲した。エトネに向けて迫る刃。それに気づいたのはハヅミだった。
「エトネ、危ない!」
警告を発するも、エトネが回避するにはいささか遅い。振り返ってナイフを視認した時には、目と鼻の先だ。
だから―――エトネは振り返らずに対処した。
足元に落ちている石を後ろ足で蹴り、ナイフへとぶつけた。一発の横やりが連鎖的にナイフの進行方向を邪魔し、三本のナイフは目的の相手に掠りもせずに終わった。
フジワラは隠した口で感嘆の声を上げた。資料には年齢の割に高いレベルと尖った能力値だと判明していたが、所詮は書類上の数字。
こうして実際に相対しないと分からない事がある。
十にも満たない年齢の相手に、フジワラは警戒心を強めた。
「どうしても、いってくれないの」
「絶対にやだ。ここに居る」
聞き分けの無い子供のように言い張るハヅミにエトネはため息を吐いてしまう。こうなったら仕方ない。これ以上、ハヅミの説得に時間を掛ける事は出来ない。
「エトネのうしろで、じっとしててよ」
「……うん。分かった!」
ハヅミの返事を聞き、エトネはフジワラと対峙する。フジワラは既に臨戦態勢を整えていた。右腕に彼らの特徴であるトンファーを構えている。左手は空いてはいるが、警戒しておくべきだ。いまは何も無くても仕込み武器が隠れているかもしれない。
エトネは軽くジャンプをすると、体の重心を整え、構えをとる。残念ながら、正真正銘の素手だ。防具も無い上に、ハヅミという無関係の非戦闘員を抱えている。
それでもエトネは負けるつもりなんて微塵も無かった。
互いを貫きかねない鋭い視線が交差し、先に動いたのは意外な事にエトネだった。彼女は被っていた麦わら帽子を投げたのだ。まるで円盤を投げるかのようにぐるりと回転をつけ、投げる。
鋭く回転する麦わら帽子は地を舐めるように低空を飛行し、急激に上昇した。フジワラの足元から、一気に顔の高さまで持ち上がった。
突然の上昇に驚き仰け反るフジワラ。麦わら帽子を叩き落すという発想はなく、暗殺者として攻撃を躱す本能を優先させた。
自分の顔すれすれを通り過ぎた麦わら帽子。それが灰色の空へと向かい飛ぶのと入れ替わるように、エトネが一気に距離を詰めていた。
麦わら帽子によって視界を塞がれた瞬間を狙い彼女は距離を詰めていた。《狭間ノ省略》は使っていない、単純な脚力任せの移動。視界を遮られていなければ、フジワラなら対処できたはず。
だけど現実としてはエトネに接近を許し、あまつさえ拳を振るわれてしまう。
裸拳による正拳突きはフジワラの腹部へと吸い込まれるように放たれた。フジワラはそれを半歩後ろへ下がる事で避けた。
だが、場の流れはエトネに傾いている。
彼女は外した拳を引く勢いを利用して、逆の拳を振るう。いや、単発ではない。両の拳による乱撃だ。旋毛風のような出鱈目な拳の乱撃をフジワラは無手の掌で受け止める。
完璧な守りだ。
拳が当たる瞬間、自分の掌を引いて、拳の衝撃を吸収している。彼女の両手には手応えが帰って来ない。
そして今度は自分の番だと言わんばかりに右手のトンファーを乱撃の隙間に捻じ込んだ。
振り下ろされる一撃。
今度はエトネが後ろへと下がる。そして、彼女はフジワラの右手を掴むと、大地を蹴り上げた。フジワラの右腕を支えとして、上段蹴りを繰り出したのだ。
つま先がフジワラの顎を狙うが、それをまたしてもフジワラの左手が防いだ。
トンファーの右手が矛。無手の左手が盾。
攻防のバランスが取れた戦い方だ。
踵を掴まれたエトネの視界は高速に流れる。軽いエトネの体は左腕だけで鎖のように振り回されて、そのまま地面に叩きつけられたのだ。
「―――っう!」
どうにか受け身は取ったが、肺が衝撃で硬直し固くなる。一瞬視界が黒くなったのは意識が遠ざかった影響だろうか。
「エトネ、避けて!!」
ハヅミの悲痛な叫びに反応して、エトネは倒れたまま横へと転がる。刹那の差で、エトネの居た場所にトンファーの先端が突き刺さる。
転がった勢いを使って立ち上がるとフジワラから距離を取った。
「ありがと、ハヅミ。こえがなかったら、あぶなかったよ」
「エトネなら大丈夫よ。そんなのやっつけなさい!」
エトネに対してハヅミは拳を突き上げる。トンファーを引き抜いたフジワラは首を傾げながらも冷静にエトネの実力を分析していた。
(攻撃は軽く、いくら食らっても致命打にはならない。だが、速度には目を見張るものがあるな。あれを捕まえるのは骨が折れるぞ。なにしろ殺してはいけないのだからな)
フジワラはエトネを生かして連れて帰る必要があった。
人質として使うにしても、情報を引き出すにしても生きていなければ役には立たないし、技能の関係で彼女には生きていてもらわないと困るのだ。
鉄柵に沿って結界が張ってあるスヴェンの屋敷に置いて、誰にも気づかれずに侵入を果たしたフジワラ。その秘密は彼の持つ技能にある。能動技能、《大地ノ海》は彼と彼が掴む人間を対象に発動する。効果は物体の通過。つまりかべ抜けだ。フジワラは結界の無い地面を潜って侵入したのだ。帰りも同じ方法を使うつもりだ。
ただし、この技能の対象は生者のみ。死人には効果が無いのだ。死体を残して、この場を立ち去れば、それを理由に自分たちの掃討命令が出される可能性がある。たとえ、こちが白を切ったとしても、死体が存在しては言い逃れできない。
この二つの理由から、攻め手に欠けるフジワラ。だが、エトネは違う。彼女の方には切り札を使わないという選択肢はない。
「《願い奉る》、《この身に祝福を》、《出でよ、『カテギダ』》!」
詠唱と共に宿したのは風の低級精霊『カテギダ』。風の力を四肢に宿した少女にフジワラとハヅミは違った感情を抱く。
驚愕と歓喜だ。
驚きのあまり、一瞬動きを止めたフジワラに対して今までとは比較にならない速度でエトネが襲い掛かった。拳と足を巧みに使う、風のようなら連撃を浴びたフジワラは呼吸の隙間を狙って反撃に出た。トンファーを繰り出し、拳を繰り出し、足刀を繰り出す。
だが、愚鈍な暗殺者に風は捕まえられない。
「くぅ! この餓鬼がぁ! 《我が体は、固き物でも阻めない》!」
遂には切り札を発動してしまう。
どぷり、と。音を立てて地面に沈んだフジワラ。そこに向けて拳を突き立てるも、エトネの手には固い地面の感触しか返って来なかった。
「にげた……それともかくれているだけ」
エトネはその判断を下せなかった。彼女の感覚器官が鋭いと言っても、所詮は鼻と耳。地面を潜る相手には効果は薄い。この隙に屋敷に向かって逃げるべきかどうかエトネは迷ってしまう。
(でも、このてきはじめんをもぐる。もしかしたら、やしきのかべももぐるかもしれない)
開けた平地と、四方を壁に囲まれた室内なら、フジワラを相手するのなら断然前者である。地面からの攻撃だけを警戒していればいいのだ。
しかし、いつもならその辺りの判断をするレイが居ないエトネは、どちらが最適解なのか悩み足を止めてしまう。その瞬間を見計らったように地面から手が突き出た。その手は地面を水面のように泳ぐと、背後からエトネの足を掴む。
「え? ―――っきゃあああ!」
遅れて気が付いたエトネが悲鳴を上げるも遅い。彼女の体はフジワラの《大地ノ海》に囚われ、地中へと誘われていく。そして、腰の高さまで沈んだところで、沈下が止まった。足に感じていた人の手の感触は消え、代わりに周りの地面が硬質さを取り戻した。
エトネの今の姿は腰より下が地面に埋まっている。地面に喰われているようでもある。
消えた時と同じように地中からどぷり、と地上へ上がったフジワラは衣服に付いた土を落としてエトネを見下ろした。
「どれだけ速く動けようが、これでは役に立つまい」
フジワラの言う通り、エトネは足を動かそうとするが、両の足は地面を押しのける事は出来ない。彼女の筋力では腕の力だけで脱出は出来ない。
「俺がこれを連続して使えるのは四回。ここに侵入するのに一回使い、これで二回目だ。まったく、手こずらせてくれる」
するとエトネの体から『カテギダ』の存在が消えていく。時間が切れてしまった。
歩を進めるフジワラにエトネは対抗する手段が無い。
「エトネ。どうにかして逃げて!」
「うう……むりだよぅ。それよりもハヅミこそ逃げて!」
ハヅミの必死な叫びに弱音を吐くエトネ。そんな少女に対してフジワラは大仰に首を振った。
「やはり気狂いの類か。これでは正確な情報が得られるわけも無い。……人質としてなら使えはするだろうが、それ以上は高望みと言えるな」
「……どういうこと」
「はっ! 自分でも気が付いていないのか。いや気が付いていればそうはなるまい」
フジワラは嘲笑を覆面の下で浮かべると、周囲に向けて手を振るう。
「ここには俺とお前。この二人しかいないのだ! お前はここに居もしない存在に向けて語りかけていたのだ!」
「……え?」
萌黄色の瞳が揺らぎ、エトネは咄嗟にハヅミの方を見た。そこにはエトネを心配しているハヅミが居た。その視線を辿ってフジワラが黒いナイフを投げた。
よけて、と叫ぶ前に、ナイフはハヅミを貫―――かない。するり、通過して地面へと突き刺さった。ハヅミが避けたようには見えない。
「お前は昨日も今も、誰も居ない何もない所に向かって語り掛け、手を伸ばしていた。正直、監視している我らが気味を悪くするほどの光景だったぞ」
「そんな……そんな。ハヅミ。そんなことないよね。ハヅミはそこに居るよね」
エトネは震える声で語り掛ける。だけど、薄水色の髪で顔を隠す少女は何も答えない。
「ふん。この状況でも脳が作りし幻影に縋ると言うのか。哀れの一言に尽きる。いま、楽にしてやろう」
懐から取り出した小瓶の中身は即効性の睡眠薬だ。結界の下を潜ったとはいえ、ここは敵地。何処に監視の目があるか分からない。これ以上時間を掛けては逃走も難しくなる。
身動きの取れないエトネの顎を掴み、薬を流し込もうとして、フジワラは首筋に冷たいものを感じた。
見上げると灰色の雲から雨が降り始めていた。
―――瞬間。フジワラの口から血が零れる。
「―――っ!! ごっぼぉ!!」
それは尋常ならざる量で、芝の上は一面赤く染まった。急に体の内側から起きた衝撃に内臓が持ち上がり、重要な血管すら千切れてしまう。その場に蹲るフジワラの体を痛みが蹂躙していた。
(ど、どこから攻撃を受けた! 敵の気配はしていないぞ!!)
思考だけは繋ぎとめているフジワラには、自分のすぐ傍に敵がいることは理解できなかった。倒れ伏すフジワラの事を、虫けらを見るような眼で見降ろしていたのはハヅミだった。
「……ハヅミ?」
「本当はね。手を出すつもりは無かったの」
ハヅミが弁明するように口を開いた。
「人と人の争いに私が干渉するべきじゃない。偶然ここに居合せた私が介入したら、それこそえこひいきだもん。子供の喧嘩に親が出るようなもんよ」
でもね、とハヅミは続ける。
「友達が酷い目に合いそうになって何もできないのは絶対にやだ」
「……ハヅミ。……いまのはあなたがしたの」
「そうよ。こう、ぱんって。ナギバチを昏倒させた時と同じように、体の水分を震わせたの。もちろん威力は人間用に調節してね」
言いながら再び手を叩くと、フジワラの体が震え血を吐き出す。
間違いない。彼女がこれをしているのだ。
「……あなたは、なにものなの、ハヅミ」
「うーんとね、説明が難しいな。……私は私という存在における中枢でありながら同時に末端でもあるの。本来なら、もっと大きな存在である私なんだけど、どういう訳かこんな形で召喚されたの」
「しょう……かん。それじゃ、あなたは」
エトネが言い切る前に、フジワラが動いた。吐き出す血を飲みこみ、先程のとは別の瓶を取り出すとそれを飲み干した。
変化は劇的に起きた。二度の正体不明の攻撃によって受けたダメージが回復され、それ以上に力が漲っていく。あと数分もしない内に全快してしまうだろう。
「ありゃりゃ。回復と強化を同時に済ませたか。これじゃ、この攻撃はもう効かないな。……ねえ、エトネ。嘘を、友達に嘘を吐いていたワタシだけどさ、それでも私の事、信じてくれる」
嘘と彼女は言うが、エトネにそれは分からない。だけどハヅミの質問にエトネは即座に答えた。
「うん。だってともだちだもん」
エトネの幼くとも真摯な答えに、ハヅミは満面の笑みを浮かべた。
「……本当にいい子だよ。あの子によく似てるや。それじゃ、エトネ。今から貴女に力を与えるわ。『宣言』をした後に、さっきの詠唱をしてほしいの。でもね、呼び出すのは別の精霊よ」
「う、うん。《願い奉る》」
まるで生まれたての小鹿のように、力無い足で立ち上がろうとするフジワラ。それから守るように、ハヅミはエトネを背後から抱き締めた。エトネの耳に唇を近づけ、囁いた。愛しき、精霊の寵愛を受けし者に自らの真名を。
「《この身に祝福を》」
エトネは聞いた音をそのまま声に出した。その名が超級精霊と呼ばれ、かつて13神がエルドラドに直接関わっていた時代において、水を司るオケアニスの忠実なる片腕を務めていた存在と言う事を知らず、呼んだ。
「《出でよ、『ミヅハノメ』》!」
「ええ、行きましょう、エトネ!」
スタンピード最終決戦。赤龍が呼び出した超級精霊がエトネの体に宿る。
読んで下さって、ありがとうございます。




