5-30 奈落へ
鼻が刺激臭を嗅ぎ取る。その臭いはまさに刺すような痛みを粘膜に与え、レイは涙を浮かべながら意識を取り戻した。
「ッ! な、何が―――もがっ!」
レイの口は柔らかい手によって塞がれた。混乱するレイは何度も目を瞬かせて、自分の口を塞ぐ人物を見極めようとした。青白い鉱石に照らされて、ぼやけた像が輪郭を露わにする。レイの前に居たのはベールが無くなった事で褐色の肌とその美貌を晒すようになったナリンザだった。
「静かにしてください……死にたくなければ、何も言わないでください」
彼女は緊張を孕んだ声でレイに命令する。有無を言わせぬ圧力があり、レイは瞬きを繰り返して、従う意思を示した。そして、唯一自由な眼球だけで状況を理解しようとした。
周りは変わらず青い鉱石が照らすシアトラの迷宮……のはずだ。自信が持てないのは迷宮の作りが微妙に違うからだ。先程までいた広間や通路は岩壁がむき出しのまま。自然が生み出した洞穴だった。だけど、いま、レイとナリンザが居る場所はタイルが嵌められた規則正しい装飾がされている。青い鉱石は、タイルに使われているのか、通路自体が四方から輝いていた。
レイはナリンザによって、その窪みに押し込まれていて、身動きが取れないでいる。
ナリンザはレイの口を押えながら、その豊満といえる体を押し付けて、自分も窪みに入ろうとしている。豊かな体がレイの体に潰されるが、レイにそれを味わう余裕はなかった。ナリンザの横を向く表情が恐怖で引き攣っているのもそうだが、近くで聞こえる規則正しい音に思考が囚われている。
ずしん、ずしん、と。
ジャイアントラミアが尾を叩くかのような音が規則正しく響く。すぐに、それが足音だと分かった。それも複数の足音。次第にレイ達の居る窪地に近づき―――離れていく。
だが、まだ遠くに行っていないのは音で分かるため、安心はできない。レイはナリンザの向こう側に足音の主が作る影を見た。
ずんぐりとした体に、角の生えた影。それはレイにとって馴染深いモンスターの影である。
(……まさか、レッサーデーモンかよ!)
レイは内心で悲鳴を上げる。
超級モンスター、レッサーデーモン。羊のような毛を生やした両足を持ち、羊のような頭をした巨体に、人の背丈を超えるハルバードや棍棒などを振り回す怪物。
二度、レイはレッサーデーモンと戦った。一度目は一人で。二度目はリザ達と。幸運と偶然と《トライ&エラー》を駆使して掴んだ勝利は薄氷の上に成り立った、奇跡のような勝利だ。そんなことは自分が一番理解していた。もう一度戦えと言われても、勝てる自信はなかった。
そんな一体でも苦戦は必至の相手が三体居る。三つ並んだ影が通り過ぎるのを、レイは凍り付いたように動けないまま、見るしかなかった。
ようやく、聞こえてきた足音と伝わる振動が収まり。三体のレッサーデーモンが遠くへ消えたのを確認して、ナリンザはレイの口を塞いでいた手を外した。
「い、いまのは。レッサー……デーモンですよね」
「ええ。その通りです。……超級モンスターがよりにもよって三体も居るなんて。……レイ殿。動けますか」
レイは頷いた。すると、ナリンザは覆いかぶさっていた体を退けると、レイの腕を掴んで引っ張り上げる。そして、レッサーデーモンが消えたのとは別方向を指した。
「とりあえず、ここもいつ見つかるか分かりません。詳しい説明は移動しながらしましょう」
「分かりました。それじゃ、行きま―――っ!」
「……レイ殿、レイ殿!? どうしましたか!!」
レイの言葉は自身の体から発する強烈な痛みに阻まれる。痛みに胸を搔き毟るレイは、力が抜けたように膝から崩れ落ちた。遠くから、ナリンザが呼びかける声はレイの耳に届かない。
この痛みをレイは覚えていた。
彼は遠ざかる意識の中、自分の右手を見た。滲む視界の中で右手の甲に浮き出ている鎖が蛇のように伸びて、腕を伝って胸に向かって伸びている。
それは彼女らの内、誰かの死を意味していた。
「な……なんで……だよ」
レイは喘ぎながら、意識だけを最期の瞬間まで途切れないようにと歯を食いしばる。立て続けに起こる異常事態。少しでも多くの情報を次に繋げようと周りの景色を刻み込む。
だけど、死神の鎌が振り下ろされると、レイの命はろうそくの火を消したように終わりを告げた。
★
気が付いたら、鉛の海に沈んでいた。それも、煮えたぎる鉛だ。足の肉など、激痛をならし続けているが、果たしてまだ原形をとどめているのだろうか。
腕や胸などは鉛に喰われてむき出しの骨となり、それもまたじゅうじゅうと音を立てて崩れていく。鉛の海は荒れ狂い、高波が頭から覆いかぶさる。髪が焼け、むき出しの頭蓋から雨漏りするように鉛が脳に落ちていく。
頭の中で、地獄の演奏会が無限に繰り返される。
喉に絡みついた鉛は肉を焼きながら、下へと潜っていく。それで中を食い破って外に出てくれるなら、それは幸運と言える。大抵は、再生したまっさらな体の中に取り残され、白地のキャンパスに絵の具をぶちまけるかのように初めての痛みを浴びせていく。
内と外、両方を食い破る痛みの中、僕は鉛の海を泳ぐ。何処で腕を落とし、何処で足を落とし、何処で頭を落としても泳ぐ。
この海の中で彼女たちの誰かが居る。そう信じて泳ぐ。
そして、ついに見つけた。
銀色の鉛の海面に紫がかった黒髪が揺蕩うのを。
シアラだ。
荒れ狂う波間に体を逆らう事もせず、崩壊と再生を繰り返している。その顔はどこか悲壮感が漂っている。迷子になった子供のように孤独にもがいているようだった。
―――せめて、この地獄の中で、傍にいてあげたい。
思った瞬間には体は再び泳ぎ出していた。イタミは全身から発せられている。だけど、それは体を止める理由にはならない。
骨だけとなり、それも崩れて再生し、そしてまた肉は鉛に喰われて原型を留められなくなる、無限地獄の中を泳ぐ。
自分に唯一残った指で、シアラの方に手を伸ばした。シアラまた、唯一残った指を伸ばした。けれど、互いの指先は触れ合う前に、溶けて消えた。
★
「っウウウ!!」
「静かにしてください……死にたくなければ、何も言わないでください」
レイは覚醒と共に、叫びそうになる。それを察知したナリンザが強く口元を抑える。だが、レイの様子は明らかにおかしかった。肌は白く、表情は地獄を見たかのように恐怖に染まり、脂汗が全身から溢れている。
全身を貫くイタミの中、レイは叫ぶ自分を押さえつける。自分の喉を自分で締め、内外を蛇のように這いずり回るイタミを堪えていた。それは永遠に続くかのように思えたが、ナリンザが体を退かした時に合わせて、収まり始めた。
「大丈夫ですか。首を締める必要なんて、なかったのに」
レイの首には自分の指の痕が赤く残っていた。ナリンザはレイを引き起こすと、肩を貸した。そうでもしなければ、レイは立つ事すらままならない様子だった。
(……もうじき、シアラが死ぬ時間だ)
イタミで朦朧とする意識の中、レイはそれだけを思い出していた。三体のレッサーデーモンが通り過ぎた後、自分達が移動を開始したのと同時ぐらいにシアラは死に、対等契約の呪いが発動した。
レイは襲ってくるかもしれない激痛に歯を食いしばった。ところが、ナリンザに肩を借りて歩く中、いくら待っても来るはずの激痛は来なかった。
時間の流れが変わったのだ。
(とりあえず、死ぬことは無いのかな。……シアラの事はあとに考えよう。いまは少しでも情報を)
レイは肩を借りているナリンザに話しかけた。
「僕は、どれぐらい眠っていましたか」
「それほど長くは。一、二分と言った所ですね。転移してからまだ十分も経っていません」
「え? でも、あの魔法陣が僕の意識を奪ったなら、貴女の意識も」
レイの疑問にナリンザは指にはめた指輪を掲げて答えた。
「私は護衛の為に、いくつかの耐性を付与する指輪を付けています。昏倒もその内に含まれており、あの程度の魔法陣なら気絶を免れます。転移した直後、レイ殿の体をあそこに押し込め、気付け薬を嗅がせました」
ナリンザは腰に付けているポーチから試験管を指に挟んで持ち上げる。緑色の回復薬を始めとして、上級回復薬や解毒薬、麻痺治しなどありとあらゆる回復アイテムが詰まっていた。
「そうだったんですか。それでここは一体、どこなんですか?」
「不明です。シアトラの迷宮……のはずですが。確認するために、しばしお待ちを」
ナリンザはレイに断わると、新式魔法の《人探し》を使用した。光の玉が矢印となって上を向いた。初めてみるレイには意味が分からなかったが、ナリンザが説明する。
「この矢印は王子の居場所を方角として示しています。距離は不明ですが、ほぼ真上のようですね」
「だとしたら、中層部。……でも、超級モンスターが居たことを考えれば、下層部って事もあり得ますか。……ナリンザさんと、僕だけですよね。魔法陣に掛かったのは」
「ええ。私達だけです」
そうですか、と返したレイは足を引きずりながら、思考の海へと潜った。
転移魔法陣にシアラが掛かっていない事。そして、シアラがセーフティーゾーンで死んだという事から、シアラが死んだ原因は二つ。
一つは自殺だ。
レイは目をつぶるとステータス画面を呼び出し、《トライ&エラー》に異変が起きてないかを確かめる。幸運にも、という言い方は不適切かもしれないが、『使用不可』は表示されていない。
これがシアラが自殺をしていないのを表しているのか、それとも戦奴隷の自殺は『使用不可』の発生理由にならないのか。そのどちらなのかは不明だ。
ともかく、この非常事態に《トライ&エラー》が使えないという状況は回避できた。その事に、胸をなで下ろすと同時に、残った原因に気づき、気持ちが深く沈んでしまう。
残った原因。それは他殺だ。それも、あの場に居た誰かに―――いや、仲間の誰かによって殺されたのだ。
認めたくない現実だが、消去法で可能性を消していくと、それが真実のように残ってしまうのだ。現場はモンスターの生まれないセーフティーゾーン。そして、レイが転移してから僅か十分も経っていないという状況。そして、自殺では無いという事実。
状況証拠が、シアラの死を仲間の誰かの犯行だと証明していた。
(……きっと、僕を助ける為だろうな。僕が気絶中なら、《トライ&エラー》が発動した時に戻れるポイントがサラマンダー戦前だと考えたんだ)
そのような発想に至れるのは、あの中ではシアラだけだ。彼女がその身を犠牲にして死に戻りを発動させたのだ。
だとすれば、彼女を殺したのは―――リザと言う事になる。少なくとも、レティやエトネにシアラを殺すことはできない。実力的にも、性格的にも無理だ。
がりっ、と。レイは自分の唇を噛みしめた。鮮血が口内へと入り込み、鉄錆びのような匂いが意識を明確にする。
不甲斐ない自分に怒りを通り越して、殺意すら湧く。自分があの時、転移魔法陣の上で死ねなかった事で、仲間が仲間を殺すという悲劇が起きてしまったのだ。どれだけ詫びても気がすまなかった。
だけど、同時に気になる事もあった。
どうしてシアラは、レイ達がラミアの巣に落ちた時に死を選ばず、今回に限ってリザによって殺されるという重大な決断を下したのか。
その答えは自ずと分かった。
(シアラは何かの未来を視たんだ。僕がこの先辿るだろう最悪の未来。それを回避するために、シアラは死を選んだのか。……だとすれば、ここは相当な危険地帯だな)
レイは視線を周囲に向けた。規則正しいタイルが並び、まるでピラミッドの内部のような整然とされた通路。幾つもの通路が合流と分裂を繰り返し、無秩序に歩けばすぐに迷ってしまうのは間違いない。
レイは懐に仕舞ってある羊皮紙と鉛筆を取り出そうと、懐に手を入れた。すると、ナリンザが足を止めたので、レイも足を止めた。
―――瞬間、世界が速度を失う。
全てが遅くなる世界で、レイは自分に向けて巨大な刃が振り下ろされたのに遅れて気づいた。咄嗟に刃を防ごうと、懐に入れた手をそのまま前に突き出した。
ずぶり、と。出鱈目な大きさの刃が炎鉄の手甲を食い破り、その下の腕を切り飛ばしたのを、速度を失った世界でレイは目撃した。
そして、世界が速度を取り戻すと、天井にぶつかり跳ね返る左手。そして、失った物の大きさを告げるように痛覚が走る。
「っだああああああ!!」
突然の痛みにレイの口から獣のような絶叫が発した。傷口を抑えようと、咄嗟にレイは膝を付いた。それは正解な行動と言えた。
レイの頭があった場所を、正面の刃が空間を貫くような刺突を繰り出した。あとコンマ数秒遅かったら、レイの首は腕と同じ末路を辿っただろう。ナリンザは既に槍を構えて、敵の懐に飛び込んでいた。彼女が足を止めたのは、敵の存在に気が付いたからだ。
痛みで混乱する中、レイは敵の姿を見た。レイの腕を切り飛ばした剣は、先端にいくほど剣幅が広がり、先端では弧を描く。イル―ンと呼ばれている剣だ。特殊な形状の剣を構えるモンスターの姿も特殊だった。赤茶色の皮膚にだらしなく弛んだ体、短い腕と足は、単なる肥満児にしか見えない。だけど、頭に被っているモンスターの顔面の皮膚を剥いだマスク越しに見える黄ばんだ瞳は間違いなくモンスターだ。
敵の懐に入り込んだナリンザは双頭の槍を振るい、モンスターの腕を切り飛ばした。次いで、返す刀でモンスターの胸を穿つ。どうやら魔石を砕いたようで、モンスターはレイと同じように膝から崩れ落ちる。
「レイ殿、いま止血します!」
ナリンザは慌ててレイの傍に駆け寄る。傷口を診て、すぐに止血に取り掛かった。体に纏っている薄布を破き、傷口近くを縛る。
「申し訳ありません。油断していました」
「謝ることないですよ。……僕の不注意です。……でも、攻撃される時まで、あそこにはなにも居なかったのに」
《生死ノ境》が発動する寸前まで、通路の前方に敵の姿は影も形も無かった。だが、その理由をナリンザが説明する。
「いまのはインビジブルストーカー。攻撃する時以外は姿を消して、獲物が近くを通るまで待ち油断した所を狙う、たちの悪いモンスターです。……でも、どうしてこうも立て続けに超級モンスターばかりがっ!」
ナリンザの言葉が途中で止まった。レイは血が抜けていく分、冷たくなっていく体を尻目に、視線をナリンザの背中から生えている刃の根元へと向けた。そこには先程のとは別のインビジブルストーカーが居た。どうやら、姿を隠す卑怯者は二体居たようだ。
―――いや、違う。
自分の腹から突き破った刃を見て、レイは三体目の存在を確信した。
そして、理解した。
ここが何と呼ばれている場所なのか。
超級モンスターが跋扈する、ありえざる空間。
シアトラの迷宮、深層部。
レイは二度目の死に沈んだ。
読んで下さって、ありがとうございます。
次回更新は十三日月曜日頃を予定しております。




