5-19 シアトラの迷宮Ⅱ
―――頭の奥でじいんと、痺れが走っている。最初は激しく、次第に弱くなっていく痺れに合わせて五感が戻って来る。
遠くの方で誰かが何かを言っている。頬や体に冷たい物が振れている。湿った土などの匂いが鼻孔に飛び込んでくる。口の中が切れたのか、血の味が口内に充満している。聴覚、触覚、嗅覚、味覚の四つが起動して、やっと視覚が正常に働こうとする。
いつの間に開けていたのか、瞼は開いている。薄暗い、青白い世界が揺れ動いている。何度か瞬きを繰り返すと、世界が揺れているのではなく、自分の感覚が揺れているのだと理解できた。平衡感覚を失い、自分が壁に寄りかかっているのか、それとも地面に倒れているかすら、判別が付かない。
きーんと、調子はずれた耳鳴りが鎮まっていくと、邪魔な音に塞がれていた声が耳元で自分を呼んでいることに気が付いた。
「おきてよ、おにいちゃん!」
―――エトネの声だ。
繰り返し自分を呼ぶエトネの必死な声が、レイの気力に火を付ける。吐き気を堪えながらレイは四肢に力を籠める。ごろり、と体を転がすと、どうにか上半身だけを起き上がらせた。
その時になってようやく自分が地面に寝ていたのだと気づいた。
正面にはエトネの泣きそうな顔があった。顔を歪めて、折角の可愛らしい顔が台無しである。
レイは記憶を手繰り寄せて、意識を失う直前の光景を思い出して戦慄した。突如、エトネの足元に展開された魔法陣は眩い輝きを放ち、中に飛び込んでしまったレイはリザの焦る声を最後に記憶を失ったのだ。
「……エトネ。……エトネ、怪我はないか!」
レイはエトネの小さな体を押し倒しかねない勢いで掴んだ。エトネは一瞬、面喰ったように固まるが、首だけは何度も縦に振る。途端に、レイの胸の内に安堵が押し寄せた。確認のため、エトネの体を上から触って傷が無いかを確かめた。
「よかった。何処も怪我していないようだね」
「……よくないよー」
顔を真っ赤にして小さな抗議をエトネはするも、レイはもう自分の体を確認しているため気づいていなかった。レイの方も目立った外傷は無く、吐き気も収まってきた。
「僕の方も同じだ。それで、他の皆はどこに居るんだ」
レイが尋ねると、エトネがすぐそばを指した。そこにはダリーシャスが横になって倒れている。
「王子。……ダリーシャス王子。おい、王子!」
レイが何度も呼びかけるが、一向に返事は無かった。それこそ、死んでいると言われて納得しそうなほど、無反応だ。慌ててダリーシャスの傍に付くと、うつ伏せになっている彼の体をひっくり返した。
ボタンを開けて素肌を晒す胸は、上下に動いている。目と口を閉じていると、なかなかの美男子ぶりを発揮している。これが一度喋り出すと残念な評価になるのが残念だ。
「王子。ダリーシャス王子。起きてください」
王子を呼びかけると同時に肩を揺らすも、目覚める気配はしない。それどころか、ダリーシャスはうるさそうに眉を顰めると、
「うーん。……あと五分。……と半日」
「寝過ぎな上に古典的なボケをここでかますな!」
レイはダリーシャスの無防備な腹に拳を叩きこんだ。途端に、ダリーシャスの橙色の瞳が大きく開かれ、体がくの字に折れ曲がった。
激しく咳き込むダリーシャスが苦しそうに尋ねる。
「ゴホッ、ゴホッ! て、敵襲か!?」
「ええ、そうです」
レイは躊躇わずに言う。隣で驚くエトネの口を塞いで、レイは即興のカバーストーリーを口から垂れ流す。
「モンスターが王子を襲い、腹に一撃を与えたので、すかさず僕らが追い払ったのです。もう、大丈夫。安心してください」
「そ、そうか。はぁはぁ。……少し、横にならせてくれ。頭がガンガンする上に吐きそうだ」
「分かりました。僕らが付いています」
頼もしいな、と返したダリーシャスに一抹の罪悪感を抱きつつ、レイは口を塞いでいるエトネに囁いた。
「僕が王子を殴った事は秘密にしておいてくれよ。……これ以上、ややこしい事態は御免だ」
どこか清々しい表情のレイにエトネはこくりと頷いた。
そして数分後。ダリーシャスもどうにか起き上がれるほどに回復した。鍛えてある腹にはどう見ても人の拳の形をした傷が残ってしまったが、レイの言葉を信じ、モンスターに恨み言を呟いていた。
「まったく。人の寝込みを襲うとは野獣並みの行動ではないか。いや、モンスターと言うのはそういう物か。……さて、それでは本題に入ろうではないか」
「本題ですか、それってやっぱり、ここが何処かって言う話ですよね」
レイが尋ねると、ダリーシャスが周囲を見回して言う。
「その通りだ。我らは迷宮に居る事は間違いないようだが……ふふん。どうらやら雰囲気が違うな」
ダリーシャスの言う通り、レイ達三人が目覚めたのは先程までいた円形の広間とも、迷路のような通路とも違っていた。人が優に四人は並べられる道幅に、高い壁面の天井には風で削られたような石の氷柱が何本も生えている。レイ達が通って来た一階層と二階層とはまるで違う雰囲気だ。
ダリーシャスが頬を伝う汗を拭った。快活な王子なれど、迷宮の放つ重く粘つくような不快な空気に当てられているようだ。表情をこわばらせて周囲を観察している。
「王子の―――」
「―――ああ、待て。俺の事はダリーシャスで良いぞ。あまり、王子王子と呼ばれると、上に帰った時に正体が露見しかねない。呼び捨てで構わん」
レイは躊躇しつつも、本人が許可したことだと割り切った。
「分かりました。ダリーシャスの言う通り、雰囲気が一階層や二階層、三階層とも違います。そして、周囲にはリザ達の姿が無い事から、どうやら、僕らは更に下の階層に落とされたようです。原因は、あの魔法陣かと」
「ダンジョントラップか。まったく度し難いほど腹立たしいことこの上ないな。仲間と引き離された上、何処とも知れない場所へ送り飛ばすとは」
ダンジョントラップ。
迷宮の罠。
そもそも迷宮はモンスターが生まれる経験値の稼ぎ場や、珍しい鉱石や植物が採取できるだけの場所では無い。本質は人の命を刈り取る処刑場だ。意思を持っているかのように、入り込んだ者を死へと誘う。
その代表例がダンジョントラップだ。
例えば、細い通路の中央に行く手を塞ぐように落とし穴があったとしよう。下が見えない程の深い穴だ。一方で、その穴の幅は狭く、飛び越えようと思えば飛び越えられる距離だ。遠回りを厭う者は自らの脚力を信じ、穴を飛び越えようとして―――穴の上にある見えない壁に遮られて落ちていく事になる。
あからさまに見えている罠と、まったく見えない罠を同時に仕掛ける事で、人を奈落に落とす。
冒険王曰く、『孔明の罠』と呼ばれているダンジョントラップの代表例だ。
レイ達の足元に展開された魔法陣もダンジョントラップの一種である。
「この状況だと、あれは拘束と転移と……気絶かあるいは昏倒、失神か。とにかく三つの魔法が組み込まれた陣なのだろう」
ダリーシャスがキャラに似合わず知的な解説を始めた。レイとエトネは黙って傾聴する。
「最初に魔法陣に掛かった者を拘束。その者を囮として、助けに入った仲間の意識を奪ったうえで転移させるという仕掛けだ。複数の魔法を組み込んだことで転移が始まるまでに若干猶予があったのだろう。まったく助けに入る人の心理を上手く使う、見事な罠だ。まんまと掛かってしまったぞ」
あの時。レイが魔法陣からエトネを引きずり出そうとしていた時、ダリーシャスはレイ達を助けるべく、魔法陣に踏み込んでいたのだ。彼だけは、あの場で何かが起きると言う予感を抱き、前を走るレイ達を止めるべく追いかけていたから、魔法陣に飛び込めたのだ。
「何を感心しているんですか。でも、意識を奪うといことは、転移した先でモンスターに襲わせる段取りなのかもしれ……って、エトネ。何を泣いているんだい」
レイが横を向くと、エトネが萌黄色の瞳から大粒の涙をポロポロとこぼしていた。
「だ、だって。エトネが、おにいちゃんとおじちゃんをまきこんだんでしょ。リザおねいちゃんは止まれっていってたのに、エトネがわなにかかったから……ごめんなさい、ごめんなさい」
「ああ、エトネ。泣かないで」
手で拭っても次から次へと涙がこぼれていく。レイがエトネを抱き寄せても涙は止まらず、余計な事を言いやがってとメッセージを籠めてダリーシャスの方を睨む。ところが。
「……何で、アンタまで落ち込んでるんだよ」
「……おじちゃん……か。……そうか、そういう年なのか、俺は……まだ二十五なんだがな」
エトネのおじちゃん呼びが相当堪えたらしく、肩を落としている。レイはため息を吐いて、二人を励ましにかかった。
「エトネ。人は誰しも失敗する。でも、次で挽回すればいいじゃないか。幸い、こうして僕らは無事に生きているんだし、武器だってある。挽回するチャンスはまだ残っているだろ。ダリーシャスはその……元気出せ」
「俺に対する扱いが雑だな!」
ダリーシャスの抗議は黙殺する。
「……うん。わかったよ。……ありがと、おにいちゃん。エトネ、がんばる」
「よし、その意気だよ」
今泣いた烏がもう笑うとはよく言ったものだ。泣き止んだエトネが元気を取り戻した所で、話し合いを進める。脱力したようにふて寝するダリーシャスにレイは、
「ダンジョントラップなのは分かりましたけど、リザ達もあの魔法陣を使えばここに来るのでしょうか」
と、尋ねた。ダリーシャスはふて寝を続けたまま、
「それは無いだろう」
と、断言した。
「あの手のダンジョントラップは単発式。一度使えば、魔力が霧散し、別の場所に新しいのが生成される。よしんば、あの者らが罠に掛かったとして、それの行き先がまたしてもここだという幸運は無いだろう。……そういえば、ナリンザが申していたんな。往々にして魔法陣の転移先には意味があると」
「意味ですか。それは一体」
何なのですか、とレイが続けようとしたが、別の音が言葉を遮った。
ずるり、と。
地面を擦る音がしたのだ。即座にレイ達は臨戦態勢を取る。ふて寝をしていたダリーシャスも含めて、三名はそれぞれ背中を合わせて周りを警戒する。
ずるり、と。
再び音が聞こえる。レイたちが転移された場所は長い通路の中央だ。緩やかな曲線を描く通路は、音の持ち主の姿が見えない。
ずるり、と。
音は近づいてくる。音だけでも、何か大きな存在だと理解できる。レイはエトネに向かって、
「音はどっちの方角から聞こえてくる」
と、尋ねる。エトネは音に集中するかのように耳を澄ませるたが苦しそうに告げた。
「りょうほうからだよ」
「挟まれたという訳かぁ」
ダリーシャスがチャクラムを両手に構え、いつでも投擲できるようにと身構えた。レイもファルシオンを抜き、カーブの先から向かってくる敵を待ち構える。残念ながら、隠れるようなスペースは無い。
ずるり、と。
いよいよ音がハッキリと聞こえる距離まで聞こえて来た。レイの耳にも音が二つ重なっているのが区別できる。頭の中で敵に対してどのように攻撃を仕掛けるかと考えていたその時。
「こっち、こっち」
小さな声が聞こえた。それはまるで子供のような柔らかい声色で、一瞬幻聴が聞こえて来たのかと、自分を疑ってしまう。
「こっちだよ、エトネ。冒険者の兄ちゃん!」
しかし、再び切羽詰まったような声がした。幻聴では無いようだ。レイ達は声のする方を見て、驚いた。なんと、通路の壁の下から上半身だけになった少年がレイ達に手を振っているのだ。
その少年に見覚えがあるなとレイが考えていると、答えはエトネが出した。
「マリオン! ぶじだったんだ」
そう、上半身だけで手を振るのはレイ達が探しに来た行方不明の子供の一人、マリオンだった。
「喜ぶのは後! 早くこっちに来いよ!」
マリオンは焦りを滲ませると、にゅるんと壁の中に消えてしまった。先程までマリオンの上半身があった場所は波打つように揺れていた。
「しめたぞ! 抜け道だ!」
展開に着いて行けないレイを尻目にダリーシャスは波紋を残す壁に向けて頭から突っ込んでいく。すると、レイの予想に反し、彼の体はぶつかるどころか、そのまま壁の中に消えていく。
再び波紋だけを残して、壁面は何事もなかったように振る舞っている。
「おにいちゃん。どうしよう」
不安そうに通路の先と壁を交互に見るエトネにレイは安心させるように頭を撫でた。
「ここは、マリオンを信じるとしよう。いくよ、エトネ」
レイはエトネを抱きかかえると、そのまま壁に向かって滑り込む様にぶつかり―――潜り抜けてしまった。
その数十秒後、まるで最初から誰も居なかったかのように無人となった通路に、音の持ち主が二体、姿を見せた。
体長は二メートルを超えるだろう。艶が無い針金のように鋭い髪を振り乱し、上半身は人間の女のような姿形をしている。だが、その相貌は鬼女もかくやという形相。この世の全てを憎んでいるかのように歪んでいた。とてもじゃないが、人の顔ではない。何より、下半身は蛇の尾の様に長く、人の足をしていない。鱗が地面と擦れる度にずるり、ずるりと音を鳴らしていた。
「ギシャアアアアア」
鬼女の顔から長い舌が伸びると、そこから垂れた唾液が地面を溶かしていく。まるで、ここは自分たちの縄張りだと主張するかのように。
それは正しかった。
シアトラの迷宮、上層部五階層。そこは中級モンスター、ラミアの巣だ。
読んで下さって、ありがとうございます。




