3節 コウスルシカ、ナイノ。
目が腫れていないかと心配だった次の日の朝、意外とそんなことはなく通常の起床となる。
いつもの朝、いつもの食卓。居間に差し込む朝日が眩しく、私は目を細めた。でも今日も多分、雨が降る。だって梅雨だもん。
何事もなかったかのように進む日常は、異常すらも普通の事象に変えてゆく。毎月、各学年から生け贄が出される制度は、いつの間にか普通の日常として私の中で消化されてゆくのだろうか。
『……続いてのニュースです。月夜見市の繁華街、上条にて伴元吉武さん(38)が胸から血を流して死亡しているのが発見されました』
いつもの朝の、いつものニュース。私の目は、吸い込まれるようにニュースを凝視していた。被害者の顔写真が出る。私は握っていたフォークを落とした。
「世槞」
「姉さん」
兄の愁と弟の紫遠が同時に私を呼ぶ。私は取り繕れていない笑顔で「なんでもない」と言った。
ああ、どうしてどうして。これは何かの間違いよね、きっと。だって、私が昨夜、無意識的に殺そうとしていたサラリーマンが、本当に殺されていたなんて何かの間違いよね。
私じゃない。違う。違うはず。
サラリーマンはあの後、交番に駆け込んでいた。そのまま無事に帰宅するものだと思っていたのに。
「……あ」
まさか、道化師が……。
今度ヤツが現れたら、問いただしてみようと思った。
戸無瀬高等学校、1年普通科Aクラス。私が通うクラス。「おはよう」と言って入ると、「おはよう」という返事が四方から返ってくる。でも、いつまで待っても返って来ない返事が、教室の中央にあった。
――空席。違う。昨日までは、詳しく言うと昨日の終業間際までは、ここに木乃芽耶南というクラスメイトがいた。
今は誰も使っていない。
私は自分の席につく。窓際の一番後ろだ。席について、授業を受けた。普通に流れる日々が、普通に続いたある日、私は常盤先生に呼び止められた。
「このままでいいのか?」
と。
「よくありません」
私は即答しました。
「まずは仲間が必要だ。オカルト研究部へ入部しろ」
「オカルト研究部……」
「丁度、空席があるんだよ」
「それって」
空けたものの、埋まるはずの部員がいなくなってしまったから。
私は常盤先生と共にオカルト研究部の部室の扉をノックした。中にいた部員たちは驚いた様子だったが、常盤先生の説明を聞いた後、恐る恐る納得の意を示した。
「まさか教師側に“正常”がいたとは!」
部長の周防隆臣先輩が、額を抑えて「盲点だった」と言った。
「梨椎世槞ちゃん、ね。木乃芽くんの友達?」
2年生の椿撫子先輩が、友達を失った後輩を痛みながら、優しく問う。
「はい。木乃芽くんは……耶南は、私の代わりに殺されたようなものなんです」
あの時、校舎の裏手へ回っていたのが耶南だったなら、今頃殺されていたのは私のはずだった。
「自分を責めるのは止めなさい、梨椎。責めるべくは戸無瀬の、この腐った生け贄制度ではないか」
常盤先生が戸無瀬へ赴任してきた5年前、新任の教師たちの歓迎会が開かれたらしい。出されたビールを他の新任教師たちは疑うことなく飲んだ。しかし常盤先生はビールから微量の異臭を感じたらしく、下戸を装い、申し訳程度に飲むフリだけをしたそうだ。その直後から戸無瀬の操り人形と化した新任教師たちを見て、常盤先生は戸無瀬の実態を思い知った。
「あの日から、早く異動にならないかと、そればかりを願ってきたが……オカルト研究部のお前たちを見て、私も考えを改めた。戸無瀬の生け贄制度を廃止する。無意味に殺されてゆく生徒たちを、守りたいと……ね」
白金の明るい髪色をした2年生の一和大輔先輩が、ピュウ、と口笛を吹く。
「すげー、かっけぇ! 大人が加わってくれたら、力強いな。でさー、常盤センセに質問なんだけど、第一桜木高等学校はドコにあるわけ?」
「それは私も知らない」
「あれ? センセなのに?」
「教師でも全てを知らされているわけじゃないんだ。私に与えられた役割は、“生け贄が出ても何事もなかったかのように学校を運営する”ことだからね……」
「つまり、生け贄実行部隊に配属されてないってことかァ。役立た……あ、やべ。口が滑っちまうとこだった」
椿先輩に額を小突かれ、一和先輩は舌を出していた。
「結局、桜木の場所は誰もわからない……か。じゃあ常盤先生、生け贄制度の首謀者は誰か知ってます?」
周防部長の問い掛けに、常盤先生はまたしても首を振る。
「生け贄制度に関する質問には、誰も答えてくれない。だが私は、校長あたりが怪しいと思うがね」
「ああ、あのハゲか。しかしいきなり戸無瀬のトップに特攻してもな……こっちが生け贄にされかねない」
うーん、と唸る声が交差する。私は立ち上がり、部室を出た。
「梨椎?!」
「帰ります。オカルト研究部に入部しても、たとえ先生が仲間になったとしても、結局、答えが出ないままのようですから」
意味が無い。誰も戸無瀬には逆らえない。ならば、取る手段は1つだけ。
「待て!」
部室から飛び出て、私を追いかけてくる先輩が1人。……2年生の朝霧蒼夜先輩。話し合いの中で、1人だけずっと黙っていたヒト。
何を言いに来たのかしら。話し合いに戻れ、か、または部活への勧誘? 悪いけれど、別に私は正気を保った者同士の馴れ合いなんてする気はないの。耶南を失った悲しみを共有するつもりもない。
「梨椎。自分の家族が、自分の知らない人間になってしまったわけではないこと、ただ操られているだけのこと――知れて、良かったんじゃないか?」
「…………」
「でも家族やその他操られた人たちを元に戻す術がわからない。このまま卒業まで待てば戻るという保証も無い。ゆえに答えが出なくても俺たちは足掻き続けなくちゃならない。だから――」
「…………」
「だから、早まるなよ?」
私は朝霧先輩の目をチラリと見ただけで、すぐにその場を去った。
校庭へ出て、桜の木の前に立つ。まさに戸無瀬のシンボルと言える、巨大で、立派な桜。樹齢は何百年……もしかしたら千年を超えるかもしれない。そして散らない。
その桜を見上げ、私は首を傾げた。巨大。立派。樹齢は気が遠くなるほど。なのに……。
「妙に<低い>よなァ、この散らない桜」
またもや道化師が現れた。道化師は、私が不思議に思ったことを言葉にして言い当てた。
私はぎこちない動きで隣りに立つ道化師を見る。その道化師の向こうに見える校舎には、1年生の教室が並ぶ。私のクラスは普通科A。普通科A教室前の廊下では、話しかけてもいつも無視する少女が佇み、窓の外を見下ろしている。
「――オイ」
道化師は声を低くして、言う。
「オイ、どうして保健室で見た光景を、オカルト研究部のヤツらに教えてやらなかったんだ?」
道化師の言葉はもう耳には入らない。私は、気付いてしまった。
「ああ、ちなみにサラリーマンを殺したのは俺じゃないぜ。テメェが殺さなかったから、代わりの救世主様が鉄槌を下してくださったんだ」
気付いてしまったからには、行動しないといけない。でも、入り口がわからない。
だから、こうするしかないの。
ポツ、ポツ、と頬を雨粒が撫で、落ちる。緩やかだった雨はすぐに土砂降りへと変貌する。道化師の姿はもうどこにもない。廊下に佇む少女の姿も、激しい雨の為か見えなくなっている。桜の花びらは、枝に固定されたように落ちない。
雨の音が激しい。一粒一粒が強く私の身体を打つ。ああ……今なら、思い切り泣いても誰にもバレないかもしれない。
ビシャン、と雨に濡れた地面を踏みしめる足音が近付く。視線だけを動かすと、傘に隠れて顔は見えないが、確かに双子の弟がそこに立っているのが見えた。
「傘、無いの?」
頷く私。
「じゃあここに入って」
首を振る私。
「そう」
弟はすんなり納得し、正門を出た。
びしょ濡れで帰宅した私を、誰も気にしませんでした。うん、これは良い兆候だ。
これで安心して、計画を実行出来る。