2節 バイバイ。
その日の終業間際に行われるホームルームでのことです。これまでに例をみない緊急事態ということで、木乃芽耶南という少年が臨時の生け贄に抜擢されたのは。
クラス内がざわつくことはありません。
生け贄は昨日、普通科Eの田邊弘治に決定したばかり。臨時とは何ですか? 生け贄制度にそんなシステムはありましたか? その抜擢に、学力テストの結果は関係しているのですか?
いいえ、そうではないと私は確信している。
――昨日、保健室を覗いていたことがバレたから……。
あの少年は……ジッと前を見据えたまま動かない少年は、これから美味しく味付けをされてしまうのですか?
化学の五十嵐先生と現代文の石代先生が教室の中へズカズカと入ってきます。ええ、それはズカズカと。そして少年の両脇を無遠慮に掴み、連行します。少年は抵抗しませんでした。ただ少し私の方を見て、悲しそうに笑いました。
「ばいばい」
それが彼がくれた最後の言葉でした。私も心の中で「バイバイ」と彼に返事をしてあげました。声に出した方が良かったかな、と少し後悔しましたが、もう遅いです。
終業を告げるチャイムが鳴り、教室内が賑やかになります。今し方、クラスメイトが殺される為に連れて行かれたというのに、誰もそのことを気にしていません。
私も気にせず、廊下へ出ました。廊下では、窓辺にて無言で佇んでいる少女がいました。見たことのない少女でした。話しかけてみました。
「こんにちは」
無言でした。
私は散らない桜が咲き誇る6月の校庭へと足を運び、そのまま上条へと向かった。上条とは、月夜見市内にある繁華街の名称である。学校からも仕事からも解放される夕方は、人でごった返している。
はて、何故私はこんなところにいるのか。繁華街に用など無い。買いたいものも、行きたいところも、一緒に来てくれる友達もいない。
「……友達」
彼は、木乃芽耶南は果たして友達だったのだろうか。お互い正気を保った者同士、仲が良かったのは確かだ。仲が良いことを友達だと呼ぶならば私と木乃芽耶南は確かに友達だったのだろうが、それは生け贄制度という特殊な条件の下、形成された奇妙な絆だ。戸無瀬が普通の学校であったなら、私と木乃芽耶南は仲良くなっていただろうか。普通が当たり前すぎて、互いの存在など気にすらしていなかったかもしれない。
「今更考えても、仕方ないわね」
だって、彼はもう、死んだから。
死んだ。
ポタ、ポタ、と地面に落ちているのは私の涙か。違う。これは、
「雨だ」
梅雨。雨が多く、じめじめとした季節の到来。連日降りしきるであろうこの雨が、忌まわしき桜の花びらを叩き落としてくれたらいいのに。
私は歩く。前方を歩くサラリーマンの背中を睨みながら。
あら、私は一体なにをしているのと気がついたのは、人気の無い細い路地にてあのサラリーマンを踏みつけていた時だ。
「え……」
私が片手に握る包丁、これはナニ?
「なっ、なんだお前は! この人殺しがぁ!!」
踏みつけているサラリーマンが悲鳴をあげる。私は恐ろしくなり、包丁を投げ捨てて逃げた。
「そこの女を捕まえてくれ! 俺を殺そうとしやがった!」
両耳を塞ぎ、私は上条を走った。人にぶつかり、弾き飛ばしてしまっても気にする余裕無く。
「ああ……」
どうしよう。私はもしかしたら、月夜見精神病院に入院する資格を得てしまったのかもしれない。だとしても原因は戸無瀬高等学校にある。生け贄制度なんかを導入しているから、耶南を殺したりするから、悪いのよ!
「ん? なんだよ、あのサラリーマン野郎、生きてんじゃねぇか。どうしてトドメを刺さなかったんだよォ、世槞?」
金色の細かい巻き髪に、笑顔の仮面。赤くてボリュームのある服に大きな手袋、大きな靴。――神出鬼没の道化師は私の前に現れ、表通りにある交番へ駆け込んでいるサラリーマンを見ながら、笑った。
「あと少しで、テメェは世界を救うヒーローの一員になる為の登龍門を潜れたのによォ。影人なんざ、殺してナンボだぜ?」
「私を狂った犯罪者に仕立てあげないで」
「おいヲイ。シャドウ・コンダクター様を狂犯者呼ばわりすんじゃねーよ。救世主って呼べ、救・世・主」
道化師の言葉は、まるで悪魔の囁きです。
「意味のわからない単語を連呼しないで」
影人だとかシャドウ・コンダクターだとか、道化師も戸無瀬と同じく、カルト教団的な恐い発言をする。正義の為の殺人は許される――とかほざく集団と同じ。
「それより、私、大丈夫かしら。指名手配とか……」
「されるわけねぇーだろ!」
道化師は仮面に隠れた口を大きく開け、笑った。その自信はどこから来るのかわからないが、私は自分の中で暴れ回っている狂気と必死に戦いながら帰路へついた。
時刻は深夜0時。思ったよりも帰宅が遅くなってしまった。兄も弟も心配を……しているわけがないか。戸無瀬へ入学してから、兄も弟も変わってしまった。私だけを置いて、遠くへ。
私たち兄弟が住む梨椎家は、月夜見市の郊外に位置する。明治時代に建てられた洋館を度々改築し、現在のような洋風と和風が混ざった奇妙な外観となった。だから、家は無駄に大きい。家族は3人だけだから、余計に広く感じる。夜中に家の中をうろつくのは、今でもちょっぴり恐い。昔は、どこへ行くにも必ず一緒だった人がいたから、平気だったのだけど。
玄関扉を開く。これが結構、重い。家の中は暗い。今夜は月夜見市の名の由来となった月は雲に覆われ、見えない。月光にすら頼れず、私は手探りで電灯のスイッチを探した。
あった。スイッチを入れ、明るくなる1階の大広間。そこから馬蹄状に2階へと伸びる階段。一番上にもう1人の私が立っていた。
驚く。兄弟は皆、もう寝ていると思っていたから。
「やけに遅い帰りだね。どこで何をしていたんだい。心配したんだよ」
してないくせに。貴男はいつも口先だけ。……という言葉は飲み込み、私は謝る。もう1人の私に。私の双子の弟に。梨椎紫遠に。
私の帰りを確認した紫遠は、涼しげな目線のまましなやかな動きで自室への扉を開く。私の隣りの部屋。
「ねぇ」
私は呼び止めた。言わなくてはならないことがあった。聞いてほしいことがあった。
「今日、私のクラスの子が臨時の生け贄に出されたのよ」
「知ってるよ」
「その子は、と……友達、だった」
「……そう」
扉は閉められた。
誰が死んでも、誰も気にしない。ならせめて、私が気にしてあげなくちゃ。ねぇ? 友達の耶南……。
私は自室のベッドの上で、声を押し殺して泣いた。