僕と彼女とダイオウイカ
玄関のドアを開けてから雨が降っていることに気が付いた凪の気分は、さらに憂鬱なものになった。
今日は寝坊して授業に出られなかっただけでなく、その後予定していた国立科学博物館の特別展である、深海展に一人で行くことになってしまったからである。当初はサークルの友人達とみんなで行く予定だったが、次々キャンセルされてしまったのだ。
最寄り駅の高座渋谷駅から一時間半、上野駅に着いた凪は落胆した。駅から出るなりスーツ姿の学生ばかりだった。今日は十月一日。どこも大体の企業がこの日に内定式を行う。就職活動に行き詰まっいていた凪には辛い光景だった。
スーツの群衆を横目に見ながら国立科学博物館を目指す。平日の昼間だというのに人は多い。五分ほど歩くと、深海展の案内の看板が目に入った。三十分待ち。ネットの情報よりは早い時間で入館できそうだ。
チケットを買い、列に並ぶと不意に背中を叩かれた。
「こんにちは。偶然ですね。こんな所で会うなんて」
振り向くとそこにはサークルの後輩である、瀬谷栞の姿があったからだ。
背が小さく、人懐っこい性格の瀬谷はサークルの男子にとても人気があった。愛想がよく、誰とでも仲良くできるので友達も多いと聞く。瀬谷は今年入ってきた新入生で、サークルでは何回か話したことがあったくらいだ。深海展に興味があったのは意外だった。彼女の所属する学科は森林の学科だった。
「意外だね、こんなところで会うなんて。海のことに興味なんてあったんだ?」
瀬谷は少し困ったように言う。
「なんたって今話題のダイオウイカがメインですからね。標本とかは一度見てみたかったんです。先輩はお一人なんですか?」
ダイオウイカの標本は常設されたものを引っ張って来ているだけだとは言いづらかった。
「今日一緒に来る予定だった友人が見事に全員キャンセルしちゃってね。家に居ても暇だし、せっかくだから来たんだ。瀬谷さんも一人?」
「はい。私も似たような感じです。家族にキャンセルされちゃって。よかったら、二人で一緒に回りませんか?先輩は海洋の学科でしたよね?色々解説してくれると嬉しいです」
上目遣いでそう言われたら断りにくい。身長差で僕を見上げる形になるから仕方のないことなのかもしれない。彼女の人気の秘密はここにあるのだと思う。
「一緒に回るのは構わないけど、解説の方は難しいかな。僕の専攻は食品系だから」
「ありがとうございます。一緒に勉強ですね」
僕が了承すると、彼女の顔が明るくなった。僕としても一人で回るよりは寂しくなくていい。
それから、後期の授業のことだとか、最近のドラマのことだとか、他愛のない話をしてるうちに列が進み深海展に入場となった。
やっと入場したと思った矢先、待っていたのは人混みだった。展示のボードの前、映像を流しているモニターの前、潜水艦の模型の前、深海生物の標本の前、どこに行っても人の塊があった。後ろからも人の塊が押し寄せてくる。押されるようにして順路を回る。
「先輩、手、つなぎましょう」
切れ切れに瀬谷さんが話しかけてくる。表情は俯いていてわからないが、恥ずかしいのだと察した。
「そうだね。人が多くてはぐれそうだし」
そう行って手を伸ばすと、瀬谷さんが弱々しく手を握ってくる。握り返すとびくんと反応した。顔を覗くと真っ赤に染まっている。恥ずかしいのはこちらも同じだった。異性の経験は僕には生まれてこの方ないのだから。
その後も展示を見て回ったが、全くと言っていいほど頭には入ってこなかった。瀬谷さんの左手から伝わる彼女の熱が、僕に展示を見せまいとしてくるのだ。気がついたら順路も終わりに差し掛かり、展示コーナーからグッズ販売のコーナーになっていた。お互い特に気に入ったものもなかったようで、僕たちはそのまま外に出た。時刻は夕方、今にも沈みそうな夕日が辺りを照りつけていた。
「あの、今日はありがとうございました」
少し頭を下げながら瀬谷さんは言う。
「先輩に偶然あって、一緒に回れて、私とても嬉しかったです」
「僕も楽しかったよ。最後の方はあまり集中できなかったけどね。また、人が少なそうな時にゆっくり回りたいかな」
「そうですね。私もまた、来たいです」
心なしか彼女の声が少し震えている気がする。黒髪のショートヘアから覗くその顔は、夕日のせいだけでなく、赤く染まっている。その顔を見て、僕も顔がなんだか熱くなった気がした。心臓の鼓動も激しくなり、胸が苦しくなる。
しばらくお互い沈黙していた。彼女は俯き、僕はと言えばそんな彼女を見て何もできず、ただ突っ立っているだけだった。最初に沈黙を破ったのは瀬谷さんのほうだった。
「あの、先輩、好きです」
その突然の告白に鼓動はさらに加速する。彼女は続ける。
「ひと目見た時から、先輩のことが気になって仕方ありませんでした。先輩とはあまり面識がありませんが、私を、彼女にしてください」
少し涙目になりながら上目遣いの彼女を見て、僕は彼女のことが好きなのだと確信した。彼女の火照った顔が、子どものように小さい手が、笑った時に見せる八重歯が、全てが愛おしく思えてきた。断れるはずなんてなかった。
「偶然にも、僕も、瀬谷さんのことが好きみたいだ。これから、よろしくね」
そう言って手を差し出す。彼女は迷いなくこの手を握ってくれた。
「こちらこそ、よろしくお願いします。凪さん」
名前を呼ばれるのは不意打ちだった。僕は言い返して、
「うん、よろしくね。栞」
お互いの顔が更に赤くなった。どちらからでもなく、僕たちは駅に向かって歩き出した。
偶然僕の友人がキャンセルしなければ、偶然彼女の家族がキャンセルしなければ、偶然平日の深海が混んでいなければ、偶然瀬谷栞に会っていなければ、偶然彼女に一目惚れしなければ、この結末にはならなかっただろう。僕は今日の日の偶然に感謝しながら改札をくぐった。
了