異世界へ
GW前の最終日である。
カシワ産業では4月の中旬までや5月の後半の土日を出勤にして、GWを11連休にしている。そのため、今日はすでに従業員の半数近くがいない。なぜ半数ではないかと言うと、パック旅行などに行く場合、連休内に戻るより終わってから戻る日程の方が料金が安いので、5月7日まで連休にしている者がやや多いからである。
もういないかと思っていた部長はまだ席に座っており、メグミはなるべくかかわりあいにならないように書類整理をしていた。GW前と言うことは今日が月末の締め日であり、基本的には数字を合わせて課長決済に回すだけである。一応やりなれた計算なので、電卓を叩きつつ書類をまとめていく。数字を間違えて厭味ったらしく休みの日に出勤を要求されてはたまらないので、慎重に検算も忘れないようにする。
それはもう、いつもこれくらい慎重にやれば、仕事のミスが半減どころかほとんどなくなるだろうというレベルである。
「ほい、課長。決済お願い」
「随分慎重だったじゃん、いつもこれくらい慎重にやってくれればいいのに」
だからと言って、人に指摘されたくはない。
「もっと給料もらえるんなら考えますけど?」
「じゃ、偉くなってね。間違ってたら連休中に呼び出すよ」
「ほぉ、早川さんに色目を使ってたのを奥さんにバラして欲しいのなら、いつでも呼んでください」
例の機能を使って、課長の好みは把握済みである。部長と目が合っては嫌なので今はOFFにしてある。絶句した課長を尻目に席に戻り、デスクの片付けに取り掛かる。まだ16時だが、これ以上仕事はしないぞと言う意思表示である。
「あれっ、部長はどこ行きました?」
そろそろ終業と言う頃、営業から戻ってきた南部君が素っ頓狂な声を上げた。そちらを見ると、席にいたはずの荒井部長の姿が見えない。
「まったく、今日中に決済が要るって言っといたのにっ」
「おっ、これは消えたかな」
メグミは密かにほくそ笑んだ。だが、それは同時に自分が監視に行かされるということでもある。
「今のうちにトイレ行っとこう」
向こうに行ったら、男なのだ。かなり長い間行くことになるかも知れないが、しょっぱなから慣れない体でトイレに行きたくはない。
制服を着替え、タイムカードを押してからトイレを済ませ、個室から出ると森と草原の境目を通る道の上だった。
「いきなりかい、心の準備くらいさせろよ」
部長を消し、異世界に行くことが昨夜に決定しているため、ユウちゃんのゲージの掃除と一応の心構えは済んでいるが、トイレから出たら異世界とは思わなかった。
「へわりゃひゅひゅひゅひいぃ~!」
叫び声に目を向けると、裸の部長が動物に取り囲まれていた。メグミはまさかと思い自分を見ると、自分はしっかり服を着ていた。上はシャツっぽいものの上におそらく皮のベスト、下は腰の所をひもで止めるタイプのズボンである。あの一角獣もそこまでひどい奴ではないようだ。
あの動物は何だ? 見かけは太ったフェレットだが随分大きい。
「ほうっ、たす、たす」
助けてと言いたいらしい。でぶフェレットはゆらゆらとした動きで部長を窺っている。
「よっしゃ、そのまま食ってしまえっ」
ここで部長が食われてくれれば、監視の必要もなくなり、部長がいない平和な世界にすぐ帰れるってものである。
『おーい、こっちの方が旨そうだぞー』
そんな声が頭に響いたので周りを見回すと、メグミは自分も囲まれていた。まさかの事態である。監視目的で来ている以上、部長を残して食われることはないとは思うが確約があるわけではなし、第一、齧られたら痛そうな歯だ。
声が頭に響くんだからと考えて、メグミはでぶフェレとの会話を試みた。
『君たち、あっちの爺さんを喰ってはくれないかい?』
『やだ』
『不味そうだからやだ』
メグミはここに至り、言葉が通じても話が通じるとは限らないことに気付いたのであった。
『いや、あいつ旨いものばっか食ってるから、肝臓なんかきっとフォアグラだよ』
『フォアグラってなに』
『皮が硬そうだからめんどくさそう』
『さっさと齧らせろ』
『早く食っちまおうよ』
くそう、コイツらめ。小説などでは異世界に行った者はチート能力を持っているはずだよな。そう思ったメグミは森の縁にある腕くらいの太い木の枝に手をかけ、でぶフェレットをぶん殴るべくへし折ろうとした。
「むんっ」
折れなかった。
「ちょっと太過ぎたか。そいやっ」
台所のラップの芯くらいの枝で試してみたが、まだ折れない。
「ええいっ」
ベキッ。かなり力を入れてようやくふとん叩きほどの太さの枝を折ることに成功した。これなら女やってる地球でも折れるな。
「なんだ、全然チート付いてないじゃん、あの役立たずめ」
部長とメグミを異世界に送り込む以外、あのユニコーンがくれたのは他の神に貰った力のON-OFF機能だけである。
『てめぇら、かかってきやがれぃ』
メグミがそう叫んだとたん、どこからか矢が飛んできて、1頭のでぶフェレットに突き刺さった。
『敵襲―っ』
『逃げろー』
でぶフェレットたちはたちまち一匹残らずいなくなった。
『なんだよ、バチ取りじゃないのかい。サンキースー相手にナイフも持ってないとは』
そう言ってやってきたのはいかにも地元民らしいラフな格好の男である。
「あ……」
ありがとうと言いかけて、メグミは男の言葉を頭で理解しただけであることに気が付いた。なるほど、確かに人間だって動物には違いない。
「あああ、あんたありがとう、助かったよ」
『何だ、こいつは何て言ってるんだ?』
やっぱり、男には部長の言葉、つまり日本語が通じていない。
部長の同類と思われたくないメグミは、「さぁ?」とばかりに両手を横に開き、判らないというデスチャーをした。
『だよな、わけのわからん爺さんだ、だいたい、なんで裸なんだろう』
身振りは通じたようだが、男が部長の方を見たのを利用し、メグミは頭の中で話しかけてみた。
『さっきから裸で転がってたよ。ところであれはどうするんだ?』
『ん? あぁ、サンキースーか。倒したのはこっちだから貰っていいよな。賞金は安くなっちまったがそれでも銀貨2枚だからな』
男はでぶフェレットを回収している。こいつはサンキースーと言うらしい。
『それでいいが、こっちに来たばかりなんで街まで一緒に行ってもらえないか』
『いいぜ、あの爺さんも連れて行ってやろうか。来な。』
男が向かったところには、四輪の荷車のようなものがあった。男が荷物から円筒形の物体を取り出し、荷車の下にセットして何やら操作すると、「ポスポスポス……」と音が聞こえてきた。
『乗ってくれ』
男はそう言うと、荷車の前の部分のレバーを引っ張った。と、ガクンと揺れたかと思うと荷車がゆっくり動き始めた。荷車は次第に速くなり、自転車くらいのスピードで走って行った。
メグミは操縦する男の横に座り、風を受けながら男にいろいろ話を聞いた。完全に口パクだったが、男はあまり気にしていなかったようだ。この世界にはそのような話し方があるのだろうか。
男はヒロと名乗った。あの動物はサンキースーと言い、バチ、あるいはオオバチとも呼ばれる動物(大きなツチノコのようなやつらしい)やヌー(巨大ネズミ)を退治するのにホウライ国から持ち込まれたもので、増えすぎて人間にも害をなすようになり、懸賞金がかけられている。昨年までは銀貨4枚だったが今年から2枚になった。バチは生きていても死体でも役所に持って行くと帝国銀貨3枚を貰える。生きていればギルドに持って行けば1貫目につき銀貨1枚になる。普通の大きさのバチなら銀貨5枚にはなる計算だ。ヌーにも懸賞金が掛かっているが、懸賞金を貰えるのは「ヌー採り屋」と呼ばれる許可を受けたものだけだという。
そんな話をしながら、荷車は道を進んで行った。感覚としてはほとんど自動車である。
部長はと言うと、言葉が通じないのを悟ったのかおとなしくしている。裸で粗末なものを見せているのも鬱陶しいと男が穀物の入っていた袋にナイフで首と腕の通る穴を開けたもの、つまり即席の貫頭衣をかぶせてある。
荷車はやがてウケンという街に到着した。