最終話 果ての幸福
アトラス帝国の三万の軍勢が「北の怪物」たった一人によって壊滅させられた翌日。
王都ガルディナの王城は、かつてないほどの静寂と、冷え切った恐怖に包まれていた。
玉座の前に引き立てられたのは、豪奢な衣装を剥ぎ取られ、みすぼらしい罪人服を着せられた第一王子ユリウスと、聖女を騙っていたクロエである。
「……愚か者め。私がお前たちに国政を任せたのが、そもそも間違いであった」
長らく病床に伏せっていた国王が、怒りで身を震わせながら二人を見下ろしていた。
アトラス帝国からの怒りの抗議文、そして国庫の横領の証拠。すべてはヴォルフガング公爵から王家へと叩きつけられた「完全な事実」だった。
「ち、違うのです父上! 私はクロエに騙されて……っ!」
「ひどい! 殿下が私をそそのかしたんじゃないですか! 私はただのお飾りの聖女だったのに!」
「貴様っ、よくもそんな口を!」
醜く責任を押し付け合い、床で取っ組み合いを始める元婚約者と義妹。
その浅ましい姿に、国王も、周囲の貴族たちも、ただ深い軽蔑の溜息をつくことしかできなかった。
「連れて行け。……ユリウスは王位継承権を剥奪の上、王族から除籍。クロエと共に、国境最果ての魔力鉱山へ送れ。一生涯、光の当たらない地下で泥水を啜り、己の罪を償うのだ」
「い、嫌だぁぁぁっ! 私を誰だと思っている! 第一王子だぞ!」
「お姉様! 助けてお姉様! 私が悪かったですぅぅっ!」
無様な絶叫を上げながら、二人は近衛兵によって地下牢へと引きずられていった。
その後、国王は王都を救ってくれたヴォルフガングに対し、深く頭を下げて「どうかこの愚かな国を導き、新たな王となってほしい」と懇願した。誰もが期待の眼差しで彼を見つめる。
だが、漆黒の軍服を纏った辺境伯は、その申し出を冷酷に一蹴したのである。
『——勘違いをするな。俺はノースガルド辺境伯であり、貴様らの腐りきった王座など微塵も興味はない。俺が軍を出したのは、愛する妻の故郷が焼かれるのを見過ごせなかった、ただそれだけの理由だ』
ヴォルフガングは一瞥もくれずに踵を返した。
『二度と、俺の領地に干渉するな。俺はこれから、妻の淹れた温かい紅茶を飲まねばならないのでな』
王国の命運よりも、妻とのティータイムを優先し、最強の辺境伯は早々に北の領地へと帰っていったのである。
* * *
一年後。
国境最果ての、暗くじめじめとした魔力鉱山の地下深く。
「はぁっ……はぁっ……」
かつて第一王子と呼ばれた男、ユリウスは、泥にまみれた手で重いツルハシを振るっていた。
手足には重い鉄の枷がはめられ、一日の食事はカビの生えた硬いパンと、濁った泥水だけ。
「おい、手が止まってるぞ! さっさと掘れ!」
看守の容赦のない鞭が背中を打ち据え、ユリウスは無様に泥の地面へと転がった。
「あ、あぁ……痛い、痛い……っ」
その横では、かつて美しいドレスを着飾っていたクロエが、ボロボロの髪を振り乱しながら、虚ろな目で鉱石を運んでいる。
喉の渇きに耐えかね、ユリウスは地面の水たまりに顔を近づけ、泥水を啜った。
生臭く、泥の味がする水が喉を通るたび、彼の脳裏に浮かぶのは、かつて自分を完璧に支えてくれていた、気高く美しい婚約者の顔だった。
(もし……もしもあの日、私がリリアナの手を放していなければ。彼女の才覚に気づき、大切にしていれば……私は今頃、王座に座り、彼女の淹れた美味しい紅茶を飲んでいたのだろうか……)
すべては手遅れだった。
彼らはこの暗い地下底で、永遠に後悔の念に苛まれながら、惨めに命をすり減らしていく運命なのだ。
* * *
一方その頃。
一年中雪に覆われたノースガルド辺境伯領の、黒曜石の城。
その最上階にある日当たりの良い執務室では、最高級のシルクのドレスを纏ったリリアナが、優雅にペンを走らせていた。
「ええと、来年度の領地の農業予算は……」
「——リリアナ。もう一時間も机に向かっているぞ。働きすぎだ」
不意に背後から、がっしりとした大きな腕が伸びてきて、リリアナの腰をすっぽりと抱きしめた。
振り返らなくてもわかる。いつも彼女のそばから離れようとしない、大型犬のような夫——ヴォルフガング公爵だ。
「ヴォルフガング様。まだ一時間しか経っていませんわ。それに、私は公爵夫人として領地経営の補佐をする契約……きゃっ!?」
リリアナの言葉は途切れた。
ヴォルフガングが彼女をひょいっと抱き上げ、そのまま自分が座っていた執務机の前の特等席——つまり『彼自身の膝の上』に、リリアナをちょこんと座らせたからだ。
「わ、私を膝に乗せたら、閣下が書類にサインできないではありませんか!」
「構わん。俺の最も重要な仕事は、愛する妻の温もりを感じることだ」
外の者たちが見たら、あの「北の怪物」が妻を膝に乗せてデレデレに甘やかしている姿に、卒倒することだろう。
ヴォルフガングはリリアナの銀色の髪に顔を埋め、深く息を吸い込んだ。
「……リリアナ」
「はい」
「ずっと、こうして俺の腕の中にいてくれ。俺はもう、お前なしでは生きていけない体にされてしまった」
彼の低く甘い声には、一度目の人生で彼女を喪った深い悲しみと、今こうして彼女を抱きしめられていることへの、奇跡に対する圧倒的な感謝が込められていた。
リリアナは微笑み、自分をきつく抱きしめる彼の大きな手に、そっと自分の手を重ねた。
誰からも認められず、ただ利用されるだけだった一度目の人生。
断頭台で終わるはずだった私の運命は、この不器用で、冷酷で、そして誰よりも温かい愛情を持った「怪物」によって、完璧に書き換えられたのだ。
「仕方ありませんね。……私がいないとダメな旦那様のために、一生、この領地で傍にお仕えしてさしあげますわ」
「……ああ。愛している、リリアナ」
窓の外では、ノースガルド特有の真っ白な雪が静かに舞い降っている。
だが、暖炉の火が燃えるこの部屋の中だけは、世界中のどこよりも暖かく、甘い幸福の熱に満ちていた。
最強の辺境伯と、彼に溺愛されることになった捨てられ令嬢。
二人の幸せな第二の人生は、今、始まったばかりである。
完結です~!!お読みいただきありがとうございました!




