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第8話 北の怪物

王都からの傲慢な使者をヴォルフガングが完璧な証拠で追い返してから、わずか数日。

アトラス帝国からの最後通牒の期限が過ぎた瞬間、国境の静寂は破られた。


「リリアナ嬢を差し出さぬのなら、貴様らの国を焦土と変えるまでだ!」


アトラス帝国の強硬派、ガウル将軍が率いる三個師団、総勢三万の完全武装した大軍勢が、怒涛の勢いで国境を越えた。彼らはリリアナが何ヶ月もかけて緻密に築き上げた外交協定など微塵も顧みず、ただの侵略者として王都へと進軍を開始したのだ。


「ひ、ひぃぃぃっ! アトラス軍が国境を越えただと!? なぜ防げなかったのだ!」


王城の執務室で、ユリウスは尻餅をついたまま、震える声で宰相に掴みかかった。

「防げるわけがございません! 殿下がアトラス側の感情を逆撫でし、交渉の全権を持っていたリリアナ様を追放したのですぞ! 国境警備隊はすでに全滅、アトラス軍の先鋭部隊は、すでに王都からわずか数キロの地点に迫っております!」


「う、嘘だ……! クロエ! お前の祈りは、教会の聖女の力は、一体どうしたのだ!」


ユリウスが縋るようにクロエを振り返る。

「聖女」のティアラを被ったクロエは、顔を真っ白にして、ガタガタと震えていた。

「わ、私……聖女のティアラがあれば、どんな奇跡も起こせるって、教会のお偉い様たちが……。で、でも、戦場になんて行ったことないし、あんな野蛮な大男たちの前で、お祈りなんて……っ!」


「ク…クソッ……ッ!」

ユリウス派閥の貴族たちは、すでに我先にと私財をまとめて王都から逃げ出そうとしていた。

王太子も聖女も、国を守る能力など微塵も持っていない。ただの「ハリボテ」であることを、彼らは最悪の形で思い知らされたのだ。


アトラス軍の先鋭部隊が、王都を囲む堅牢な城門の前に到達した。

「この門をぶち破れ! 愚かな王太子と聖女を、アトラスの鉄槌で粉砕せよ!」


巨大な破城槌が、城門を叩き潰そうとした、その瞬間だった。


『————誰の国を、荒らすと言った?』


戦場全体を凍りつかせるような、氷点下の声。

次の瞬間、アトラス軍の頭上の空間が、突如として夜のように暗転した。


「な、なんだ……!?」


見上げた兵士たちが目にしたのは、空を覆い尽くすほどの、巨大な「漆黒の魔力の塊」だった。

それは魔法陣も詠唱もなく、ただそこに存在するだけで、周囲の光を吸い込み、重力をねじ曲げるほどの圧倒的な密度を持っていた。


ドゴォォォォォォォンッ!!!


ヴォルフガングが静かに振り下ろした右手に呼応し、漆黒の魔力がアトラス軍の先鋭部隊の上に叩きつけられた。

爆発的な衝撃波。

王都の堅牢な城門が、まるで紙くずのように音もなく粉砕され、その周辺にいたアトラス軍の先鋭部隊、数百名が、鎧ごと文字通り「塵」となって蒸発した。


土煙が晴れた後。

砕け散った城門の跡地に、一頭の巨大な漆黒の魔獣に跨り、漆黒の軍服を纏った男が座していた。

漆黒の髪。血のように赤い瞳。ノースガルド辺境伯、ヴォルフガング。


彼がただそこにいるだけで、アトラス軍の三万の兵士たちは、呼吸をすることすら忘れて硬直した。

彼から漏れ出ている魔力は、王都全体を飲み込むほどに膨大であり、それは「北の怪物」という異名すら生温い、まるで魔王そのものだった。


「な……な、なんだあれは……!?」

城壁の上で死を覚悟していたユリウスが、目を剥いて絶叫した。

「あ、あの赤い瞳……北の、辺境伯……ッ!?」


ヴォルフガングはアトラス軍を一瞥すらせず、漆黒の剣を静かに抜き放った。


「俺の妻が生まれた国だ。……たとえ王家(ゴミ)が治める泥船であろうとも、俺の妻が悲しむような真似は、絶対に許さん」


その重すぎる愛の告白は、彼を「神」の領域へと押し上げていた。

ヴォルフガングが漆黒の剣を振るう。


『——【氷結地獄(コキュートス)】』


次の瞬間。

戦場は、一人の男による「一方的な蹂躙」の舞台へと変わった。


彼が剣を振るうたび、戦場には絶対零度の吹雪が吹き荒れた。

アトラス軍の魔法部隊が展開した炎の防御結界は、その吹雪の前に、まるでガラスのように容易く粉砕され、魔法使いごとその身を氷塊へと変えられた。

さらに、彼が歩を進めるだけで、大地は黒い氷に覆われ、敵兵は恐怖で心臓を凍りつかせて死んでいく。


剣も魔法も使わない。

ただ純粋な魔力の放出だけで、敵兵は押し潰され、精神を崩壊させられた。

ヴォルフガングが直接一太刀振るえば、その斬撃は魔力を纏い、アトラス軍の将軍たちが乗った戦車を、鋼鉄の鎧ごと、音もなく一刀両断に切り裂いた。


圧倒的。言葉にできないほどの、絶対的な死の権化。

三万のアトラス軍は、一人の男の前に、ただの「不要なゴミ」のように、次々と黒い氷の中に閉ざされ、消滅していった。


「ひっ、ひぃぃぃぃぃっ! ば、化け物……! あれは人間ではない!」

アトラス軍の総大将、ガウル将軍は、恐怖で腰を抜かして這い蹲った。

彼が鍛え上げた精鋭三個師団は、わずか十分で、たった一人の男の手によって完全に壊滅させられたのだ。


ヴォルフガングは死体の山を乗り越え、ガウル将軍の真正面まで歩み寄った。

彼の漆黒の軍服には、返り血一つついていない。彼にとって、この侵略行為は、執務机の上の埃を払う程度の、取るに足らない作業に過ぎなかったのだ。


「……アトラス帝国のガウル将軍」

ヴォルフガングが、絶対零度の瞳で将軍を見下ろした。


「皇帝に伝えろ。これ以上、この国に足を踏み入れるなら、アトラス帝国を、この世界の地図から消してやる」


それは、ハッタリなどではなかった。彼には、それを実行に移すだけの、圧倒的な実力と、重すぎる愛がある。


「あ……あぁ……っ」

ガウル将軍は恐怖のあまり白目を剥き、その場に卒倒した。

総大将を失い、全滅状態のアトラス軍は、生き残ったいくばくかの部隊が武器を捨て、悲鳴を上げてアトラス帝国へと逃げ帰っていった。

侵略は、わずか十分で、一人の男の蹂躙によって完全に終結したのである。


静寂が戻った戦場。

ヴォルフガングは振り返り、呆然と立ち尽くしているユリウスとクロエを見上げた。

その瞳は、ゴミを見るよりも冷酷だった。


彼は莫大な魔力を声に乗せ、広域に伝播させる拡声魔法を使った。彼の声が、王都全体に響き渡る。

圧倒的な蹂躙を見せつけられた貴族も民衆も、ただひれ伏すことしかできなかった。


「俺の妻は、俺が北の果てで、一生をかけて溺愛し、守り抜く。……二度と、この国の王家(ゴミ)共が、彼女を道具として使い潰すような真似は、俺が絶対に許さん」


この北の怪物こそが、真の王の器であり、ユリウスたちは、ただの「用済み」に過ぎないことを、完璧な実力誇示をもって理解させられたのだ。


(さあ、リリアナ。……掃除は終わった。これからは、お前を甘やかすためだけの、最高の人生を始めよう)


漆黒の軍服を纏った最強の簒奪者は、腕の中の小さな温もり、一度目の人生のリリアナへの思いを確かめながら、王都の尖塔を、氷のように冷たい瞳で見据えていた。

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