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第7話 飾りの妻の陥落

王都からの使者を完膚なきまでに追い返した、その日の夜。

ノースガルドの黒曜石の城は、外の猛吹雪とは対照的に、暖炉の火によって心地よい暖かさに包まれていた。


リリアナは自室の巨大なベッドの縁に腰掛け、微かな高揚感と疲労感の中で息を吐いた。


(終わった……。これで本当に、王都の連中が私に手出しできる理由はなくなったわ)


一度目の人生で自分を断頭台へと送った元凶たち。彼らが自滅していくのは明白であり、リリアナの安全は、この北の辺境で完全に保障されたのだ。

それもすべて、今日、圧倒的な権力と証拠で自分を守り抜いてくれた「雇い主」のおかげである。


コンコン、と。

控えめだが、重みのあるノックの音が部屋に響いた。


「リリアナ。……起きているか」


「閣下? はい、起きておりますわ。どうぞ」

リリアナがガウンを羽織り直して立ち上がると、重厚な扉が静かに開いた。


そこに立っていたのは、執務用の軍服ではなく、ゆったりとした漆黒のナイトシャツを纏ったヴォルフガングだった。少し乱れた黒髪と、いつもより熱を帯びた赤い瞳が、ひどく色気を放っている。

「北の怪物」の恐ろしい威圧感は、今の彼からは微塵も感じられなかった。


「夜分にすまない。……少し、話がしたくてな」

「もちろんです。本日は、本当に素晴らしい手腕でした。閣下のおかげで——」


「そのことなんだが」


ヴォルフガングは部屋の中央まで歩み寄り、リリアナの言葉を遮った。

彼の表情は、これまで見たことがないほど真剣で、そしてどこか「切羽詰まった」ような色を帯びていた。


「リリアナ。お前と結んだ『契約』についてだ」

「契約……ですか?」


「ああ。『飾りの妻として領地経営の補佐をする代わりに、保護を与える』という、あの契約だ。……俺は、あれを破棄したい」


ドクンッ、と。

リリアナの心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。


(破棄……? まさか、私がお払い箱になるということ? 私という『盾』は必要なくなったの……!?)


ワーカホリックな彼女の思考が、最悪の事態を想定して急速に冷えていく。

「か、閣下! 私の仕事に何か不手際がございましたか!? 確かに今日の交渉は閣下お一人で完璧に——」


「違う! そうじゃない!」


ヴォルフガングは思わず声を荒げ、長い脚で一歩、リリアナとの距離を詰めた。

「お前の仕事は完璧だ。完璧すぎる。……だが、俺はもう、お前を『有能な部下』として扱うことに、限界が来ているんだ」


「え……?」

リリアナは後ずさろうとしたが、背中がベッドの柱にぶつかり、退路を断たれてしまった。

ヴォルフガングはさらに距離を詰め、リリアナの頭の横にドンッと手をつき、彼女を完全に腕の中に閉じ込めた。


至近距離。

彼の赤い瞳が、逃げ場のない熱量でリリアナを射抜く。

そこにあるのは「雇用主」としての冷徹な評価などではない。一人の男としての、剥き出しの執着と、狂おしいほどの熱情だった。


「閣下……あの、顔が、近いです……っ」

「……お前は、本当に何もわかっていないな。俺がこれまで、どれだけ必死に理性を総動員して、お前に手を出さないよう我慢してきたか」


ヴォルフガングの大きな手が、リリアナの頬にそっと触れた。

剣ダコのある無骨な指先が、壊れ物を扱うように優しく、彼女の柔らかな肌を撫でる。その熱すぎる体温に、リリアナの体はビクッと震えた。


「俺は、お前が王都の夜会で孤軍奮闘していた頃から、ずっとお前を見ていた。あの愚かな王太子の陰で、血を吐くような努力をして国を支えていたお前を」

「……っ! なぜ、それを……」


「俺は、お前をあの泥船から奪い去りたかった。俺の城に閉じ込めて、美味しいものを食べさせ、美しいドレスを着せ、何不自由なく甘やかして、二度とあんな思いはさせないと誓っていたんだ」


ヴォルフガングの声が、震えていた。

それは、一度目の人生で彼女を喪った男の、魂からの告白だった。


「だから、お前が自分から俺の元へ来てくれた時、俺は狂喜した。だがお前は『愛も夜の営みも求めない飾りの妻』などと言う。……お前に嫌われたくなくて、有能な上司のフリをしてきたが、もう限界だ。これ以上、お前をただの『飾り』だなんて、俺の心が耐えられない」


「……」

リリアナは、息をするのも忘れて、目の前の男を見つめていた。


(ずっと、私を見ていてくれた? 私の努力を、知ってくれていた……?)


王太子からも、義妹からも、誰からも認められず、ただ都合のいい道具として使い潰された一度目の人生。

誰も自分の本当の姿なんて見てくれていないと、心を閉ざしていた。だから二度目の人生では、「有能な部下」という仮面を被って、絶対に誰にも心を開かないと決めていたのに。


『お前は痩せすぎだ。俺の領地で飢えさせるのは許さん』

『俺の妻に二度と近づくな。消えろ』

『お前が触れていると、痛みが嘘のように消えるんだ』


これまでの彼の不器用な言葉の数々が、冷徹な仮面の下に隠されていた「深すぎる愛情」であったことに、リリアナは今更ながら気づかされた。


「……ずるいです」

リリアナの大きな瞳から、ポロリと一粒の涙がこぼれ落ちた。


「えっ……? リ、リリアナ!? す、すまない、俺が強引すぎた! 嫌なら無理にとは——」

先ほどまでの肉食獣のような瞳が一瞬でパニックになり、慌てて離れようとするヴォルフガング。


その不器用で優しすぎるギャップに、リリアナはたまらず吹き出し、そして——彼から離れようとしたその大きな背中に、自ら腕を回して、ギュッと抱きついた。


「……っ! リリアナ……?」

「ずるいです、ヴォルフガング様。私、二度目の人生は、もう絶対に誰も愛さないって決めていたのに。……こんなに過保護に、全力で守り抜かれたら、好きにならない女なんていませんわ」


リリアナは彼の胸に顔を埋め、その温かい鼓動を確かめるように強く抱きしめ返した。

有能な官僚としての仮面が、音を立てて崩れ落ちる。

残ったのは、ただ一人の女性として、彼に狂おしいほど愛され、そして彼を愛してしまった「リリアナ」自身の素顔だけだった。


「……俺を、愛してくれるのか。本当に、俺の『本物の妻』になってくれるのか?」

信じられないものを見るように、ヴォルフガングが震える声で尋ねる。


「はい。……もう、雇用主と部下の契約は破棄です。これからは、私の全てを、あなたに差し上げます」


リリアナが背伸びをして、ヴォルフガングの首に腕を絡めた。

その瞬間。

ヴォルフガングの中で、最後の理性の糸が、ブツリと音を立てて千切れた。


「……後悔しても、もう遅いぞ」


低く、甘く、そして圧倒的な雄の独占欲に満ちた声。

ヴォルフガングの大きな手がリリアナの腰を強く引き寄せ、彼女の言葉を塞ぐように、深く、情熱的なキスを落とした。


「んっ……ぁ……」

最初は優しく確かめ合うような触れ合いだったが、すぐに彼の抑えきれない熱情が牙を剥く。息継ぎすら許さないほどに深く貪られ、リリアナの思考は真っ白に焼き切れていく。


「リリアナ……俺の、可愛いリリアナ……っ」

キスの合間に、何度も何度も、縋るように名前を呼ばれる。

ヴォルフガングに抱き上げられ、ふかふかのベッドへと優しく押し倒された。


窓の外の猛吹雪の音すらも、今の二人には聞こえない。

彼の熱い唇が、首筋から鎖骨へと落ちていき、リリアナは甘い吐息を漏らしながら、彼の広い背中に爪を立てた。


「怖いか?」

「……いいえ。あなたに触れられるのなら、何も怖くありませんわ」


その真っ直ぐな瞳に、ヴォルフガングは限界を迎えたように目を細め、再び深く唇を重ねた。


長い夜。

これまで「有能な部下」という壁に守られていたリリアナの心と体は、北の冷酷公爵が内面に隠し持っていた「重すぎるほどの激甘な溺愛」によって、骨の髄までドロドロに溶かされ、完璧に陥落させられていった。


翌朝。

柔らかな朝日が差し込むベッドの中で、リリアナが目を覚ますと、そこには自分を腕の中にすっぽりと収め、まるで宝物を抱くようにして幸せそうに眠る、圧倒的な美貌の男の姿があった。

全身を襲う甘い気だるさと、彼から与えられた無数の愛の痕跡。


(……私、本当に、本物の妻になったのね)


リリアナは、寝ている彼の頬にそっとキスを落とし、二度目の人生で手に入れた「最高の幸せ」を噛み締めながら、再び彼の温かい腕の中へと身を沈めた。

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