第6話 触れさせるものか
ノースガルド辺境伯領、黒曜石の城の応接室。
王都から十日かけてやってきた第一王子派閥の重鎮、トール侯爵は、ふかふかのソファにふんぞり返り、目の前に座るリリアナを傲慢な目で見下ろしていた。
「……というわけだ、リリアナ嬢。ユリウス殿下は海より深い慈悲のお心で、お前の過去の罪を不問にすると仰っている。すぐに荷物をまとめ、王都へ戻るのだ。さあ、今すぐアトラス帝国への謝罪と条約再構築の書類を書け」
トール侯爵の言葉に、リリアナは紅茶のカップを優雅に置き、冷ややかなため息をついた。
「侯爵閣下。先ほどから申し上げておりますが、私はすでにヴォルフガング公爵閣下の妻です。王家からの不当な命令に従う義務はございません。それに、アトラスとの条約を台無しにしたのは殿下ご自身でしょう?」
「ええい、口答えをするな!」
侯爵がバンッ!とテーブルを叩き、下劣な笑みを浮かべた。
「あの辺境の野蛮人(公爵)と、体裁だけの契約結婚をしたことは調べがついている! 王太子の命令より、あんな男との契約が大事だとでも言うのか? ……いいか、お前が首を縦に振らねば、王都に残っているお前の実家、伯爵家を反逆罪で取り潰すこともできるのだぞ!」
家族を人質に取るという、最低の脅迫。
実家にはクロエと義母しかいないため、リリアナとしては「どうぞお好きに取り潰してください」としか思わなかったが、相手の底知れぬ愚かさに頭痛を覚えた。
「……帰ってください。これ以上お話を伺うつもりは——」
リリアナが席を立とうとした、その瞬間。
『——誰の妻を、連れ戻すと言った?』
応接室の重厚な扉が、音もなく開いた。
部屋の温度が、一瞬にして氷点下まで下がったかのように錯覚する。
漆黒の髪と、血のように赤い瞳。ノースガルド辺境伯、ヴォルフガングが、圧倒的な威圧感と殺気を纏って足を踏み入れた。
「ひっ……! 辺、辺境伯……ッ!」
トール侯爵がソファから転げ落ちそうになりながら後ずさる。
ヴォルフガングは侯爵を一瞥すらせず、一直線にリリアナの横に立ち、彼女の肩を大きな手で庇うように抱き寄せた。
「か、閣下……?」
リリアナが驚いて見上げると、ヴォルフガングの横顔は、彫刻のように美しく、そして底知れぬ怒りに満ちていた。
(許さん……! 俺の天使に、偉そうに指図した挙句、脅迫だと!? 今すぐこの豚を細切れにして吹雪の中に放り出してやりたい! だがダメだ、リリアナの前で野蛮な真似はできない、冷静に、知的に……完璧に追い詰めるんだ!)
ヴォルフガングは内なる怒涛の殺意を極寒の氷の奥底に封じ込め、空いた手で、持参した分厚い革張りのファイルをテーブルの上にドサリと放り投げた。
「な、なんだこれは……」
「開いてみろ。第一王子の腰巾着」
ヴォルフガングの絶対零度の声に急かされ、侯爵は震える手でファイルを開いた。
その瞬間、侯爵の顔から完全に血の気が引いた。
「なっ……こ、これは……!!」
「東部国境の関税をごまかし、お前たちユリウス派閥の貴族が裏金を作っていた証拠。そして、去年の治水工事の予算を中抜きし、クロエという小娘の宝石代に流用した金銭の動き。さらに……アトラス帝国の強硬派と裏で通じ、軍事機密を売り渡していた密書の写しだ」
「ひぃぃぃっ!!?」
侯爵の喉から、カエルが潰れたような悲鳴が漏れた。
リリアナも目を丸くした。
(すごい……! 私でさえ掴みきれていなかった王太子派閥の黒い繋がりを、いつの間にこんな完璧な証拠として集めていたの!?)
ヴォルフガングは冷酷な笑みを浮かべ、侯爵を見下ろした。
「リリアナの頭脳に頼りきりだったお前たち無能が、裏でこれだけ杜撰な証拠を残していることなど、我がノースガルドの諜報網にかかれば赤子の手をひねるより容易い。……さて、トール侯爵」
ヴォルフガングが、侯爵の目の前にスッと顔を近づける。
「俺の妻を、王都へ連れ戻すと言ったな? いいだろう。だがその瞬間、この証拠の原本はすべて、アトラス帝国と教皇庁、そして国王の元へ届けられる。……明日の朝には、ユリウスもお前も、反逆罪と横領罪で、あの広場の断頭台に立つことになるだろうな」
「あ……あぁ……っ」
侯爵はガタガタと震え、ファイルを取り落とした。
公爵の権力と、言い逃れのできない論理的な証拠の前に、王太子の威光など完全に無力だった。
「お前たちが我が国を滅ぼすのは勝手だが、俺の妻の平穏な生活を脅かす権利は、誰にもない。……二度と俺の領地に足を踏み入れるな。消えろ」
「ひっ、ひぃぃぃぃぃっ!!」
侯爵は腰を抜かしたまま這うようにして応接室を逃げ出し、そのまま馬車へと転がり込んで王都へと逃げ帰っていった。
静寂が戻った応接室。
リリアナは、自分の肩を抱き寄せたままのヴォルフガングを見上げた。
「……閣下。素晴らしい手際でしたわ。あそこまで完璧な証拠を揃えていらっしゃるとは」
「……」
「閣下?」
「あ……すまない、リリアナ。怖がらせてしまっただろうか」
ヴォルフガングはハッとして、慌ててリリアナの肩から手を離した。
先ほどの絶対零度の冷酷さはどこへやら、彼の人並み外れて整った顔には、どこか落ち着かない、狼狽したような色が浮かんでいる。
(やってしまった! リリアナに、あんな冷酷で恐ろしい脅し文句を聞かせてしまった! 幻滅されたかもしれない。野蛮な男だと思われたらどうしよう……っ!)
内心で頭を抱え、絶望の淵に立たされている公爵。
しかし、リリアナの瞳は、これまでにないほどキラキラと輝いていた。
「とんでもない! 素晴らしい論理構築と、完璧な危機管理能力ですわ! さすがは私が主と見込んだ方。あんなに鮮やかに理詰めで悪党を追い払うなんて、感動いたしました!」
「え……?」
「あ、でも……私を『俺の妻』と呼んでいただいたのは、あくまで対外的なブラフですよね? お心遣い、感謝いたしますわ」
リリアナが花が咲くように嬉しそうに微笑む。
(……ブラフじゃない。俺は本気で言ったのに! でも、嫌われていなかった……! むしろ尊敬の眼差しで見られている! よかった、生きててよかった……っ!!)
再び心の中でガッツポーズをキメるヴォルフガング。
二人の物理的な距離は確実に縮まっているのに、ヒロインのワーカホリックな解釈のせいで、肝心な「愛」の部分だけがすれ違い続ける。
だが、ヴォルフガングは決意していた。
王都のゴミ共の手がもう及ばない今、この「契約結婚」という名の甘い同居生活を、次なるステップへと進めるべき時が来たと。




