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第5話 役立たずの祈り

リリアナが王都を去ってから、わずか二週間。

王城にある第一王子ユリウスの執務室は、文字通り「紙の墓場」と化していた。


「くそっ! なぜこんなに書類が減らないのだ! 昨夜も徹夜したというのに!」


ユリウスは血走った目で、執務机の上に雪崩を起こしている書類の山を乱暴に払いのけた。

床に散らばったのは、国内の治水工事の遅延報告、各領地の税収不足の嘆願書、そして……隣国である軍事国家『アトラス帝国』からの、緊急の外交親書だった。


「殿下、お疲れのようですわ。私が肩を揉んで差し上げます」

甘ったるい声を出しながら、義妹のクロエが背後からユリウスにすがりつく。彼女の頭には、教会から与えられた「聖女」のティアラが輝いていた。


「おお、クロエ。お前だけが私の癒やしだ。あの忌々しいリリアナが去ってから、嫌がらせのように仕事が増えおって……」

「お姉様が、裏で悪い官僚たちを扇動しているに決まっていますわ。本当に恐ろしい人……」


二人が現実逃避のいちゃつきに興じていた、その時。

執務室の重厚な扉が、バンッ!と乱暴に蹴破られた。


「ゆ、ユリウス殿下!! 一大事でございます!!」

顔面を蒼白にさせた宰相が、数名の青ざめた重鎮貴族たちを引き連れて雪崩れ込んできた。


「無礼であろう宰相! ノックもせずに!」

「それどころではございません! 殿下、アトラス帝国からの『国境関税および安全保障に関する条約更新』の書類に、どのような決裁を下されたのですか!?」


ユリウスは怪訝な顔をした。

「ああ、あの分厚くて小難しい文字ばかりの書類か。アトラス側が関税の引き下げと、国境警備隊の縮小を求めてきていただろう? 我が国を舐めているのかと腹が立ったので、『全要求を却下し、逆に関税を三倍に引き上げる』と朱筆を入れて送り返してやったが?」


「なっ……!?」

宰相は膝から崩れ落ち、背後の貴族たちは一斉に頭を抱えて悲鳴を上げた。


「お、愚かな……ッ! あの条約は、リリアナ様がアトラスの強硬派を刺激しないよう、何ヶ月もかけて緻密な根回しを行い、国内産業を保護しつつも相手の面子を保つという、奇跡的なバランスで構築された安全保障の要だったのですよ!」


「なんだと? たかが関税の話だろうが!」


「すでにアトラス帝国は激怒し、国境沿いに三個師団の軍を展開させました! さらに我が国からの主要な輸出品である魔力鉱石の取引を全面凍結! このままでは一ヶ月以内に国内の物価は暴騰し、最悪の場合、戦争に発展しますぞ!!」


宰相の絶叫に、ユリウスの顔から一気に血の気が引いた。

たった一枚の書類。その意味を読み解く政治的知能がなかったばかりに、彼は自国を滅亡の危機に直面させてしまったのだ。


「そ、そんな馬鹿な……! リリアナの時は、あんな書類、翌日には綺麗に処理されて何も問題など起きていなかったぞ!」


「それはリリアナ様が、毎晩徹夜であらゆる法案と過去の判例を調べ上げ、完璧な調整を行っていたからです! 殿下は何を見ておられたのですか!」

普段は王太子に媚びへつらう貴族たちからも、明確な「軽蔑」と「怒り」の視線がユリウスに突き刺さった。


「ど、どうするのだ……! 誰か、アトラスの特使を宥めろ! 金なら出す!」

ユリウスがパニックになり叫ぶと、それまで黙っていたクロエが一歩前へ進み出た。


「皆様、どうかご安心くださいませ」

クロエは両手を胸の前で組み、自信に満ちた、慈愛に溢れる聖女の微笑みを浮かべた。


「こんな時こそ、女神に選ばれた私……聖女クロエの出番ですわ。私の『祈りの力』をもってすれば、アトラス帝国の怒りなど瞬時に鎮まり、彼らは自らの過ちを悔いて我が国にひれ伏すでしょう!」


「おお! そうか、我が国には聖女クロエがいるではないか!」

ユリウスは縋るようにクロエの手を取った。


しかし、宰相や貴族たちの目は冷ややかだった。彼らは政治家だ。神への祈りだけで、国境に展開された完全武装の軍隊が撤退するなど、一ミリも信じていなかった。


数時間後。

王城の謁見の間には、アトラス帝国から派遣された強面の特使が、苛立ちを隠せない様子で腕を組んで立っていた。

周囲を自国の貴族たちが固唾を飲んで見守る中、純白のドレスに身を包んだクロエが、特使の前に進み出た。


「荒ぶるアトラスの民よ。女神の慈悲を、ここに」


クロエが目を閉じ、大げさな身振りで祈りを捧げる。

彼女の体から、キラキラとした淡い光の粒子が溢れ出した。教会が「聖女の証」と認定した、光属性の魔力だ。確かに見た目は美しく、神々しい。


光の粒子が、アトラス帝国の特使の体を包み込む。

クロエは勝ち誇ったように目を開けた。

(ふふっ、これでこの野蛮な使者も、私の神聖な力に洗脳されて、涙を流して謝罪するはずだわ!)


「……」

「……」


しかし。

十秒経っても、一分経っても。

特使は無表情のまま、眉一つ動かさなかった。


「あ、あれ……? おかしいですわね。女神の光が、あなたの怒りを洗い流しているはず……」

クロエが焦って光の量を増やす。


特使は大きなため息をつき、虫を払うように手で光の粒子を散らした。

「……おい。この国は、国と国との重大な安全保障の場に、手品師を呼んで余興をさせるのか? 舐めるのも大概にしろよ」


「て、手品師……!? わ、私は聖女よ! なんで平伏しないのよ!」

「平伏? 貴様らの薄っぺらい光で、我が国の失われた利益と面子が回復するとでも? くだらん。我が国からの最終通達はすでに出した。三日以内に外交の全権を持っていた『リリアナ嬢』を交渉の場に引きずり出さねば、国境を越える」


特使は冷たく吐き捨てると、マントを翻して謁見の間から立ち去っていった。


「な、なんで……! 私の祈りが、効かないなんて……っ!」

床にへたり込むクロエ。


静まり返る謁見の間。

そこにいたすべての貴族たちが、確信した。

この王太子も、聖女と持て囃されているこの女も、国を動かす能力など微塵も持っていない「完全な無能」であると。


「……終わりだ。我が国は、アトラスに蹂躙される」

誰かが絶望に満ちた声で呟いた。

貴族たちの視線が、一斉にユリウスに向けられる。それはかつての敬意を含んだものではなく、国を滅ぼした愚か者を見る、氷のような蔑みの目だった。


「ち、違う! 私のせいではない! これはすべて、逃げ出したあの悪女、リリアナの陰謀だ!」

ユリウスは完全に理性を失い、玉座の前で喚き散らした。


「誰か! 今すぐ北の領地へ使者を送れ! あの女を縛り上げてでも王都へ連れ戻し、アトラスとの交渉の矢面に立たせるのだ! 私の命令を聞かねば、伯爵家を取り潰すと脅せ!」


ユリウスのその命令が、この世界で最も怒らせてはいけない「北の怪物」の逆鱗に触れることになるとは、この時の彼には知る由もなかった。

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