第4話 飾りの妻の特別任務
漆黒の城が深い静寂に包まれる、深夜。
ノースガルド辺境伯、ヴォルフガングは、自室の巨大なベッドの上で一人、全身を焼くような激痛と戦っていた。
「……っ、が……」
額から脂汗が滲み、荒い息が喉の奥から漏れる。
彼の体内で、莫大な魔力が暴走し、内側から肉体を破壊しようと暴れ狂っているのだ。
これは、彼が犯した『禁忌』の代償だった。
(……リリアナ。ああ、俺のリリアナ……。生きて、俺の城にいてくれる。それだけで、こんな痛みなど……)
ヴォルフガングの赤い瞳に、一度目の人生の最悪な光景がフラッシュバックする。
雨の中、断頭台に散った彼女の気高い姿。
ヴォルフガングが王都の異変に気づき、軍を率いて駆けつけた時には、すべてが遅すぎた。愚かな王族どもによって、彼が世界で一番愛した女性は処刑されてしまっていたのだ。
彼は狂乱し、王都を火の海にしてユリウスたちを八つ裂きにした。しかし、どれだけ血を流しても彼女は戻らない。
だから彼は、自身の寿命と、膨大すぎる魔力の制御を代償にして『時間遡行の禁術』を使ったのだ。
すべては、二度目の人生で彼女を確実に守り抜き、一生をかけて愛するためだけに。
その代償として、彼は毎晩、魔力の暴走による激痛と不眠に苛まれる体になってしまった。
だが、後悔など一ミリもない。今まさに彼女は、自分の庇護下にいるのだから。
「はぁっ……くそ、今夜は、特にひどいな……」
ヴォルフガングが痛みに顔を歪め、ベッドのシーツを強く握りしめた、その時だった。
『——ガチャリ』
不意に、自室の重厚な扉が開く音がした。
「……誰だ」
殺気を込めて睨みつけると、そこに立っていたのは、寝巻き姿の上に薄手のショールを羽織り、燭台を持ったリリアナだった。
「あっ……! も、申し訳ございません閣下! 書庫で明日の領地経営の資料を探そうとして迷ってしまい……って、閣下!?」
リリアナは慌てて引き返そうとしたが、月明かりに照らされたヴォルフガングの異常な様子に気づき、ハッと息を呑んだ。
普段の氷のように冷徹な姿からは想像もつかないほど、彼は苦しげに顔を歪め、肩で息をしている。
「……来るな」
ヴォルフガングは掠れた声で拒絶した。
(ダメだ、こんな無様な姿を見せられない! それに、今の俺は魔力が暴走している。近づけば、リリアナを傷つけてしまうかもしれない……!)
「出て行け、リリアナ……っ。俺に、近づくな……!」
必死の警告。普通であれば、北の怪物の恐ろしい形相に怯え、悲鳴を上げて逃げ出すだろう。
しかし、彼女は逃げなかった。
「……嫌です」
リリアナは燭台をテーブルに置くと、迷うことなくベッドへと近づき、ヴォルフガングの側に膝をついた。
「なっ……馬鹿な、魔力にあてられるぞ!」
「閣下は、私の雇用主です。雇用主が苦しんでいるのを見捨てて逃げるほど、私は薄情な部下ではありませんわ」
そう言って、リリアナは躊躇うことなく、シーツを握りしめていたヴォルフガングの大きな手に、自分の白く小さな手を重ねた。
「——っ!?」
その瞬間。
奇跡が起きた。
ヴォルフガングの体内で暴れ狂っていた灼熱の魔力が、リリアナの手から伝わる温もりに触れた途端、まるで春の陽だまりに溶ける雪のように、スーッと凪いでいったのだ。
(痛みが……引いていく? 暴走が、治まった……?)
ヴォルフガングは驚愕に見開いた赤い瞳で、目の前のリリアナを見つめた。
彼女自身に特別な力があるわけではない。ただ、彼の魂が、愛する彼女の存在を検知し、強引に暴走を抑え込んだのだ。
「……少し、落ち着かれましたか?」
リリアナが、ひんやりとした手で彼の汗ばんだ額をそっと拭う。
「冷や汗がひどいですね。誰か、医務官を呼びましょうか?」
「いや……待ってくれ。誰も、呼ばないでいい」
ヴォルフガングは、無意識のうちに、自分のおでこに触れている彼女の小さな手を、きつく握りしめていた。
(離したくない。この手を離せば、また彼女がいなくなってしまう気がする)
一度目の人生のトラウマが、彼の理性を吹き飛ばしかけていた。
「リリアナ。……もう少しだけ、こうしていてくれないか。お前が触れていると、痛みが……嘘のように消えるんだ」
普段の威圧的な声ではない。それは、捨てられた大型犬のように、ひどく切実で、懇願するような甘い響きを持っていた。
「え……?」
リリアナの心臓が、トクンと大きく跳ねた。
昼間の冷酷無比な「北の怪物」からは想像もつかない、弱り切った男の素顔。握られた手から伝わる彼の熱に、顔が熱くなるのを感じる。
(な、なにこれ。すごく可愛いんですけど……! じゃなくて! これは公爵閣下の持病のケア! 優秀な『飾りの妻』としての、重要な特別任務だわ!)
ワーカホリックなリリアナは、持ち前の有能さと斜め上の解釈で、その動揺を即座に「仕事」へと変換した。
「……承知いたしましたわ。これも、私の契約業務の一環ですね」
「業務……? いや、これは……」
「大丈夫です。ご命令とあらば、朝までずっと、こうして手を握っておりますから」
リリアナはベッドの縁に腰掛け、ヴォルフガングの手を両手で優しく包み込んだ。
「さあ、目を閉じてください。明日も、東部国境の視察という激務が控えているのでしょう?」
彼女の柔らかい声と、手のひらから伝わる圧倒的な安心感。
ヴォルフガングは、人生で初めて、完全に安堵した状態でベッドに身を沈めた。
(……ああ。最高だ。死ぬほど幸せだ。……でも、業務ってなんだ? 俺はただ、大好きな妻に甘えたかっただけなのに……まあいい、彼女が俺の横にいてくれるなら、なんだっていい)
完全にデレの極致に達した公爵は、幸せを噛み締めながら、数年ぶりに泥のような深い眠りへと落ちていった。
そして翌朝。
メイド長が部屋に入ってきた時。
そこには、スヤスヤと眠る公爵のベッドの端で、彼の手をがっちりと握りしめたまま、座った姿勢で船を漕いでいるリリアナの姿があった。
「お、奥様!? 旦那様の寝室で、何を……!?」
「ハッ! し、仕事です! 私は飾りの妻として、夜間警備と雇用主のメンタルケアを……!」
「寝言はよろしいですから、風邪を引きますよ。旦那様も、奥様の手を離して差し上げてくださいませ」
メイド長に叱られながら、目を覚ましたヴォルフガングは、自分の横で無防備にコクリコクリと居眠りをしているリリアナを見て、再び心の中で盛大なスタンディングオベーションを打ち鳴らしていた。
(天使だ……。絶対に、今日の視察は昼までに終わらせて、午後は一緒に温かい紅茶を飲むんだ……!)
冷酷公爵の「重すぎる愛」は、こうしてリリアナの「完璧な仕事ぶり」と絶妙にすれ違いながら、城の者たちの生温かい見守りの中で、着実に加速していくのだった。




