第3話 飾りの妻……ですよね?
「こちらが、奥様のお部屋でございます」
初老のメイド長に案内された先は、黒曜石の城の最上階。日当たりが最も良く、見晴らしの素晴らしい角部屋だった。
重厚な両開きの扉を開けた瞬間、リリアナは思わず息を呑んだ。
「……えっと。私は『飾りの妻』として雇われた身なのですが、王族の賓客用のお部屋と間違えていませんか?」
天蓋付きのふかふかの特大ベッド。極上のシルクで織られた絨毯。暖炉の火はパチパチと心地よい音を立て、部屋全体を春のように暖めている。
実家の伯爵家で与えられていた薄暗い部屋とは、天と地ほどの差だった。
「滅相もございません。旦那様が直々に『城で一番良い部屋をリリアナのために用意しろ』と命じられたのです。……さあ、奥様。こちらの衣装部屋もご確認くださいませ」
メイド長が隣の部屋の扉を開け放つ。
その瞬間、リリアナの目は限界まで見開かれた。
「な、なんですか、これは……っ!?」
二十畳はあろうかという巨大なクローゼットの壁一面に、最新流行のドレスが隙間なく、何十着も掛けられていたのだ。それもすべて、リリアナの瞳の色に合わせたブルーグレーや、彼女の白い肌を引き立てる上品な色彩の、最高級の絹やベルベットで作られたものばかり。
さらに中央のガラスケースには、目が眩むようなダイヤモンドのネックレスや、サファイアの髪飾りが山のように陳列されていた。
「だ、誰の私物ですか!? もしかして、公爵閣下の元恋人の……」
「すべて、昨日から今日にかけて、旦那様が王都の最高級ブティックの職人を魔法で直接転移させ、徹夜で仕立てさせた『奥様のための』お召し物です」
「は……?」
リリアナはパクリと口を開けたまま、言葉を失った。
徹夜で? 魔法で職人を拉致……いえ、転移させて?
(……なるほど、そういうことね!)
リリアナの優秀すぎる公務員脳が、猛烈な速度でこの異常事態への「論理的な解釈」を弾き出した。
(これは『先行投資』だわ。北の怪物の妻として、対外的に舐められないように、完璧な着飾りをしろという公爵からの無言のプレッシャー! さすがは冷酷無比なやり手ね。中途半端な妥協を一切許さないということ……受けて立つわ!)
リリアナは一人で納得し、ギュッと拳を握りしめた。
——その夜。
夕食の席で、リリアナは再び己の常識を打ち砕かれることとなった。
長大な一枚板のダイニングテーブル。
冷酷な公爵なのだから、当然テーブルの端と端で、無言の食事が始まるのだろうと覚悟していた。
しかし、リリアナが案内された席は、あろうことかヴォルフガングの『真横』だった。肩が触れそうなほどの至近距離である。
(近い! そして怖い! 威圧感が凄まじいわ……!)
リリアナが緊張で背筋をピンと伸ばしていると、次々と豪華な料理が運ばれてきた。
北の海で獲れた新鮮な魚介のマリネ、とろけるようなローストビーフ、温かいポタージュ。
「……食え」
ヴォルフガングが、低く冷たい声で命じた。
その氷のような無表情にビクッと肩を震わせながら、リリアナがフォークを持とうとした、その時だ。
スッ……。
ヴォルフガングが自ら立ち上がり、無言のまま、自分の手でローストビーフを美しく一口大に切り分け始めた。
そして、一番柔らかくて美味しそうな部位を、リリアナの皿の上に次々と乗せていく。さらに、温かいポタージュも自ら取り分け、彼女の前にそっと置いたのだ。
「えっ……? あ、あの、閣下? 私は自分で——」
「食え。お前は痩せすぎだ。……俺の領地で、妻が飢えているなどという不名誉は許さん」
極寒の吹雪のような声と表情。
しかし、その大きな手は、あまりにも甲斐甲斐しくリリアナの皿に料理を盛り付け続けている。
(な、なんなのこの状況は!? 北の地方では、主人が使用人に食事を取り分ける風習でもあるの!? それとも、毒見のテスト!?)
リリアナは完全に混乱していた。
一方のヴォルフガング。
彼の頭の中は、今夜も大絶叫のパレードだった。
(細い! 細すぎる! 王都のクズども、リリアナにまともな飯も食わせていなかったのか!? 許せん、今すぐ王都を火の海にしてやりたい……っ! いや、今はとにかくリリアナに栄養をつけさせるのが先だ。ああ、スープを飲む唇が可愛い。小動物みたいだ。全部俺が剥いてやるから、海老も蟹も無限に食べてくれ……!)
顔の筋肉を完全に凍結させ「北の怪物」の威厳を保ちながら、ヴォルフガングの心臓はリリアナの一挙一動に早鐘を打っていた。
彼が自ら料理を取り分けたのは、単に「彼女を甘やかしたくてたまらないから」に他ならないのだが、不器用すぎる彼はそれを「不名誉は許さん」という威圧的な言葉でしかコーティングできなかったのだ。
「あ、あの……お肉、とても美味しいです。こんなに温かくて美味しい食事、久しぶりで……」
リリアナが、おずおずと、しかし本当に嬉しそうに微笑んだ。
ガシャンッ!!
突如、ヴォルフガングの手から銀のフォークが滑り落ち、床に激突した。
「か、閣下!?」
「……すまん。手が滑った」
ヴォルフガングはサッと立ち上がり、顔を背けた。
彼の耳の先が、微かに、しかし確かに真っ赤に染まっていることに、リリアナは気づかなかった。
(笑顔……っ! リリアナが、俺の用意した飯を食って笑ってくれた……! クソッ、可愛すぎる、致死量だ! ここで抱きしめたら絶対に嫌われる、耐えろ俺の理性……!)
壁を向いたまま小刻みに震えている公爵の広い背中を見つめながら、リリアナはポタージュをごくりと飲み込んだ。
(やっぱり、この人すごく怖い……。食事中にいきなり立ち上がるなんて、私が何かマナー違反をして激怒させてしまったのかも。もっと気合いを入れて、完璧な『飾りの妻』として領地経営の役に立たなければ、いつかこのお肉のように切り刻まれてしまうわ!)
こうして、愛妻家(重度)の冷酷公爵と、仕事への熱意を燃やすワーカホリックな元王太子妃の、甘くてすれ違った新婚生活の第一夜が更けていった。




