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第2話 北の怪物への就職活動

王都から馬車を乗り継ぎ、十日。

一年中雪に覆われた極寒の地、ノースガルド辺境伯領。その中心にそびえ立つ黒曜石の城の執務室で、リリアナは息を詰めて「その男」と対峙していた。


「——つまり、王太子殿下との婚約を自ら破棄し、俺の元へ逃げてきたと」


鼓膜を震わせるような、低く冷たい声だった。

執務机の向こう側に座る男——ヴォルフガング公爵。

漆黒の髪に、血のように赤い瞳。端正すぎる顔立ちは氷のように冷たく、彼から無意識に漏れ出ている莫大な魔力のせいで、執務室内の空気は針のようにピリピリと張り詰めている。


「北の怪物」という異名は伊達ではない。並の貴族令嬢なら、彼と目が合っただけで気絶していただろう。

だが、一度断頭台の露と消えたリリアナの度胸は、そこらの令嬢とは違った。


「逃げてきた、という表現は正確ではありませんわ。私は、私の持つ能力を最も正当に評価してくださる『雇用主』を探しに来たのです」


リリアナは怯むことなく、持参した分厚い書類の束をヴォルフガングの机にトンッと置いた。


「ここにあるのは、私がこれまで王宮で処理してきた、隣国との外交文書の控えや、王直轄領の税収の改善案です。殿下の名前で出された公文書の八割は、私が起案し、決裁を下していました」

「……ほう」

ヴォルフガングの赤い瞳が、スッと細められる。


「私の頭脳と、王都の内部事情に関する知識は、必ず公爵閣下の領地経営のお役に立ちます。……どうか、私を『契約妻』として雇っていただけないでしょうか」


リリアナは真っ直ぐにヴォルフガングを見つめた。

「厄除けの『飾りの妻』として、領地経営の補佐に徹します。夜の営みも、愛も求めません。その代わり、王家が私に手出しできないよう、公爵夫人の地位と保護を与えていただきたいのです」


言いきった。

図々しいにも程がある提案だ。王家から疎まれている(と思われる)傷物の令嬢を拾うメリットなど、普通の貴族にはない。

怒りで切り捨てられるかもしれない。リリアナがドレスの裾を強く握りしめた、その時。


ヴォルフガングはゆっくりと立ち上がり、リリアナを見下ろした。


「……随分と、ふざけた提案だな」


氷点下の声。圧倒的な威圧感がリリアナを見下ろす。

「王家の盾として俺を使おうというその強欲さ……嫌いではない。いいだろう、お前の実力、俺が買おう。お前を公爵夫人として迎え入れる」


「……っ! ありがとうございます、閣下!」

リリアナは深く頭を下げ、安堵の息を吐いた。

(よかった……! これで安全は確保された。冷酷で怖い人だけど、ビジネスと割り切ればなんてことはないわ!)


リリアナは、この冷酷な公爵を「話のわかる雇用主」として完全に信用した。


——だが。

リリアナには知る由もなかった。

冷徹な「北の怪物」の仮面の下で、ヴォルフガングの内心が、現在進行形で大爆発を起こしていることを。


(…………っっっ!!! 嘘だろ!? 本物だ、本物のリリアナだ!! なんで!? なんで俺の初恋の人が、俺の執務室にいるんだ!?)


ヴォルフガングは、机の下で震える両手を必死に押さえつけていた。

顔の筋肉を総動員して「冷徹な公爵」を演じているが、心の中ではスタンディングオベーションが鳴り止まない。


(契約結婚!? 俺と!? いいのか!? あんなクズの王太子のところから逃げてきてくれたのか!? え、ていうか可愛すぎる。なんだその真っ直ぐな瞳。抱きしめたい。今すぐ抱きしめて『よく頑張ったな』って頭を撫で回したい……っ!)


実はヴォルフガングは、社交界の隅で常に陰ながら国を支えていたリリアナの聡明さと気高さに、何年も前から密かに惚れ込んでいた。

だが、彼女は王太子の婚約者。身分と思いの重さから、遠くから見守ることしかできなかったのだ。


その彼女が今、自分から「妻にしてくれ」と飛び込んできた。


(落ち着け、俺。ここで顔をニヤけさせたら『北の怪物』の威厳が台無しだ。警戒されて逃げられたら死ぬ。絶対に死ぬ。……夜の営みも愛も求めない? 冗談じゃない、俺の重すぎる愛で一生甘やかして、絶対に本物の妻にしてやる……!)


ヴォルフガングは狂おしいほどの愛情と独占欲を分厚い氷の仮面に隠し、極めて冷淡な声を作ってリリアナに告げた。


「長旅で疲れただろう。今日はゆっくり休むといい。お前の部屋は、すでに用意させてある」

「はい、ありがとうございます。では明日から、早速お仕事の引き継ぎを——」

「仕事などしなくていい。お前はただの飾りだ。何もせず、屋敷で優雅に茶でも飲んでいろ」


(ダメだ、俺の大切なリリアナにこれ以上苦労なんかさせられるか! ずっと寝てていい! 美味いお菓子をたくさん食べてくれ!)


ヴォルフガングの不器用すぎる「休め」という配慮だったが、リリアナはそれを別の意味に受け取ってしまった。


(なるほど。まずは私が本当に使える駒かどうか、様子を見るのね。……ふふっ、優秀な公務員魂に火がつくわ。絶対に『ただの飾り』なんて言わせないほどの成果を出して、一生養ってもらうんだから!)


こうして、互いに壮大な勘違い(?)を抱えたまま、冷酷公爵と捨てられ令嬢の、全く噛み合わない甘い同居生活が幕を開けたのである。

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