後日談 温室の花
王都の愚か者たちが地の底へ落ちてから、さらに数ヶ月。
ノースガルド辺境伯領は、長く厳しい冬のただ中にあった。
「ん……」
黒曜石の城の、ふかふかの特大ベッド。
リリアナが微かに身じろぎをしてゆっくりと目を開けると、視界いっぱいに、見慣れた彫刻のように美しい男の顔があった。
漆黒の髪に、血のように赤い瞳。
「北の怪物」と恐れられる辺境伯ヴォルフガングが、リリアナを腕の中にすっぽりと閉じ込めたまま、瞬きもせずに彼女を見つめ下ろしている。
「……おはようございます。あの、もしかして私の寝顔、ずっと見ていらっしゃいました?」
「ああ。一時間ほど前からな。お前が夢の中で俺の名前を呼んで微笑んだ時は、心臓が止まるかと思った」
真顔でとんでもないことを言う夫に、リリアナは顔を赤くしてシーツに潜り込もうとした。
だが、ヴォルフガングの大きな手がそれを許さず、彼女の腰をさらに強く引き寄せる。
(ああああっ! 起きた! 起きたての少しぼんやりしたリリアナ、破壊力が高すぎる! このまま一生ベッドから出さずに抱きしめていたい……っ!!)
相変わらず、彼の内面は妻への重すぎる愛で大暴走を起こしていたが、外向きの顔は「極寒の冷酷公爵」のままピクリとも動かない。
「ヴォルフガング様、もう朝食の時間ですわ。今日は新しく完成した、領地のガラス温室の視察に行く予定でしょう?」
「……そんなものは明日に回せ。今日は冷える。お前が風邪を引いたらどうする」
「お城の中庭から直結していますし、温室の中は春のように暖かいと聞いておりますよ? さあ、起きてくださいな」
リリアナが彼の頬を両手で包み込んで優しく撫でると、最強の辺境伯は「……わかった」と、大型犬が尻尾を垂れるように素直に従った。
この城の絶対権力者は、今や完全に妻の掌の上である。
* * *
朝食を終えた二人は、完成したばかりの巨大なガラス温室へと足を踏み入れた。
外は猛吹雪だが、特殊な魔石で温度管理された温室の中は、色とりどりの花が咲き誇り、むせ返るような春の香りに満ちていた。
「わぁ……! 素晴らしいですわ! これなら、冬の間でも領民たちのための薬草や、新鮮な野菜を育てることができますね!」
リリアナが目を輝かせ、温室の中を軽やかな足取りで見て回る。
その背後を、ヴォルフガングは片時も離れずにぴったりとついて歩いていた。彼の手には、分厚い毛皮のファーケープが握られている。
「リリアナ、走るな。転んだら危ない」
「ふふっ、子供ではありませんわ。……あっ、見てください! 王都でしか育たないと言われていた『星巡りの花』が、こんなに綺麗に咲いています!」
リリアナがしゃがみ込み、青い可憐な花に顔を近づける。
その無邪気な横顔を見つめながら、ヴォルフガングは音もなく彼女の背後に立ち、持っていたファーケープを彼女の小さな肩にふわりと掛けた。
「えっ? ヴォルフガング様、温室の中は暖かいですから、これでは少し暑いくらいですけれど……」
「ダメだ。万が一、隙間風が入ったらどうする。……それに、お前が他の花に見惚れているのが、少し気に入らない」
ヴォルフガングは背後からリリアナをすっぽりと包み込むように抱きしめ、彼女の肩口に自分の顎を乗せた。
(こんな美しい温室を作ったのは失敗だった! リリアナの意識が花に向いてしまっている! 俺だけを見てほしいのに……っ!)
「……ふふっ、嫉妬ですか? お花相手に」
「……お前が可愛すぎるのが悪い」
むすっとした声で呟く「北の怪物」に、リリアナは声を上げて笑った。
かつては他人のために徹夜で書類の山と格闘し、最後は冷たい雨の中で断頭台に送られた彼女の人生。
それが今、こんなにも暖かく、美しい花に囲まれ、自分を世界で一番愛してくれる不器用な夫の腕の中にいる。
「ヴォルフガング様」
リリアナは彼の腕の中で振り返り、その赤い瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「私、今、本当に幸せです。……私を見つけてくださって、ありがとうございます」
その言葉に、ヴォルフガングは息を呑んだ。
彼の心の中で、一度目の人生で彼女を救えなかった深い傷跡が、完全に癒やされていくのを感じる。
「……俺の方こそ。生きて、俺の腕の中にいてくれて、本当にありがとう」
ヴォルフガングはリリアナの顎をそっと持ち上げ、花々の甘い香りが漂う温室の中で、深く、優しいキスを落とした。
温室の入り口で控えていたメイド長や護衛の騎士たちは、熱烈すぎる領主夫妻の姿に、そっと見ざる言わざるのポーズを取りながら、生温かい笑みを浮かべて扉を閉めた。
王都の喧騒も、愚か者たちの陰謀も、ここには届かない。
北の果ての黒曜石の城では、今日も平和で、極甘な「飾りの妻(という名目の溺愛生活)」の日常が続いていくのだった。
最後に1話だけ出したかった話です!平和な日常的な後日談って良いですよね。
「捨てられ令嬢」は本当にこれで最後です!ありがとうございました<(_ _)>




