何気ないもの
「寒っ」
ブルっと震えた身体。文字が書けそうなほど白い息を、はぁっと吐く。凍てつく空気が肌を刺し、指先が感覚を失いかけていた。心の中で、母親の言葉を繰り返す。ヒートテックを着てくるべきだったと。面倒くささに負けた自分を、静かに責めた。
「うっす! おはよっ! 元気しとるか? 雅人!」
大きな声が響き、左肩をバシッと叩かれる。背広の体つきがアスリートのような男が、僕の進行方向を遮っていた。叩かれた衝撃が、冷えた身体に熱を伝えるような痛みをもたらす。晃弘の声は、朝の静かな通学路に反響し、周囲の空気を振動させた。
「おはよう、晃弘。相変わらず寒そうな格好だな」
そう返事をしながら、晃弘の右側を歩く。晃弘は防寒具を一つもつけていない、身軽な格好だった。近くで見ると、汗の匂いが微かに漂い、肌に薄い光沢が見える。息は切れていないのに、身体から立ち上る熱気が、僕の寒さを一層強調するようだった。心の中で、こいつの体力が羨ましくも、馬鹿馬鹿しく思う。
「まぁ走ってきたさかい、あったまってむしろ熱いまであるわ」
晃弘の言葉に、僕は首を振る。走ってきたなんて、信じがたい。だが、彼の表情は本気で、汗の滴が額を伝う様子が、走ってきた証拠を物語っているようだ。
「ところで雅人は寒そうやな! 走ってけえへんかったんか?」
「なんで走らなあかんねん、遅刻しそうでもないのに」
ネックウォーマーに顔を埋めながら応える。布地が頰に触れ、わずかな温もりを与えてくれるが、風が吹き抜けるたび、寒気が骨まで染み入る。晃弘の提案に、苛立ちが混じる。僕の心理は、こんな朝から無駄なエネルギーを費やすなんて、理解不能だ。
「いや待てよ、お前走ってきたゆうたな?」
「ゆったな」
「やばいってお前、フルマラソンでもしてきたんか?」
唖然とする僕に対し、晃弘は全く間違っていないさも当然のように頷く。目が輝き、息遣う様子もない。心の中で、こいつは本当に馬鹿だと思う。脳筋そのもの。だが、その純粋さが、どこか眩しく感じる。
「おかげでローファーみてみ、ガバガバやでぇ」
「『ガバガバやでぇ』、ちゃうねん! なんの影響受けたんか知らんけど、百歩譲って走るのはええわ、でも登校時にすることちゃうやろ、あんさんはTPOをご存じないようで?」
左手でお手本のようなツッコミをビシッと入れる。指先の冷たさが、動きをぎこちなくさせる。晃弘の笑顔に、苛立ちが募るが、どこか楽しさも混じる。朝の冷たい空気が、二人の会話を包む。
「昨日テレビでさ、駅伝やっとってそれ見て俺も負けてられへんってなったんよ」
こいつは馬鹿だ。しかも脳を筋肉でやられているタイプの。いわゆる脳筋だ。だが、心の奥で、こんな情熱を持てる彼を、少し羨ましく思う。
「ええんちゃう? なんでか息きれてへんし」
「箱根めざすわ! 区間新記録おれがとる!」
「ええんちゃう? 知らんけど」
頑張りやぁと適当にあしらう僕だが、晃弘は本気で“やってやる!”という気迫で目を輝かせていた。その視線が、僕の心を少し揺さぶる。寒さの中で、温かな友情のようなものが、かすかに芽生える気がした。
「そういえばさぁ、TPOって何?? トイレットペーパー??」
「今更!? もしトイレットペーパーならOはなんやねん!」
ズッコケそうになりながらも、高校の正門に着くのであった。門の鉄の冷たさが、視界に入り、朝のルーチンが始まる予感がする。晃弘の馬鹿さ加減に、思わず笑いが込み上げる。




