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04

 僕たちはどのくらい歩き続けただろう。目に映る風景も随分変わった。僕が最初、この世界へ迷い込んだときは、風景は古びていてもはっきりとしていた。僕たちは道の端の民家にも潜り込んだし、布団で寝もした。それらにはみんな確かな感触があった。

 空には太陽があり、夜が訪れて月も見えた。僕は星座には詳しくないけど星もあった。

 だけど今は──。

 見上げても太陽は見えない。空は変わらず青かったが、りガラスを透して見ているように、あるいは青の上に白い絵の具を溶いて流したように霞んでいた。

 地上に目を戻せば、そこも同じようなものだった。描かれた風景の上から薄い黄土色を重ねて塗り込めたような、画集で見た、夕暮れの風景のような……そこにあるはずなのに、静かで遙かに遠い世界だ。

 ただ川だけが、くっきりと確かに僕たちの前に横たわっていた。水面は静かで、ところどころが白く光っていた。

 夜ももう、この世界にはやってこない。僕たちが歩き疲れる頃、世界は翳る。柔らかな草の上で眠り、目覚めればまた明るくなった川野辺を歩き出す。僕自身もまた、緩やかにこの世界の一部になろうとしているのだと思った。

 この国は黄昏の国──何もかもが穏やかにまどろんでいるのだ。ここで怒ったり泣いたりしているのは、きっと僕だけだ。

 僕は道の端に白い花を見つけた。瑞々しい葉の緑や花の形、それが風に揺れる涼しげな様子が山吹にとてもよく似ていた。

 僕はその花を短くいくも折り取った。

「伽耶子」

 僕は伽耶子に話しかけた。やっぱり正視はできなかったけれど、この頃僕は、また伽耶子に話しかけるようになっていた。どうせふたりで旅を続けるなら、伽耶子を物のように扱うのではなく、人のように接するほうがラクだと気づいたのだ。

 この世界の空気が僕にそう思わせたのかも知れない。僕自身が伽耶子と同じ存在になりつつあるからなのかも知れない。とにかく僕はそう思ったのだった。

 伽耶子はもう、ひどい有り様だった。美しく清楚だった頃の面影はもうどこを探してもない。僕が恐れ、嘆き悲しんで逃げ出したときより、もっとおぞましい姿になり果てていた。

「伽耶子の名前の由来は聞いたけど、オレの名前のことは話してなかったよな」

 白いワンピースもカーディガンも、伽耶子の融けた肉でどろどろに汚れていた。僕は手にした白い花を、伽耶子の乱れて固まった髪に挿した。

「オレの名前はさ、画家の名前なんだ。母さんは色々尤もらしく言ってたけど、そんなんじゃなく、単純に親父が好きだった画家の名前をつけたの。オレの親父、元々絵描きになりたかったんだよ」

 話しかけながら、何本も何本も……それからカーディガンのボタン穴や、ワンピースの襟元にも挿した。

「伽耶子のとこもあんまりうまくいってなかったっぽいけど……うちもあんまりよくなかったよ。親父、全然甲斐性なかったからね。お祖母ちゃんともうまくいってなくて、それもあって引っ越したんだ。

 最初に会ったとき、どうしてここに来たの?って聞いただろ? 本当は親が離婚の話し合いすんのにジャマだから、こっちに預けられてたんだよ。まあオレは……不機嫌でケンカばかりしてる親と一緒にいるよりは、こっちにいたほうがなんぼかよかったけどさ……」

 どうにも惨めで恥ずかしくて腹立たしくて、自分のことは伽耶子には話せなかった。でももっと早く、会ったときはムリでも、旅の途中で話しておけばよかった。そうすれば伽耶子の話だって、聞いてあげられたかもしれないのに──。

 いつか伽耶子が目の前で見せたやり方を懸命に思い出しながら、僕は花を編んで花輪も作った。僕はそれを、伽耶子の頭に載せてやった。

「…………」

 全身を白い花で飾り立てた、腐り果てた死体──泣けばいいのか笑えばいいのか、僕にはわからなかった。

 一迅の風に白い花びらがはらはらと舞い散った。僕は少し笑った。

 今僕が伽耶子に捧げた花は、早晩萎れ、むなしく散ってしまうのだろう。

「大丈夫。また花が咲いていたら、摘んでやるよ」

 また幾ばくかの時間が過ぎた頃──。


 僕たちは船を見た。

 彼方に白く光る船じゃない。それは流れに棹さし、ゆっくりと向こう岸へと漕ぎ出していくところだった。船頭も、客の姿もくっきりと見える。川に飛び込めば泳ぎ着けるほどに近かった。

 渡し場が近い……!

 僕はそう思った。眠っていたような体中の感覚がまさに目覚めたように、隅々までまざまざと漲ってきた。

「伽耶子、早く……!」

 僕は我慢できずに少し先まで駆けては振り返り、伽耶子をせき立てた。伽耶子の覚束ない足取りがひどく焦れったかった。

 背が高くなってきた草をかき分けながら進むと、唐突に僅かな空き地に出た。水辺に板を渡しただけの、あっけないほどに簡素な渡し場がそこにあった。空き地にこれもごく質素な床几しょうぎが置いてあり、白く薄い髪と髭を肩の辺りまで垂らした小さな老爺が座っていた。

「…………」

 老爺は穏やかな表情を僕に向けた。僕は気づいた。これは人じゃない──。

 目鼻立ちも居ずまいも、人と全く変わらない。それでも何かが違うのだ。だがそれは、間違いなく僕がこの国で初めて出会った、「生きている者」だった。

「……こんにちは……」

 僕はおずおずと声をかけた。

 老爺は僕に笑いかけた。僕は少し安心し、言葉を継いだ。

「船に乗せて欲しいんですけど……」

「船に乗って、どうするね」

「向こう岸に渡りたいんです」

 老爺の問いにそう答えると、老爺は「ふむ……」というように髭をしごいた。

「おまえが、かね?」

「いえ……」

 僕は言いよどんだ。後ろを振り返る。伽耶子はそこにいた。

「この子です。この子を向こう岸まで、乗せてやって貰えませんか」

 老爺は目を細め、僕から伽耶子へと、ゆっくりと視線を移した。

「おまえたちはこの川を渡るために、長い旅をしてきたのだね」

 訊ねるともなく、そう言った。

 やわらかな風が優しく頬を撫でる。老爺の背では川面がきらきらと光っていた。

「だがそれを、船に乗せることはできん」

「なぜですか」

 問うてはみたものの、僕は老爺の答えには驚かなかった。なぜかそんな気がしていたのだ。

 僕たちが見た船は白く美しく、乗っていた者もみな輝いて見えた。どれほどの白い花でその身を飾ったところで、黒く腐った伽耶子はあの船の客にはふさわしくない──。

 でも僕は食い下がった。

「この子がこんなになってしまったのも、ここに長くいすぎたせいだ。この子は本当にもう長い間、川の向こうへ行く道を探していたんです。ようやくここまで辿りついたのに……それはあんまりだ……」

 ふむ……、と、老爺はまた髭をしごいた。

「おまえは腐った亡者の列を見たことがあるだろう」

「……はい」

 僕は答えた。老爺が何を言うつもりか、僕にはわからなかった。

「あれはこの世に未練を残した者どもだよ。未練やそういったものはみな此岸に捨てて行かなければ、船に乗ることはできんのだ」

「でも、この子は船に乗りたがってます。それがこの子の望みなんです。他にはもう何もない。なのにどうして乗せて貰えないんですか?」

 老爺は再び目を細め、僕を見た。内心を見透かすような視線だったが、それは不快なものではなかった。

「おまえは自分にウソをついているね。おまえはそれの望みを知っているだろう。それの望みは、おまえと船に乗ることだ。だがおまえはそれを望んでいない。だからそれも船に乗ることはできんのだよ」

「……ではこの子は」

 と、僕も続けた。自分のことも言われたのだ。僕は必死だった。

「永遠に船には乗れないのですか。そして僕も、この子と一緒にこの国を旅し続けるしかないのですか」

「神ならぬ身なら終わりは必ず訪れる。必ず救われる。それがいつかは、わからんが」

 老爺は視線を緩めた。

「さあ、もう話は終わりだ。もう往きなさい」

 そう言うと老爺は僕たちにすっかり関心をなくしたようだった。老爺は再び川面に視線をやり、地蔵のように動かなくなった。

「お爺さん……! どうかお願いします……!」

 もう一度言ってみたけど、もう何の反応もなかった。

 僕と伽耶子は長い間そこに立ち尽くしていた。だが船は戻って来ず、僕たちもとうとうあきらめてその場を去った。渡し場は草に隠れ、すぐに見えなくなった。


 老爺は言った。往きなさい、と。でも、どこへ?

 これまでは渡し場を探すという目的があった。でもその目的は今はもう消えた。

 これからの長い旅を、何を恃みに、どこを目指せというのか……。

 老爺の言った「終わり」に向かって? 終わりって何だ? 僕もまた、死んでしまうということか……?

 そこまで考えて、僕はなぜだかおかしくなった。それから涙が出た。

 ここは死者の国。それならここにいる僕も、僕自身の気持ちはどうであれ、死人に決まってるじゃないか……。

 僕たちは目的を見失い、それでも川辺を歩き続けていた。もし僕の他に生きている者がいて今の僕たちを見たとしたら、僕たちはきっと、あの亡者たちのようにただ風に吹かれて歩いているように見えたことだろう。

 川幅が随分広くなってきた。もう向こう岸も霞んで見えない。僕はふと、このまま歩き続ければやがて海にたどり着くのだろうか、と思った。

 いつか御座山の頂上から見た、彼方に光る海を思い浮かべていた。不思議に心が温かくなった。こんな感覚も久しぶりだ。

「もし海にたどり着いたら──」

 と、僕は心に浮かんだことを、独り言のように口に出した。

「伽耶子のお祖母ちゃんが、海の向こうから迎えに来てくれるかも知れないな……」

 伽耶子はもちろん答えない。だが僕はこの考えが気に入った。

 母でも父でもなく、祖母が迎えに来てくれるのをずっと待っていた伽耶子。その理由も、僕はとうに知っていた。

 海を目指そう、と思った。どうせ時間は永遠ともいえるだけあるのだ。

 僕たちはいつか海にたどり着けるだろう。

 もし伽耶子のお祖母ちゃんが迎えに来てくれなくても──。

 そのときは僕が伽耶子を連れ、海に漕ぎ出してもいい──。

 伽耶子の望むところまで──いつかふたりが海のひとしずくになるまででもいい──伽耶子と、一緒に──。


 そのとき。

 何か、ひどく懐かしい声を聞いた気がした。

 僕は我に返り、周囲を見渡した。


 ミャー


 今度ははっきりと聞こえた。猫だ。甲高く、仔猫が親猫に甘えるときのような声。僕はその声に聞き覚えがあった。

 やがて黒い小さなケモノが草むらから姿を現した。

「……みゃー!」

 自分でも驚くような大きな声が出た。あの日、祖母の家の玄関で僕を見送った黒猫だ。雄のクセにやたらにかわいい声の持ち主で、ついた名前も「みゃー」だった。

 黒猫は人懐っこく僕の足元にじゃれついた。僕はそれを抱き上げた。懐かしく確かな重みと温みがそこにあった。黒猫はぴくりとヒゲを動かすと僕の腕からすとんと降りた。そしてもう一度ミャーと鳴くとついと離れ、僕を振り返った。

「…………」

 僕にはわかった。みゃーはついて来いと言っているのだ。だが僕は動けずにいた。また僕は伽耶子を裏切るのか……今僕は──伽耶子と行こうと考えたばかりなのに──。


 ──行っていいよ──


 伽耶子の声がした気がした。

 僕は思わず振り返った。伽耶子は表情もなく、ただ無言でそこに立ち尽くしていた。

「伽耶子──」

 名前を呼んでも、答えが返る訳もない。伽耶子の姿が滲んだ。

「ごめん、伽耶子……」

 再び小さくみゃーの声がした。向き直ると、みゃーはもう随分と遠くへ行ってしまっていた。

 僕は再び伽耶子を見た。どんなに目を凝らしても、目の前の伽耶子にかつての面影を見出すことはできない。だけど思い出の中の伽耶子は、今でも可憐で清楚な一輪の花だ。

 小学生の頃の、いつもひとりで教室にいた姿。内緒だよと言って、僕にだけ名前の秘密を教えてくれた。再会したときの、あの嬉しさ。手を繋ぎ花を摘んで一緒に歩いた。僕たちにはこの国で、確かに分かちあった時間があり、通いあわせた心があった。

 たったひとり、この黄昏の国で僕を待ってたと言った。──伽耶子──僕は──。

「ごめんな……! ごめん……」

 涙が溢れた。僕は駆け出した。

 やはり僕は生きたい。今生の世へ戻りたい。冷淡でも情けなくても身勝手でも、僕は──。

 僕は振り返らなかった。伽耶子はどんどん小さくなりながら、それでもいつまでも僕の心の中に佇んでいた。


 小さなみゃーは時折僕を確かめるように振り返りながら、少し前を歩いていく。ぼくはただぴんと尾を立てたみゃーの後ろ姿だけを見つめ、見失わないよう必死でついていく。

 行く手は徐々に暗くなり、やがてすっかり闇に閉ざされて、みゃーの姿もほとんど見えなくなった。

「みゃー、みゃーどこだ?」

 ひとりではこの闇の中は歩けない。泣きそうになりながら名を呼んだ。振り返ることはしなかった。振り返ってもそこにすでに道はないのはわかっていた。

 ふと傍らに気配を感じ、僕はそちらをおそるおそる盗み見た。

 そこにいたのは若い男──いや、若い男の姿はしているが、川辺の渡し場にいた老人と同じ、人ならざる何かだった。それは黒っぽい服を着込み僕と並んで歩いていて、銀色に光る大きな瞳で前を見据えたまま、僕に片手を差し出した。

 ためらいがなかったわけではない。だけど僕にはすべてを押し包む漆黒の闇の中、ひとりで立っている気概はとうていなかった。僕はすがるようにその手を取った。

 それの掌は大きく厚く温かく、僕に安心をくれた。すでにそれも闇に溶け込もうとしていた。瞳はなおも銀色の光を放っていたが、それすら闇に呑み込まれるのも時間の問題だろう。長く伸びたそれの爪が食い込むのを気にもかけず、僕はその手を強く握った。手の中の温もりと痛みだけを恃みに、僕は漆黒の中をただ歩き続けた。



 その闇をいつ、どうやって通り過ぎたのか、僕は覚えていない。気がつくと僕は祖母の家の前にいた。

 目眩がしそうに明るい昼下がりだった。気温は高く、長袖のシャツの下はべったりと汗で濡れていた。

 雑草が茂り放題の手入れのなってない庭と、見慣れた古びた玄関。僕は引き戸を開けた。三和土を上がった廊下の隅には、いつものようにみゃーの茶碗が置いてある。それはなぜだか伏せられていて、その下に紙切れが挟んであった。ふと興味を惹かれ、僕はこれを広げて読んだ。


 立ちわかれ いなばの山の 峯におる 待つとしきかば 今帰りこむ


 どこからかみゃーが現れて、例の甘えた声で鳴きながら僕の足にじゃれつき、額を擦りつけてきた。

「竣介……!」

 みゃーの声に気づいたのか、廊下の奥の襖がひらいて顔を出したのは母だった。

「母さん……? なんで、ここにいるの……?」

「なんでって、あんたは……!」

 母は狭い廊下を転がるように駆け寄ってくると僕を抱きしめ、揺さぶった。母は泣いていた。

「あんたは、もう……! どれだけ心配したか……!」

「……え……と、……あの……」

 母の激しい反応に戸惑っていると、奥の座敷から、祖母も出てきた。今度はその足元にじゃれついたみゃーを抱き上げると

「お帰り、みゃー。 ご苦労だったね」と頭を撫で、僕にも

「お帰り、竣介。よう帰ってきた」と言った。

「……ただいま」

 そう口にすると、ああ、帰ってきたんだな、という実感が湧いた。

 僕は何処いずこか、遠いところを旅してきたのだ。そしてみゃーに連れられここに帰ってきた。

 僕は息を大きく吸い込んだ。

「ただいま、お祖母ちゃん、お母さん」

 もう一度、そう繰り返した。



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