03
その日、僕たちは珍しく川を逸れ、林の中を歩いていた。川沿いに道がなく、しかたがなかったのだ。伽耶子はひどく不安そうだったが、黙って僕の少し後ろを歩いていた。
やがて林を抜けた僕たちが見たのは、草深い湿原にぽっかりと浮かんだような湖、そこに映る青空と円錐形の山、そして湖の向こうにあるその山そのものだった。
「うわあ……」
思わず声が出た。水の面はまさに鏡のように澄み、ただ平らかで、逆さに映った空と山は夢のように見えた。この世のものではない──今、僕たちがいるこの世界は元々「この世」ではないのだからこの表現もおかしいのだけど──湖の面に映っていたのは儚く美しく触れることの叶わない、まさに常世の国だった。
またその向こうにある山がひどく懐かしい姿をしていたことが、僕の胸を揺さぶった。
古神の周辺に生まれ育った者なら誰でも知っている、一帯のどこからでも同じ姿を見ることができるきれいな円錐形……。
「御座山だ……!」
湖には向こう岸へと誘うように、板を互い違いに渡しただけの簡単な橋──八橋が組まれていた。僕は思わず繋いでいた手を放し、八橋へと走った。
「竣介くん……!」
伽耶子が叫んだ。ひどく切羽詰まったような声。伽耶子が大きな声を出すのも初めて聞いた。僕は八橋を少し渡ったところで振り向いた。
「どこ行くの……? 川から遠ざかっちゃうよ……!」
「伽耶子も来いよ! 早く……!」
僕も叫んだ。伽耶子は、だが凍りついたようにその場を動こうとしなかった。僕は焦れったくなり、伽耶子の許へと駆け戻った。
「どうしたのさ……? わかるだろ、御座山だよ。あそこまで行けば帰れるんだ」
そう言ってみたが、伽耶子は後ずさるようにしながら答えた。
「だって……あそこまでは遠すぎるよ。近くに見えたって、山はすごく遠いんだよ……辿り着けるかどうかもわかんないのに……川に戻れなくなっちゃう……」
ぐずぐずと駄々をこねるような伽耶子の様子に、僕の頭に血が上った。
「川になんて、もう戻らなくたっていいだろ? 山に行けば帰れるんだから!」
思わず語気が荒くなった。僕は伽耶子の手を掴むと、湖へと彼女を引っ張った。
「やだ……!」
八橋を少し渡ったところで、伽耶子が僕の手を振りほどこうとした。そんな強い拒絶を見せたのも初めてのことだった。
「危ない……!」
細い板きれ一枚、欄干も何もない「橋」の上で、僕たちは図らずも揉みあう形になった。視界が揺れ、水面に映ったふたりが目に入ったとき、僕は思わず伽耶子の手を放してしまった。
伽耶子はそのまま僕から逃れ、元いた水縁へと走り戻った。
「…………」
嫌な汗がどっと噴き出し、額を濡らしているというのに、僕の指先はひどく冷たかった。心臓が痛い。息ができない。
「か……、伽耶子……」
ようやく喘ぐような声が出た。
「怖くないから……オレがいるから……だから、一緒に行こう……」
伽耶子は小さな子供がするようにイヤイヤと頭を振ると、本当に子供のようにその場に座り込んでしまった。僕はしばらく橋の上に立ち尽くしていたけれど、伽耶子と別れひとりで湖を越える気にはどうしてもなれなかった。
「…………」
どれだけそうしていただろう。溜息をつき、ひどい疲労感を覚えながら、僕は伽耶子の許へと再び戻った。
「もういいよ。わかったから……。行こう。川に戻る道を探そう」
僕は座り込んだまま泣いている伽耶子の手を取り、彼女を立たせた。そしてその手を引き、林へと戻った。常世の国を映した湖とその向こうの山が、無言で僕たちを見送った。
「それ」に気づいたのはいつだっただろうか。
湖を背にした翌日か、それより数日経った後か──僕は伽耶子の白い頬に小さな染みを見つけ、自分の頬をつついて言った。
「ここ。汚れてるよ」
伽耶子は恥ずかしそうに自分の手で頬を拭った。だが染みは取れなかった。僕は手を伸ばし、伽耶子の頬に触れてそれを擦り落とそうとしたが、やっぱり染みはそこにあった。
その小さな染み──否、僕が染みだと思ったものが、そのときから伽耶子を蝕み始めた。
腐り始めたのだ。少しずつ、伽耶子が。あの亡者たちのように。
ぽつんと伽耶子の頬にできた小さな染みが黒く拡がり始めたとき、僕は伽耶子に、
「やっぱり戻ろう」と言った。
どこにあるかわからない渡し場を探すより、湖を越え山を目指すほうが絶対に早い、と思ったのだ。早く「この世」に戻らないと、伽耶子が腐ってしまう──それは確信だった。
伽耶子はひどく嫌がり泣いていたが、僕は頓着しなかった。伽耶子のためなのにどうしてこいつは、という凶暴な気持ちが噴き上がってくるのを必死で抑えながら、引きずるようにして来た道を戻った。
だけどどれだけ探しても、湖へ至る道は二度と現れなかった。僕たちは疲れ切り、やがて重い足どりで再び川辺への道を辿った。
川辺では今しも太陽が向こう岸へと沈もうとしていた。とろりと熟したオレンジ色の円形が、茜色の空に浮かんでいる。燃え立つような朝陽とは対照的に、それは光を内側に閉じこめ、まさに今眠りにつこうとしているように見えた。
常世の国は日が沈むところにある──死にゆく太陽を見ながら、僕はやはり川の向こうが「あの世」なのだと悟った。そして伽耶子が、山の麓ではなく川の向こうへ、あれほど行きたがった本当の理由もようやくわかったのだった。
伽耶子とは、行けない……僕ははっきりとそう思った。伽耶子と僕では、すでに住むべき国が違っているのだ。
でも僕は伽耶子と約束した。だからせめて、渡し場までは一緒に行こう。
僕はそう決心し、自分に強く言い聞かせた。でも伽耶子が差しのべた手を、僕はもう取ることはできなかった。
伽耶子は僕の仕打ちにひどく悲しそうだった。伽耶子の心は傷ついたと思う。だけど何も言わなかった。黙って手を引っ込めた。そんな伽耶子の様子に僕の心も痛んだ。腐り始めた伽耶子を僕はもうまともには見られなかったけれど、気持ちはまだ残っていた。
残ってはいたけれど──。
込み上げてくる嫌悪や不快、そして恐怖はどうしようもなかった。
僕は自分で思うほど、伽耶子のことを好きではなかったのかも知れない。同じクラスだったあの頃からずっと一緒に過ごしていれば、伽耶子がどんな姿になっても大切に思えたのかも知れない。だけど僕たちにはそんな共有した時間などなかったし、どれだけ頭で考えたところで、現実にムリなものはムリだった。
どうしてこんなことになってしまったんだろう……。
思いつく原因と言えばひとつしかなかった。湖だ。僕は湖で、水面に映る伽耶子の姿を見てしまった。
──ほんの一瞬だったのに──すぐに目をそらしたのに──
そこにあったのは、目の前でもみ合っている伽耶子とは似ても似つかない姿だった。
──見たくなんか、なかったのに──
でも僕は見てしまったのだ。伽耶子の本当の姿を。僕の胸にあの神話の、忘れていた部分がくっきりと蘇った。
伽耶子は本当は、最初から湖に映ったあの伽耶子だったのだ。ただ僕が気づかずにいただけだ。丁度あの、黄泉の国で妻と再会したときの男のように。
態度を豹変させた僕を、伽耶子はどう受け止めているのだろう。ぼくにはそのことも恐ろしかった。でも僕には、それを確かめることはできなかった。
伽耶子が無口なのをいいことに、僕もまた口を閉ざし、顔を背けて旅を続けた。逃げ出すことは考えなかった。否、考えないようにしていた。伽耶子を川の向こうへ送り出す……そのことだけを、僕は必死に考えていた。伽耶子を気遣う余裕など到底なかった。どうせ腐った死人じゃないか、脳味噌だって腐ってるんだ、感情なんてある訳ない──そんな風に考えては、つい先日までの伽耶子の様子や自分の気持ちが思い出され、また泣けてくるのだった。
伽耶子はそんな僕の思いをよそにどんどん腐っていった。白い肌が赤黒く変色し、やがて融ける。気づいたときには一言も口を利かなくなっていた。
足取りもゆっくりと頼りなくなっていた。伽耶子がちゃんと後ろをついて来ているか、見たくないのに僕は何度も振り返って確かめなければならなかった。
伽耶子の落ち窪んだ眼窩からずるりと落ちるものを見てしまったとき、僕は思わず両手で口を覆った。だが大きく叫ぶように開いた口からは、声は出てこなかった。穴の開いた袋のように、息だけが漏れた。よくホラー映画で人が絶叫しているけどあれはウソだ。恐ろしすぎると声も出ない。
もう耐えられなかった。僕は駆けだした。
遠くへ、ほんの少しでも遠くへ。伽耶子から。僕はただ、伽耶子から離れたかった。
ただ闇雲に走った。伽耶子は追いかけてきたりはしないのに。なぜか涙がボロボロ溢れて、前がよく見えなかった。最後には足がもつれ、つんのめった。
河原には柔らかな草が茂っていて、僕を受け止めてくれた。青臭い空気を痛む肺にせわしなく吸い込んでは吐き出しながら、僕はいつまでも倒れたままでいた。
僕はすでに昔読んだ絵本の内容を思い出していた。初めのうちは忘れていた、でもどこかにひっかかっていたあの部分だ。
あの神話──黄泉の国へ妻を迎えに行った男は、妻の腐った姿を見て逃げ出すのだ。
僕はあの話を読んだとき、子供心に男はひどい、と思った。恋いこがれ、黄泉の国にまで迎えに行くほど愛していたんじゃないか。たとえ姿は恐ろしく変わってしまったとしても、男の気持ちが本当なら、逃げ出したりする筈がない。見た目が変わっただけで気持ちも変わるなんて、男の愛は本物じゃなかったんだと──。
「……っ」
僕はしゃくり上げた。鼻の奥がつんと痛くなり、再び涙が込み上げてきた。
あの男は僕だ。幼い僕が軽蔑し、怒りを覚えたあの男は、そのまま今の僕自身だった。
どうしてこんなことになってしまったんだろう。僕はどうして、ここへ来たのか。どうしてこんな……悲しくやりきれない、惨めな思いをするためか……。
滲んで夢のように眼前に広がった、黄色い花を思い出していた。
僕を手招くように揺れた山吹の花。あのとき伽耶子を思い浮かべたのはなぜなんだろう。もう僕は、彼女のことは忘れて思い出しもしていなかったのに。
伽耶子が僕を呼んだのか……。
そう思ったとき、怒りと痛みが僕の胸を刺した。
なぜ、僕なんだ……。
そう思った。僕と伽耶子の繋がりは、四年生のときに同じクラスだったということくらいしかない。呼ぶなら伽耶子の父親か母親か、そうでなくてももっと親しく交わった友人を呼べばいいじゃないか……。
だけどそんな気持ちもごまかしだ。内心では気づいていた。
僕は嬉しかったのだ。
伽耶子に再び会え、伽耶子と一緒に旅をすることが。伽耶子は僕の初恋だった。
伽耶子に竣介くんを待ってた、と言われ、晴れがましく誇らしかったあのときの気持ち。一緒に帰ろうと誓った。僕は本気だった。どこまでも伽耶子を守って一緒にいけると思った。それが──。
伽耶子が、僕の思っていた伽耶子じゃなかったというだけで──。
自分の身勝手さに反吐が出そうだった。だけどどうしようもない。僕にはわかったのだ。
人は弱い。すぐに惑い、あっけなく心も変わる。頼りなく、信じるに足らぬ存在。僕もまた、愚かで卑小な人間だった。
亡者の列が僕の脇を通り過ぎた。草むらに伏した僕など目に入っていないようだ。
僕も何の感慨もなく彼らを見送った。僕はもう彼らには慣れていて、特別な感情を持たなくなっていた。
いっそ伽耶子に対しても、同じ気持ちになれればいいのに……。
そう思った。
預かり物の荷物のように、何の思いもなくただ伽耶子を引きずって渡し場まで連れて行き、船頭に託せたらどんなにラクだろう。
僕は起きあがり、見るともなく彼らの去った方向に目を向けた。彼らは陽炎のように揺らめきながら、草影の向こうに消えようとしていた。
ただあてどなく歩き続ける屍体。彼らはどこへ行こうとしているのか……どこか、目指す場所があるのだろうか……。
僕はぼんやりと、それぞれの亡者の列がこの国のどこかで出会い、やがてひとつの大きな流れとなって、何処かへとゆっくり去っていく様を思い浮かべていた。
彼らはいつも数体で歩いていたけれど、彼ら自身の考えでそうしているとは到底思えなかった。はっきりとはしないけれど、僕はそこに何か大きな、それぞれのものではない「意志」のようなものを感じていたのだ。
「……っ!」
唐突にひとつの考えが僕の脳天を打った。
──伽耶子! 伽耶子が亡者の列について行ってしまう……!
僕は慌てて立ち上がり、再び元来た方向へと駆けだした。なぜそんなことをするのか、自分でもわからなかった。
伽耶子があの列に加わって何処かへ消えるなら、そのほうが僕には都合がいいはずだ。伽耶子にだって、そのほうがきっといい……僕に疎まれ、恐れられながら一緒に旅をするよりは──。
それでも僕は、伽耶子の姿を求めて走った。
僕が伽耶子を置き去りにした辺りを少し探すと、伽耶子は簡単に見つかった。少し離れたところに所在なげに立っていた。
「……伽耶子」
荒い息をつぎながら声をかけると、伽耶子はぼんやりと僕のほうに顔を向けた。
「ごめんな、伽耶子……いきなり走り出したりして……」
なぜか切なく、悲しくなった。僕は手を差し出した。
「……行こう……」