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02


 山を下り、町へと入ったとき、僕は呆然となった。

 どこかに予感はあった。だが……。

 山中で伽耶子と会ったときの不安、一旦は小さく固まったそれが一気に膨れ上がり爆発し、胸を真っ黒に染めた。

 町の様子が一変している。山の麓に拡がるそれは、僕の知っている古神の町ではなかった。

 舗装されていない、先刻の林道のような、人々が往来することで踏み固められた「道」。人影はなく、民家も僕が見知っているものよりも明らかに古い。それはまるで祖母のアルバムの、セピア色に変色した写真の中の風景のように見えた。

 僕はとうとう、堪えきれずに吐き出した。

「木村……、おまえ、知ってるんだろ……?」

 伽耶子は顔を背けていた。だが僕はかまわず続けた。

「ここ、古神じゃないよな……? どこなんだ? ここ……」

「……ここはどこでもないところ……」

 消え入りそうな声で、ようやく伽耶子が答えた。

「だから言ったじゃん……私……竣介くん、どうしてここへ来たの?って……」

 一瞬頭に血が上った。伽耶子を睨めつけた僕の目は多分つり上がっていただろう。僕を見た伽耶子は明らかに怯えていた。

 僕は怒鳴る代わりに大きく息を吐いた。

「そうじゃなくて」

 極力平静に話そうと努めたが、どうにも声が裏返る。人間はこんなにも簡単に、自分を制御できなくなるものなのだな、と他人事のように思った。

「ここがどこか、聞いたんだよ。答えろよ。木村はここにずっといるんだろ?」

 伽耶子は黙りこくったままだ。僕は切れて手を上げそうになるのを必死に堪えた。

「あ」

 唐突に小さな声を上げると、伽耶子は僕の手を引っ張った。

「!」

 思わず手を引っ込めようとしたが、伽耶子は力一杯僕の手を握って、物陰へと引っ張り込んだ。

「なにす──」

 シッ……と、伽耶子が自分の唇に当てて指を立てた。

 伽耶子の目線の先を追う。僕は思わず悲鳴を上げそうになり、慌てて自分の口を自由なもう一方の手で覆った。

 向こうからゆらゆらと歩いてくるそれの、朽ちかけた骸以外の何者でもないその姿に、恐怖と吐き気が喉元までせり上がってくる。伽耶子が手を放した。僕はそれから目を背け、両手で口を押さえると背中を丸めた。

「……もう行っちゃったよ……」

「…………」

 僕は伽耶子を見た。さっきまで居丈高に怒っていたのが、女の子、それも好きな子の前で怯えきった姿を見られては立つ瀬もなかった。

 ……それにしても……どうして伽耶子はあれを見て、こんなに冷静でいられるんだろう……。

「何だよあれ……木村はどうして平気なんだ……」

 伽耶子は黙っていたが、しばらくして口を開いた。

「竣介くんには、あれはどう見えたの?」

「どうって……」

 僕も答えに詰まった。実際に見たものがとうてい信じられない。だが僕は確かに見た。「現実」にはあり得ないものを。

「死体だろ、あれ……。なんなんだ、ここ……なんでこんなとこに……」

「じゃあ私は……竣介くんには、どう見えてるの……?」

 伽耶子の言葉に僕は面食らった。質問の意図がわからないかった。

「木村は木村だよ。昔っから変わってない。すぐにわかったって言っただろ?」

 そう答えてから気づいたことがあり、慌てて付け足した。

「木村にはオレはどう見えてんだ? まさか、さっきのみたいってことないよな……?」

「……だって、竣介くんは生きてるじゃん……」

 言いにくそうに答えた伽耶子の言葉に僕は確信した。

 やはりここは、死者の国なのだ……。

 そして同時に、どうやら自分がまだ「生きてる」らしいことに安堵もしたのだった。

 きっと伽耶子も、なんらかの理由でここに迷い込んでしまったのだろう。こんなところに長い間ひとりでいたなんて、どんなに怖く寂しかったことだろう。ふたりで帰ろう、と、僕は先刻の怒りも忘れ、強く思った。

「さっきのアレだけど……」

 と、物陰に座ったまま伽耶子に話しかけた。

「まさか、襲ってきたりとか……」

「そんなことはしないよ」

 伽耶子が答えた。

「ああやって歩いてるだけ……死んだばっかりだと、話しかけてきたりすることもあるの」

「……ぞっとしないな。話しかけるって、『ボク死んじゃいましたよ、あなたもですね?』とか?」

「…………」

 伽耶子は僕の寒い冗談には答えてくれなかった。

 やたらに恥ずかしくなり、僕も黙った。


 町はオレンジ色に染まっている。空はまだ青かったが、もうじきに茜色に変わるだろう。そして──気づいて不安になり、僕は再び口を開いた。

「なあ……ここ、夜とかどうしてんの? 木村の家とかあるの?」

「私の家じゃないけど……」

 今度は答えてくれた。伽耶子は立ち上がり表に回ると僕を手招きし、玄関の引き戸を開けた。

 中は土間になっていた。祖母の家もたいがい古いと思っていたが、農家以外で土間がある家なんて初めて見た。

「おい」

「空き屋なんだよ、ここの家はみんな、基本的に。空いてる家は自由に使っていいの」

 そう言うと、伽耶子はそこが自分の家であるかのような自然さで上がり込み、奥から声をかけてきた。

「食べ物もあるよ。お腹空いてる?」

「……あ、いや」

 僕は慌てて否定した。実際身に起こったことで頭がいっぱいで空腹は感じてなかったし、それに……。

 どこかで心に引っかかっていた。多分幼い頃に読んだ絵本だ。

 祖母がくれた本だった。日本の神話をわかりやすく子供向けに書いたもので、その中に黄泉の国へ妻を探しに行く男の話があった。男は確か、「黄泉の国の食べ物を食べたから私は戻れない」と妻に言われるのではなかったか……。

 そこまで思い出し、僕は考え込んだ。もうひとつ、何かあった気がする。あの話の中には、思い出しておかねばならない何か、大事なことが──。

「でもちょっとびっくりした」

 伽耶子の声に、僕は我に返った。

「竣介くん……もっと驚くかと思ってたから……あんまり怖がらなかったよね、あの人たちのこと」

 やっぱり男だからかなあ、というのを、僕は気恥ずかしく聞いていた。本当にあまり怖がってないように見えたのだろうか。僕は腰を抜かしそうだったのに。

「……うち、お祖母ちゃんがちょっと変わってるからかな」

 そう言うと、伽耶子がぽつんと応えた。

「拝み屋さんだっけ……」

「もう廃業したけどね」

 僕はそっけなく言った。言ってから、思い当たった。

 祖母が加持祈祷をやらなくなったのは伽耶子がいなくなった頃だ。既に引っ越して古神の町を離れていたけれど、しょっちゅう祖母に電話をしては伽耶子が見つかったかどうかを訊ねていたあの頃、祖母が一度、「どこにもおらんものは見つけようがない」と言ったことがあった。僕はそのとき、祖母にひどく失望したのだった。

 母は元々、祖母のしていることには批判的だった。いつも「胡散臭い」「拝んでどうにかなるなら人間は苦労しない」などと言っていた。

 僕は母と違い祖母のことは好きだったし、その生業なりわいをどうこう感じたこともなかったけど、このとき祖母の言葉を聞いて、母が正しかったのだと思った。徐々に電話をしなくなったのは、そうした失望も原因のひとつだったのだけど、今この異世界で伽耶子に再会してみると、祖母の言葉の意味がわかった気がしたのだ。

 ここは多分、あの世でもこの世でもないところなんだろう。そんなバカげたことを当たり前に考えてしまう僕は、やはり祖母の孫なんだろうとも思った。

 窓の外はまだ明るかったが、部屋の中はすっかり暗くなってきた。伽耶子がどこからかランプを持ってきて、それに灯を点した。


 明るくもなく、テレビもラジオもない夜は、もう寝るしかなかった。だが僕はなかなか寝付けなかった。当たり前だ。これから自分がどうなるのか、それを考えると叫び出しそうになる。

 また伽耶子がすぐ横にいるのも理由のひとつだった。どんな状況であれ、否、こんな状況だからこそ、かも知れない。好ましく思っている女の子と夜を共に過ごしているというのに、のんびり寝ていられる訳がなかった。

 ランプの光はひどく心許なかったが、それでも暗闇ではないというだけで僕に安心をくれた。窓も戸口もすべて鍵をかけた。壊されればひとたまりもないのだろうけど、外界と隔てられ、守られていると感じる。普段家にいても、到底持ち得ない感覚だ。それはキャンプのときの、テントの中で夜を過ごす気持ちとよく似ていた。

 僕たちは同じ部屋にそれぞれ布団を敷き、背を向け合って横になっていた。死者の国の、誰が使ったかわからない布団で寝るなんて気持ち悪い、とは思ったが、僕のやわな背中は畳の上ではとうてい我慢できなかったし、体ひとつで寝っ転がるのも無防備な感じで心細かったのだ。予想と違い、布団はよく膨らんでいて清潔な感じがした。

 僕は寝返りを打った。薄明るいランプの灯に、伽耶子の黒髪が目に入った。

「木村……」

 僕は小さな声で話しかけた。

「一緒に、帰ろうな……」

 返事はなかった。僕もそんなもの、最初から期待していない。再び寝返りを打つと、伽耶子のこれも小さな声が聞こえた。

「私……」

 僕は待った。その言葉の続きを。だがそれっきりだった。僕はいつしか眠りに落ちた。



 翌日、僕たちは川のほとりにいた。

 大きな川だ。向こう岸は見えるけれど、そこに見知った人が立っていても、きっとそれと気づかないほどの川幅があった。

 向こうの河原には草が茂っている。湿地になっているのかも知れない。春に霞んで朧に見えた。こちら側はよくある石ころだらけの河原だった。ところどころに草が生えたその河原を見下ろす土手を歩きながら、ぽつりと伽耶子が言った。

「ずっと帰りたかったけど……」

 僕は伽耶子の横顔を見た。伽耶子の表情は、長い髪に隠されていてわからなかった。

「私は今は……、この川の向こうへ行きたい……」

「向こう岸に行きたいなら、橋とか渡しとかあるだろう……?」

 僕が曖昧にそう言うと、伽耶子がこちらを見た。

「ないの。ずうっと探してるけど、橋も渡しも見たことない」

「…………」

「船は見たことあるんだけど……」

「じゃあやっぱりあるよ、少なくとも渡し場は、どこかに」

「……うん。そう思って、ずっと探してるんだけど……」

 伽耶子は少し俯いた。再び上げたその顔には、すがるような色があった。

「竣介くん、一緒に来てくれる……?」

 僕は答えに詰まった。川に隔てられた彼方と此方。簡単に頷いてはいけない気がした。

 だけど僕にもこの世界でアテがある訳じゃない。それどころか心細くてたまらない。伽耶子と離れてこの世界を、ひとりでさまようことなんて考えられないのだ。

「とりあえず、渡し場を探そう」

 僕はそう答えた。

 伽耶子はそれ以上何も言わず、僕も口を開かなかった。ただふたり、歩き続けた。どれだけ歩いた頃か、ふと対岸を見た僕の目に、黄色い塊が映った。

「──!」

 山吹だ……!

 その涼やかな黄色を目にしたとき、心にわだかまっていたものが晴れた気がした。ここが死者の国ならば、川の向こうが僕らの国、すなわち「この世」のはずだ。伽耶子が川の向こうに帰りたくなったのも、それで納得がいく。

「川の向こうに、一緒に行こう」

 僕がそう言うと、伽耶子の顔が、それこそ花のように明るくほころんだ。

「本当……?」

「うん」

 僕は伽耶子の手を握った。どうしてか、とても親密な気持ちになっていた。

「一緒に帰ろう……」

 伽耶子は答えなかった。ただ、手を握り返してきた。


 僕たちは歩きながら、あるいは土手に腰を下ろし、色んなことを話した。僕はお喋りな方ではなかったし、伽耶子も元々おとなしい子だったからあまり会話が弾む、という感じではなかったけど、それでも小学校の同じクラスにいた頃よりは何倍も話したと思う。頼れるのはお互いだけ、という状況は否応なくふたりを結びつけ、僕はいつしか、伽耶子を苗字ではなく名前で呼ぶようになっていた。

 日が暮れればそこらの家に潜り込んで眠り、目覚めては手を繋ぎ、渡し場を探して川の辺を歩く──それは悪くない旅だった。もちろん早く帰りたかったけれど、ほんの少しだけ、伽耶子とこうして歩き続けていたい気持ちもあった。


 あるとき僕たちは川を見下ろす土手に座り、ぼんやりと休息を取っていた。この世界は常に凪いでいるように穏やかだった。空は明るく風はやわらかく、まどろんでいるような静けさがあった。

「竣介くんのお母さんやお父さん、心配してるかな……」

 伽耶子がそう言うのに、僕は前を向いたまま答えた。

「さあ、どうかな」

 竣介なんて、いらない──。

 と言われたことはないが、似たようなことは言われたことがある。

 両親が喧嘩していたときだ。母が「竣介さえいなければ、あなたと一緒になんかならなかったのに」と言ったのだ。

 両親はふたりとも僕には優しかった。このときふたりは、家に僕もいることに気づいてなかったのだ。だからきっと、母は本気だったと思う。少なくとも半分は。

 残りの半分は……喧嘩でつい出た言葉だったのかも知れない。でも僕は普通に母のことも父のことも嫌いじゃなかったから、この言葉はショックだった。それまでの可愛がられた記憶があったから、愛されていない──とまでは思わなかったけど、僕はそれ以来、両親に自然に接することができなくなってしまった。

 少しは心配すればいい……。

 僕は意地悪な気持ちで子供っぽくそう思った。

「伽耶子のお母さんは心配してたよ」

 と、僕は言葉を継いだ。

「お祖母ちゃんとこにも来てた」

 伽耶子のひどく悲しげな表情を見て、僕は後悔した。

 つまらないことを言うんじゃなかった……伽耶子はもうずっと、ひとりでここにいたのに……。

「……いなくなってから心配したって遅いよね」

 ぽつん、と伽耶子がつぶやいた。伽耶子の言葉に、僕は彼女もまた、「いらない子」と言われたことがあるのだろうかと思った。

「一緒にいるとさ、どんだけ大事かわかんないんだよ。自分がすっきりしたくてひどいことも言っちゃうんだ。でもきっと、本気じゃないよ」

 僕はつい先刻、自分自身もいじけていたくせにわかった風なことを言った。きれい事を言うな、と言われるかとも思ったが、伽耶子に何か言葉をかけてやりたかったのだ。

 伽耶子はうつむき、

「そうかな……」と小さく応えた。

「お母さんやお父さんに、また会えるのかな……」

「会えるよ、きっと」

 僕は答えた。そう信じなければ、きっとこの世界で狂ってしまう……。

 ふと河原に目をやると、ゆらゆらと亡者が歩いているのが見えた。

「あの連中、なんであんな姿でここらをうろうろしてるんだろうな」

 僕は訊ねるともなく伽耶子にそう言ってみた。伽耶子は少し考え込んでいる風だったが、やがて答えた。

「きっとあの人たちにも、もうわからないんだよ……どうして、自分たちがああしているのか……」

 言葉の最後は小さく消えた。まだ何か、続きがあるのかと僕は待った。

「私も、ずっと待ってたけど……」

 伽耶子が言葉を継いだ。

「あんまり長い間待ってると、何を待ってるのか、誰を待ってるのかもわかんなくなっちゃうんだよね」

「…………」

「ただ待ってるだけ……理由も覚えてないのに……」

「もう、忘れちゃったんだ……?」

 僕が笑ってそう訊ねると、伽耶子も笑顔を見せて、

「でも思い出したの。竣介くんと会って」と言った。

「私、お祖母ちゃんが迎えに来てくれるんじゃないかなと思ってたの。お祖母ちゃんも、ずっと帰りたがってたから」

「帰りたがってた、って、どこへ……?」

 竣介くんを待ってた……なんてやっぱり言う訳ないか、と少しがっかりしながら、僕はそんな内心はおくびにも出さずに再び訊ねた。

「海の向こう……。お祖母ちゃん、海の向こうから来たの」

 伽耶子の口調はあっさりとしたものだった。伽耶子の名前の由来を知っていたから、僕にも特に驚きはなかった。

 子供の頃にはわからなくても、今ならわかることもある。伽耶子のお祖母さんにとって、日本という国は決して生きやすい場所ではなかっただろう。伽耶子にもそのお祖母さんの血が流れている。それは伽耶子が、いつもひとりでいたことと無関係ではないはずだ──。

「お祖母ちゃんもきっとずっと待ってたと思う……誰か、海の向こうへ連れて帰ってくれる人を……」

 ぼんやりと考えに耽っていた僕を、伽耶子の声が呼び戻した。

「伽耶子が待ってたのも、『川の向こうへ連れて行ってくれる人』だったんだ……」

 努めて明るく言ってみたけど、

「だって……ひとりで行くのは怖いもの……」

 と答えた伽耶子は、うつむいたままで土手に生えている雑草を心許なくむしっているだけだった。僕はそれを聞き、またその様子を見て、伽耶子がいなくなったとき、まだ十歳の子供だったことを改めて思った。

 伽耶子が顔を上げた。とても綺麗な、散る花のような笑顔だった。

「そしたら竣介くんが来てくれた。一緒に行こうって言ってくれた……だからわかったの。私が待ってたのは、本当は竣介くんだったんだって──」

「え……」

 頬が熱くなり、顔が赤らむのが自分でわかった。伽耶子と目を合わせていられず、僕は顔を伏せた。

「私……嬉しかった。本当に……」

 伽耶子の声は本当に嬉しそうだったけれど、最後はなぜだかかすれていた。こっそりと盗み見ると、伽耶子も再び顔を伏せていた。

「伽耶子」

 啜り上げるように、伽耶子が小さく嗚咽を漏らした。

「泣くなよ……もう、ひとりじゃないんだからさ」

 そう言うのが精一杯だった。伽耶子は、

「うん……ごめんね……」と応えたが、顔を伏せたままだった。小さな肩が震えている。僕はかける言葉を失い、所在なく辺りを見渡した。

 土手には色んな花が咲いていた。雑草の類の、名前も知らないどうということもない花だ。

 僕は立ち上がりそれらを摘むと花束のようにして、俯いた伽耶子の視線の落ちた先に差し出した。

「これ上げるから……元気だしなよ……」

 伽耶子が顔を上げた。そして僕を見、笑った。それは不思議な笑顔だった。ちょっと呆れたような、でも含みのない、晴れやかな──。

 目の縁はまだ赤みが残っていたけれど、伽耶子は明るい声で、

「ありがとう」と応え、その花で器用に小さな腕輪を作り、

「お返し」と言って僕にくれた。

 伽耶子のそんな茶目っ気を見たことがなかったから、僕もなんとはなしに嬉しくなり、また立って花を摘んだ。伽耶子も立ち上がった。僕たちはふたりで歩きながら花を摘み、立ち止まっては花を編みながら、川縁の土手を下った。

 川には船があった。何度かすでに見かけたことのある、客を乗せ、ゆっくりと向こう岸へと渡る船。それは小さく霞み、白く光っていた。


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