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あらすじでご案内した通り、昨年投稿しました「山吹の門」の改稿です。

当時は当方の準備不足により、我ながら不満の残る出来となり、もう少し書き直してみたい、という気持ちがありました。

多数のご意見ご感想、アドバイスをいただき、私なりに書き直してみました。

旧作を読んで下さった皆様、その節はどうもありがとうございました。

本編にもお気軽に感想などお聞かせいただけると嬉しいです。よろしくお願いいたします。



 その日は朝から晴れていた。始業式の三日前。

 中学二年の春休みが終わろうとしていた。


 春休みの間中、僕は祖母の家にいた。三学期の終業式を終えると着替えもそこそこに、僕はひとりでここに来た。

「ごめんね竣介、お母さん、会社休めないから……」

 朝、気忙しい朝食の席で、母は申し訳なさそうにそう言った。

「いいよ、別に。平気だから」

 トーストをコーヒーで喉に流し込みながら、そっけなく僕は答えた。実際、母親がいなければ何もできない歳でもなかった。

 体は少し細めだけれど、運動部に所属していないわりにはしっかりしているほうだと思う。母と並べばすでに僕のほうが背も高く、もう子供には見えなかったはずだ。

 特急と私鉄を乗り継いで三時間ほど行くと、古神こがみという駅に着く。駅を中心に古い町があり、その周辺には田圃が拡がる、多分典型的な日本の一市町村だ。祖母はこの町の外れで独りで暮らしていた。

 街並みは低く空は高く、自宅近くのような便利さはないけれどのんびりできる。もともと僕は、今住んでいるような騒々しい都会より田舎のほうが好きだった。この町には小学校の四年生までいたから馴染みもあるし知り合いもいて、特に生活に不便はなかったし、疎外感もなかった。むしろ自宅より居心地がよかったくらいだ。僕はいわゆる鍵っ子で、この町にいた頃は、放課後を自宅よりも祖母の家で過ごすことのほうが多かった。祖母の家は平屋のボロ屋だったが僕は好きだったし、祖母のことも好きだった。


 明日には母が僕を迎えに来る……それを思うと、僕の心は沈んだ。

 べつに迎えに来てもらわなくたって、帰宅くらいひとりでできる。だけど母には、祖母に報告しなければならないことがあるはずだった。

 祖母は出かけており、僕も気分転換に外に出た。祖母が飼っている黒猫が靴箱の上に寝そべっている。それは物憂げに頭だけ上げて僕を見送った。

 祖母の家の庭からはとある里山が見える。僕はふと、その山に登ってみよう、と思った。

 辺りでは「御座みくら山」と呼ばれているその山には、何度か祖母と登ったことがある。僕がこの町に住んでいた頃、祖母の家の風呂は五右衛門風呂だった。それで何度か、焚き付けの小枝を拾うのについて行ったのだ。

 子供だったからどれだけものの役にたったかはわからない。僕にとっては遊びだった。御座山の頂上は木を払ってあり見晴らしがよく、彼方には海が白く光っていた。

 山頂の中心には小さな祠があった。その傍らには一等三角点の古い石柱もあり、ふたりでここで、遠く拡がる田圃や低い街並み、そして海と空を見ながらお握りを食べた。

 しまった、おにぎりを作ってくればよかった……。

 僕は少しばかり後悔した。本当に手ぶらで出て来てしまったから、自販機の缶コーヒーすら買えなかった。だがもともと今回のハイキングはただの思いつきだ。山頂でのんびり一休みしても、祖母の家に戻るのに一時間もかからない。

 その頃には祖母ももう帰っているだろう。祖母におにぎりを握って貰おう。山の話をしながら、祖母とふたりで食べるのも悪くない。明日はもう、帰らなくちゃいけないんだから──。

「…………」

 嫌なことを思い出してしまった。せっかく楽しくなっていたのに。

 僕は振り切るように腕を大きく振り、明るい往来をずんずんと歩いた。


 町中の明るさに比べ、登山道はひんやりと薄暗かった。

 この頃は登る人も少ないのだろう、記憶に残るそれより随分荒れている気がした。雑木が生い茂り、陽の光を遮っている。それでも歩いていると、じんわりと汗が出てきた。僕は着ていた薄手のジャケットを脱ぎ腰に縛りつけ、長袖のTシャツの袖をまくり上げて額の汗を拭った。

 ふと目の端に明るいものを捉え、僕はその方向を見た。

 黄色い花。たくさんの黄色い小さな花が涼しげに揺れている。薄暗い雑木林の中で、そこだけが明るく光る波のように見えた。

 僕はまくった袖を下ろすと登山道を外れ、藪を漕ぎながらその花へと近づいた。

「…………」

 それぞれの薄い花びらが木漏れ日を集め、透き通るように輝いている。僕はその花を知っていた。

 山吹だ。一重の山吹。

 子供の頃、祖母に教わったのだ。昔の子供はこの木の芯を抜いて、鉄砲玉にして遊んだということだった。

 ──地味な遊びだな。それの何が面白いんだろう──

 僕は多分当時と同じことをまた思った。それよりも花の美しさに心がいった。それは当時とは違ったことだ。幼い頃には山吹の花の美しさなんてわからなかった。

 控えめだけど品のよい、艶やかな花。僕はふと、四年生のときに同じクラスだった女の子を思い出した。

 たいそう綺麗な子だった。名前は木村伽耶子きむらかやこといった。切れ長の瞳に小さな口、艶やかな前髪を眉の下辺りで切りそろえたおかっぱがとてもよく似合っていた。丁度肩にかかるくらいの長さの髪が、伽耶子のちょっとした仕草や動きに合わせてさらさらと揺れるのを、僕はいつもこっそり見ていた。

 そうだ。僕は伽耶子が好きだった。

 伽耶子はおとなしい、無口な女の子だった。クラスからは浮いていたと思う。伽耶子が友達と楽しそうにしているのを、僕は見たことがなかった。僕もまた友達のいない子供だったから、伽耶子のことが余計に気になったのかも知れない。僕たちはぽつぽつと言葉を交わすこともあった。

 伽耶子が突然いなくなったのは、僕の家が引っ越す直前だ。

 学校から一旦帰り、その後出かけてそのまま戻らなかった。田舎町は大騒ぎになり、警察はもとより、大人たちで捜索隊なども作ったはずだ。それでも伽耶子は帰らなかった。

 なぜ今、伽耶子を思い出したのだろう。山吹の花が誘うように風に揺れていた。

 山吹の木の根本にはちょっとした空間があり、僕はそこにしゃがみ込んだ。感傷が鼻の奥を突き上げてきて、僕は涙ぐんでいた。

 ほのかに甘い匂いがした。多分、この花のものだろう。

 僕はそのまま花を見上げた。目の上にある緑と黄色。それは陽の光を透かして瑞々しく、また涙ににじんで夢のように美しかった。僕はふとこの花に染まりたくなり、身を預けるように一面の枝垂れた花木に凭れかかった。

 そのとき。

「うわあ……っ」

 登山道側からはわからなかったが、向こう側はかなりきつい傾斜になっていた。山吹は僕を支えてくれず、僕は立木に引っかかりながらも、数メートルも転がり落ちたと思う。急に視界が開けた。

「……っつう……」

 落ちたのは河原だった。僕は呻きながら体を丸め、しばらく蹲っていた。服は泥だらけだったが、打ち身と擦り傷の他にたいした怪我はなかった。

 ようやく起きあがり顔を上げると、目の前に女の子の姿があった。

「…………」

「…………」

 僕たちは茫然と見つめあった。

 同い年くらいだろうか、小柄で色白の、ほっそりした綺麗な女の子だった。春らしい白っぽいワンピースに、生成のニットのカーディガンを羽織っている。胸の辺りでさらさらと揺れる素直な髪、長い睫。漆黒の切れ長の瞳が吸い込まれそうに美しかった。

「だ……大丈夫……?」

 小さな、形のよいピンクの唇が動いた。

「ああ、……うん」

 もごもごと答えると、僕は思わず俯いた。先の醜態を見られたかと思うと顔から火が出た。

「もしかして……竣介くん……?」

 僕は思わず顔を上げた。

 まさか……でも、やっぱり……やっぱり──。

「木村……?」

 女の子が微笑んだ。その笑みは先刻見た、山吹の花のように清楚で美しかった。

「やっぱり竣介くんなんだ──どうしたの? なんでこんなところに来たの?」

 その女の子──伽耶子が僕を、苗字ではなく名前で呼ぶのも以前の通りだ。僕の苗字は久下くげという、この町ではありふれたものだった。当時クラスにも久下姓の男子が僕を含めて三人もいて、区別のためにもっぱら渾名や下の名前で呼ばれていたのだ。

「ああ、うん」

 頬が熱い。僕は赤らんだ頬を見られまいと、慌てて背後へと身を捩った。

「山吹を見てたら滑っちゃってさ──」

 語尾が頼りなく小さくなった。目線の先にあったのは林道だ。山でよく見る川沿いの、一段高くなったところに造られた林道。下から見上げても古い道だとわかる。だが僕は、御座山の登山道の近くにこんな道があるなんて知らなかった。先刻、山吹の前に立ったとき、なぜ真下のこの道に気づかなかったのだろう。川が流れていると知ったのも初めてだった。

 ちりちりと不安が背骨を這い登り、心臓を掴んだ。動悸が速くなり、息が苦しくなる。

 何か、おかしくないか……? 林道のことは気づかなかったとして──この川はどこへ──御座山の麓に、川なんてあっただろうか……? それに──。

 唐突に僕は気づいた。何十メートルも転げ落ちた訳じゃない。高さは多分、せいぜいあの林道からこの河原までくらいのものだ。それなのにあの山吹の黄色は、もうどこにも見えなかった。

「竣介くん……? ねえ……?」

 伽耶子の不安げな声に、僕は我に返った。

「ああ……」

 と、出てきたのは意味のない生返事だ。

「いや、……ごめん。ちょっと、頭が……」

 僕はしゃがみ込み額を手で覆った。伽耶子の心配そうな声に何か答えなければと思ったが、とてもそんな余裕がなかった。

「ちょっと考えさせて……ごめん……」

 僕がそう言うと、伽耶子もそれきり口をつぐんだ。だが傍らに気配がある。きっと僕が口を開くのを、辛抱強く待ってくれているのだろう。僕は懸命に納得のいく答えを探した。だがいくら考えてみても、不安がますます黒々と胸を塗りつぶしていくだけだった。

 ここ、どこなんだ……?

 伽耶子にそう訊ねたかったが、できなかった。何か恐ろしい答えが返ってきそうで……。

「竣介くん……」

 伽耶子がとうとう遠慮がちに口を開いた。

「あの……、山、そろそろ降りたほうがよくないかな……」

「ああ……うん、そうだな……」

 僕は顔を上げた。気づけばもう日も傾き始めている。日が翳り始めた山道は僕も歩きたくなかった。

「どっからか上の道に上がれるのかな」

「あそこ」

 と、伽耶子が指を指した。

「あの辺に上にあがる道があるよ」

 僕たちは歩き出した。それはちゃんとした「道」ではなく、単にそこを通る人が踏み固めただけのものだったが、それで僕たちは上の林道に出ることができた。

 その林道をふたりで並んで下った。黙っているのも気詰まりで、ぼくはさり気なさを装って話しかけた。

「でもよかった……帰ってたんだ。木村、四年のときに一回いなくなっちゃっただろ。これでけっこう、心配してたんだ……。お祖母ちゃんちに毎日電話して、木村が帰ってきたか聞いたりしてさ……」

 思いがけない再会に昂揚していたせいか、普段の僕なら決して言わないような言葉が出た。でもそれは本心で事実だった。あのとき僕は、後ろ髪を引かれる思いでこの町を出たのだ。

 伽耶子はしばらく黙っていた。それから僕の言葉には答えずに言った。

「私もびっくりした……竣介くんがここにいるとは思わなかったから……」

「今、春休みだろ? お祖母ちゃんとこにいるんだ。……明日はもう、帰らなきゃなんだけど」

「そっか……。遊びに来たの? 古神にまた帰ってきた訳じゃないんだ……」

「……うんまあ……、そういうとこ……」

 なんだか奥歯に物が挟まったような口ぶりになってしまった。伽耶子はそれ以上何も聞いてこず、僕は内心ほっとした。

 再び沈黙が僕たちを包んだ。しばらくして、今度は伽耶子が話しかけてきた。

「でも竣介くん、よく私のことわかったね。名前も……もう忘れてるかと思った」

「木村だってオレのことすぐわかったじゃん」

 伽耶子はちょっと目を反らした。心なしか頬が染まって見える。その顔がたまらなくかわいらしくて、僕の頬も熱くなった。

「下の名前も覚えてるよ。カヤコ、だろ?」

「……私だって、竣介くんの苗字も覚えてるよ」

「そりゃオレの苗字なんて、覚えてなくたってこの辺で一番多い苗字言えば当たるって」

 あはは、とふたりで笑った。何年かぶりで会ったのに、ずっと一緒だったような気がした。

 僕が伽耶子の名前を覚えていたのは彼女が好きだったから、ということもあるけれど、その名前の由来が印象的だったからだ。

 同じクラスだった四年のとき、「自分の名前の由来を調べる」という、よくある宿題が出た。その発表に伽耶子が当てられたのだ。当時の担任は若い女の先生だった。なぜおとなしい伽耶子を指名したのか──クラスに溶け込ませようとか、もっとはきはきさせようとか、そんなことを考えていたのかも知れないが──僕は少し腹立たしく思ったりしたのだった。

 案の定伽耶子は答えられず、教室で白々とした視線を浴びた。

「自分の名前の由来とかさ、知らなくたって全然困らないよな」

 放課後、掃除当番でゴミを捨てにきた伽耶子に、僕は焼却炉の前で話しかけた。

 伽耶子はちらっと僕を見、ほんの少しの逡巡の後に小さな声で言った。

「誰にも内緒にしてくれる……?」

「……? うん」

 僕がそう答えると、伽耶子は僕を見ず、

「カヤグムって楽器があるの。私の名前はそれからとったんだよ」と続けた。

 それからゴミ箱の底をぱんぱん!と叩き、中のものをすべて焼却炉に捨てると教室へと戻って行った。

 僕はその足で図書室に向かった。分厚い百科事典を引き、それが海を隔てた古い国の琴の名であることを知った。

 伽耶子──彼女自身が持つ儚げな花のような雰囲気と相まって、その名前は僕の心に深く刻み込まれた。

 僕たちはうち解け、たわいない会話に笑いながら並んで山を下った。

 伽耶子が無事でこの町にいた。そして今ふたりで歩いている。僕は先刻の不安も忘れ、幸せな気持ちに包まれていた。


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