700億秒
2040年1月1日午前7時。窓ガラスにうつる旭日が司波の端正な顔を照らした。今年36歳である。
三千二百二十億ドル。日本円にしておよそ三十四兆四千百億円がこの男、司波天の総資産である。司波率いるシバ・ワールドテクノロジズ(SWT)は宇宙航空機において全世界No.1のシェア率を誇る。いまや乗用ロケットといえば、SIBA。SIBA。SIBAである。田舎の大学生から主婦、また国のお偉いさん方までが、シバ製の乗用ロケットに乗って大空を飛んでいる。たまに月や火星などの大気圏外に行くこともある。シバの存在しない世界などもはや想像することができない。
2020年頃から、それまでに比べて宇宙産業は民間に深く定着するようになった。2019年に堀田貴明という男が民間単独で初めてロケットの打ち上げに成功したのである。それからというもの、当時ユニコーンと言われていたベンチャー企業がこぞって立ち上がり宇宙開発に注力した。ユニコーンとは、創業して10年以内の未上場企業のうち企業価値評価額が十億ドル以上のものである。当時は、その希少性の高さから、伝説上の動物にあやかってユニコーンと呼んでいた。その中の多くが宇宙産業であった。技術力の高く優秀なエンジニアが民間の中で最大のパフォーマンスを引き出せるのが、国に干渉されないスタートアップベンチャーであったというわけだ。そうして、そのユニコーン達の企業努力によって、それまで夢のように思われていた宇宙への旅は、民衆が思っていたよりもずっと早く、現実的な形で提供されるようになった。実際は、法整備が整うまで少し時間がかかったが。
そのなかで、競合他社を全て押しのけダントツで頂点に上り詰めたのがシバ・ワールドテクノロジズである。
司波はいわゆる天才であった。司波は全世界、全人類、全ての歴史のなかで、おそらく特異な思考を持っていた。当時、ロケットといえば液体水素を用いた燃料と酸化剤であった。古典なイメージのロケット。というのが一番わかりやすいだろう。先が尖った円柱上のものに人が乗り、火を噴いて飛ぶ。ところがこの男は、量子真空プラズマ推進という、全く新しい推進方法を確立させてしまった。単独でである。司波は生涯「私は全てに等しい。故に私のことを理解できる者はいない。」という、独特の諦観を持っているが、この感覚は、この男がいかに孤独で、常人とはかけ離れたところに住んでいるかということを表しているだろう。本来、量子真空プラズマ推進法はイギリスの航空宇宙技術者のロジー・ショウマンが発表した理論であったが、当時はまだ原理が全く解明されておらず、その界隈では、実現することは不可能であるだとかいう否定的な意見が多数を占めていた。それ故に、2020年にインターネットサイト上の論文投稿フォームに投稿された、量子真空プラズマ推進法の原理と実用化の手法が記された司波の論文は瞬く間に世界中の学者の目に留まった。それはまるで、かのアルバート・アインシュタインが一般相対性理論の論文に魅せた学問に対する哲学のようであり、宇宙人が地球に落とした文書のようであり、聖書のようでもあった。そして、一切の矛盾は見つからなかった。それどころか、その論文ではタイムマシンの存在やテレポートの仕組みまで細々と解説されているではないか。いやそれどころか、この投稿主は世界的な学者でも、大学の研究所でもなく、たった16歳の無名の少年であるではないか。
私、小井手隆は、思えばその時からこの人物を取材し続けている。ただ単に好奇心で集ったメディアとは違って、私とて普通の人生を送ってきたわけではない。一応帝都大学だって出ている。私はこの少年にこそ、この人物にこそ、なし得ない偉業があると最初に立ち会った時に感じた。今では公認で専属の記者を務めさせてもらっているし、とても仲が良い。
現在、弱冠36歳にして、世界番付1位を獲得し、人類史上最高の頭脳と謳われたこの男は、一体どのような考えを持ち、どれだけの波乱な人生を送ってきたのだろうか。ーー
「やっぱり照れるなァ。このナレーション」
「そうですか?」
「特にこの、人類最高の頭脳ってとこ。そんなこと言われたことないよ。」
「みんな言ってますよ。司波さんは人類最高の頭脳だって。僕も思いますもん。司波さんが世間に興味なさすぎなんですよ。」
「そう。」
そう、実はいま司波天のドキュメンタリー映像を撮っているところである。この男は、世界一自分に自信を持っているくせに、いざ人に自分の気持ちを伝えるとなると謙遜し始めるのである。しかしまあそういうところも、司波夫人や私を惹き付ける要因なのかもしれない。
「じゃあ次は学生時代のエピソードを話してもらいますので、そっちの椅子に座っていただけますか。って、そんなにライトを見つめてなにしてるんです?」
「いまくしゃみが出そうなんだ。まぶしいものを見ると鼻も刺激されてくしゃみが出やすくなる。」
「太陽を、見ればいいんじゃないですか。」
「あ、そうか。……べくしッ!」
「ふふっ。」
「それと、その椅子には座らないよ。」
「えっ。」
「小井手さんとはもう20年来のお付き合いでしょ。だからね。もうそろそろ、この機会にでも話そうと思ってたんだ。」
「と、いいますと。」
「……成ったんだよ。」
「成った。……何に?」
私は、北海道の氷の上で産まれた。父・司波誠一は極悪非道という言葉を具現化したような男でとにかく酒癖が悪く、母を孕ませてはその度に暴力をふるい、流産をさせていた。父は土木関係の仕事をしていたが、所属していた建築事務所はいつ潰れるか分からないような状況だった。そのせいで収入が極端に低く、トタン屋根の小さなプレハブに住んでいた。その時の糟糠の妻が母・司波春実だったというわけだ。
ある氷点下の大嵐の日に、家の酒がなくなってしまった。父は怒り、母を無理やり買い出しに行かせた。その時、母は私を身篭っていた。しかし母は家の前から動くことができなかった。産気づいていた。そして苦しみ悶えながら、私を産んだ。10人堕したあとの、1人目の子供である。私が産まれた瞬間、それまで大雨が叩きつけていたのがまるで苦しさに見出す幻想だったかのように、雲がひらき光芒がきざした。天が見えた。その瞬間母は辛さからか、もしくは初めて子供を産むことのできた喜びからか、静かに泣き、そして私を天と名付けた。
それからというもの、私は過保護に、というか自信過剰に育てられた。6歳になる頃には、
「あんたには天がついてるのよ」
というのが母の口癖になっていた。この時すでに父は、社員との暴力沙汰で逮捕されており、母と私は埼玉県の川越市というところに移り住んでいる。
小学校にあがってすぐ、周りにいじめられた。というのも、私が産まれた時すでに母は40を過ぎていて、しかも物凄いストレスの中生きてきたひとだから、顔のシワがすごいのである。それだから、授業参観なんかやってしまうととても目立ってしまう。それに、貧乏だったというのもあるし、当時運動が全然できなかったというのもある。とにかくなにもいい所がなかった。それでも、母がいつも私を褒めるから、自分に自信がなくなることはなかった。だから小学校1、2年まではずっと一人で宇宙だとか植物だとかの図鑑を見ていた覚えがある。
4月、小学校3年生のクラス替えの時、ある一つの法則のようなものを見つけた。それは、地域でやっているサッカーや野球のクラブに所属していたり、あるいはただ単に足が速いやつが学校の中で一定の地位を築いているということである。
このことに気づいてから、私はとにかく走りまくった。走って、走って、走り抜いた。5月に運動会があるから、それまでに徹底してトレーニングすると決めた。まずはどうやったら足が速くなるのか知らなければならないと思い、近くの図書館に出向いて陸上競技のトム・テレツ理論やらなんやらを勉強した。そして、一日中短距離走のことを考えるようにした。腕立て伏せを1日で1000回やることもあった。血へどを吐いて泣き叫ぶほどに練習した。思えば、このたった1ヶ月の経験で、私は「努力」というものがどんなものか知ることができたのかもしれない。そして、当たり前のように運動会では50メートル走の1位を獲得した。というか、同学年の歴代記録を更新した。そうして私は人気者になった。母の言う通り、私には天がついている。そう思った。
そのあとは中学に上がるまで特にこれと言ってなにもなかった。3年生の時からサッカーを始めて、サッカーの友達と毎日ゲームをしたりして遊んでいたし、5年生の終わり頃には、母に買い与えてもらったスマートフォンを使って自慰行為に耽るようになってしまった。本当にどこにでもいる少年であった。少し貧乏であることを除けば。
卒業まであと4ヶ月となったところで、友人を介して中学受験というものを知った。正直サッカーには飽きていたし、同じような人間関係が続くのもいやだったから、どこかに受験をすることに決めた。その時お金のことはよく考えてなかった。
一度ハマってしまったら、なかなか抜け出せないのである。そして受験勉強においても、中途半端なものに終わらせたくなかった。常に頂点を目指す。それが私のモットーでありデフォルトの精神状態であった。しかし勉強とは実に簡単なものである。なぜならまず試験範囲を調べ、それが全て網羅されている参考書を買う。知識のインプットをしつつアウトプットとして問題集を解く。インプットとアウトプットの割合を次第に変えていって、一度履修し終えたら模試なり過去問なりを解き、最終的にアウトプット率を10割にする。これだけで上位10パーセントには確実に入ることができる。あとは継続力と強い意志を持ち、健康に気を使えば上位1パーセントにいける。私の場合勉強期間が4ヶ月だったので受験者層の5倍は高い密度で勉強した。そして、天下の名門・開東中学校に入学した。
これで母を安心させることができる。そう思っていた。母も喜んでいた。
開東中学には面白いやつばかりがいる。ーーそんな印象を持った。説明会には一回もいっていなかったから、受験者とご対面するのは入学式が初めてだった。
まず、自分の意思をもっている。小学校のときは自我があるんだかないんだかよく分からんやつらばかりだったのに対し、この中学の者たちにはれっきとした意思がある。これはこの人たちが努力してきた証拠である。
日々、刺激を受け続けることができた。部活はサッカー部に所属した。小学校の時にサッカーをやり込んでいたので周りよりはるかに上手く、かなりモテた。この時期ほど共学に通ってよかったと思えた日々はない。おかげで彼女もできたし、童貞をかなり早いうちに卒業することができた。体育祭があれば、徒競走で一位を取り、サッカーの大会があれば、ハットトリックをしてチームに貢献した。文化祭があれば、実行委員に立候補してイベントに貢献した。その度に隣に女がいた。それが嬉しかった。今まで友達と遊んでいても、精神的には孤立していた。自分の優秀すぎる頭脳が、どこか周りと合わなかった。しかし女と寝ているときは、その全ての孤独感から解き放たれた。
当時、勉強は全くやっていなかった。クラスの人気と女さえあれば、それでいいと思っていた。大学受験の時期になればまたやればいい。自分は勝ち組。それでよかった。
それとこのとき、有志の者を集めて「黒翼会」というグループを結成したことがある。活動内容は特に何もなく、ただ公に知られていないコミュニティを作りたかっただけだ。シンボルマークは黒い二つの翼で、それを書いた紙を掲示板の貼り紙の裏に隠して、見つけた者を無理やり入会させた。一度、先輩に見つかってからというもの、その名前を口に出す者はいなくなった。ほとぼりが覚めて急に恥ずかしくなったのだ。
しかし私の家には、お金が足りなかった。周りの友達に合わせて遊んでいくうちにわかった。お金が圧倒的に足りないのだと。当たり前だ。名門私立中学校に通うようなやつが貧乏なわけがない。しかし中学生はアルバイトをすることはできない。私は常に好奇の目にさらされていた気分だった。このとき入学して一年が過ぎていた。
このころから、母とあまり話をしなくなった。部活が終わって、夜まで友達とゲームセンターで遊んでいた。それは、友人に合わせないと学校生活が円満に送れなくなるからという不安があった。お金がなくてばかにされることがあった。それでもなぜか自分は殴り返したりすることができない。飯田というやつがいた。飯田はラグビー部に所属していて、本当に進学校に受かるほど勉強する時間はあったのかというくらい体が大きい。そして何より勉強ができるやつだった。開東では、成績の良さがスクールカーストに大きく影響した。私のように成績が低くても他の長所を活かして上位に食い込む例外もあったが、基本的に上位のやつらは皆勉強ができるのだ。そしてその飯田智和というやつは学年で割と成績上位なくせに体格が大きかった。体格がいいということは、喧嘩が強いということになる。どれだけばかにされても私は、そいつに逆らうことができなかった。それが悔しかった。自分の弱さが悔しいのか。自分の生まれた家に対する悔しさなのか。あるいはその両方なのか。
夜が明けて、朝に帰ることもあった。その度に、母は私を叱った。それがいやだった。自分が否定されているような気がした。自分の存在がなくならないように、反発した。反発していたのは、自我の確立だけではなく、母への怒りもあったかもしれない。あんたの稼ぎが低いから、こっちはこんなに辛いんだ。具体的にそういった怒りと自分の存在の確認として、ただただ反発していた。
次第に周りに合わせられなくなって来た。ついには、万引きまでしていた。それだけでなく、社会に背いているというピリピリとした感覚にどっぷりと浸ってしまった。抜け出せなくなった。一回ハマると抜け出せなくなるという性質は、ここに来て表裏一体を為すのだ。そう実感した。ついには学校に行かなくなった。
彩という彼女がいた。三木彩である。美しかった。彼女の家は特殊な家庭であった。門限とかそういった制約がない。それは親から愛されていなかったということだったろうか。わからない。それ以外に一つだけ普通と違うところがあるとすればその家の娘・彩がこの私を愛していたことである。
「今日はどこにいく?」
「ゲームセンターに行こう。」
「お金あるの?」
「……ない。」
「……」
私は最低だった。自分でも何をしているのかよく分からない。ついには自分という存在を殺して、鏡に映る自分に全てを託して、鏡像の世界で感情のないまま生きているようだった。いや、そうしていたかった。
夜になると、よく駅の駐輪場にいった。自転車屋で盗んだチェーンカッターでロードバイクの鍵を切った。そして彩と一緒に夜を駆けた。この夜風が何より気分の良い気持ちにしてくれる。全てを忘れさせてくれるようだった。タバコも吸った。酒も盗んで飲んだ。一回、大学生のフリをして、そういうホテルに行ったこともある。もしかしたら彩は、そういう社会に反するようなことをずっと望んでいたのかもしれない。そう思うようにしていた。彩は笑顔でいる時も、悲しい目をもっていた。そこが私と似ていて、私はその目が好きだった。その人にはその人の人生がある。彩の家は私が産まれた時と同じく、父が暴力をする人だった。母は彩が9歳の時に自殺していた。
私は家に帰らなくなった。彩の部屋は二階にあって、窓をつたえばなんとか外から入ることができた。私は学校に行かなくなってから、そこで生活するようになった。彩の父は本当に暴力を振るっていた。押し入れに隠れている間。震えた。とっさに飛び出してぶん殴ってやろうかと思うこともあったが、ついに私の手が出ることはなかった。私たちは愛し合った。
夜が好きだった。
中学2年の冬。彩が妊娠した。
「ねえ、なんで付けなかったの!」
「知らないよ……!彩が大丈夫だって言ったんだろ、お金だってこっちは払えないんだ……!」
「何?お金って。おとうさんに知られたらやばいんだって!ねえ!なんとかできないの!?」
「お金だよ!堕ろさないと……。俺らじゃまだ養えないんだって……!」
急な展開だった。何もわからなかった。自分のなかにある広大な虚無に一人、自分がうずくまっていた。人間は、全ての選択肢に絶望しか見出せないとき、自分のなかに虚無を作り出す。その虚無に閉じこもり、その広大かつ狭小な世界にただ一人、自分の存在をかろうじて保つ。その中で、空間的閉塞と無情に流れる時間を同時に噛みしめる。事実に何も抗うことができない自分を、自分の中に観る。
私は、逃げた。何もわからず、何がわからないのかもわからず、全てに抗うために逃げた。彩の部屋の窓を突き破り、血まみれになりながら、はだしのまま、どこに向かうでもなく、自分の中の虚無から抜け出すために、全ての「何か」に抗うために、走り続けた。
「何をしてるんだあああああ!何をしているんだあああ!俺はあああ!!!」
気付いたときには、川の橋の下にいた。どこの橋かはわからない。私が産まれた時のような大雨が、ずっと降り続いていた。今度の雨は止むことはなかった。
ふとした瞬間、小学生のとき母がよく私に言っていた、
「あんたには天がついてるのよ」
という言葉を思い出した。この大雨が天の意思だとするなら、今の私は間違っている。大いに間違っている。もう自分を正当化することはできない。もう私は天に見放されているのではないか。そもそも最初から天なんてついていたのだろうか。全てがどうでもよくなった。もう私に居場所はない。
このときの記憶はあまりない。後から聞いた話によると、このときの雨は日本で観測史上最長の連続降雨日数だったらしい。37日もの間。雨が降り続けた。私はずっと、橋の骨組みにある台にうずくまっていた。確か川がずっと氾濫しそうな状態だったため、誰にも気付かれなかった。日数を数えていたわけではないが、37日目、飢餓状態にあった私は、雑草を食べ、頬に滴る雨を虚な目で飲みながら、限界を悟っていた。獣のような眼差しでただ目の前を見つめながらうずくまっていた。動物は自分が命の危機に瀕したとき、全ての感覚が研ぎ澄まされるというが、まさにこのとき私は、いわゆるゾーンのような状態に入っていた。肉体は痩せ細っているのにもかかわらず、感覚だけがそこにあった。雨粒の一粒一粒が欄干にあたる音、誰かが向こうで喋っている声、虫が鳴いている声、雨の匂い、雑草の匂い、自分の排泄物の匂い、変哲のない空気の匂いまで感じた。目を閉じても周囲が把握できるようになった。雨粒の落下するスピードが次第に遅く感じ始めた頃、走馬灯のようなものが見えてきた。走馬灯というのは、動物が危機的状況にさらされたときに脳の力を最大限に発揮しようとする、生存本能に基づく生体反応である。まだ短い人生であるが、思い起こす記憶のバリエーションは人よりも多かった。辛かったこと。嬉しかったこと。日常のなんでもない瞬間。
このとき、不条理にも言いようのない怒りがこみ上げてきた。なぜかは知る由もない。ただ自分の人生が、自分で思っていたよりも短かったのかもしれない。直感的にそんな気がした。自分の人生にはいろんなことがあったと思っていた。それなりに人間としての役目、人間の一生涯に経験することをやってきたつもりであった。それがどうだ。ただ少しいい中学に行って、一回人生の底を見ただけではないか。自分はまだここに生きているではないか。何をあきらめていたのだ。自分は何をしていたのだ。
「こんなところで畢ってたまるか。自分の人生はもっと伝説的で、躍動的で、波乱万丈で、歴史に名を残すような、そんなものでなければならない。」
これが、人生に灯がついた瞬間であった。私は体に眠る最後の力をふりしぼり、橋の骨組みを掴み、欄干を伝い、橋の上に躍り出た。
雲が裂け、光芒がきざした。太陽が私の顔を照らした。
家に着いたとき既に、私は開東中学から退学勧告をされていた。当然の報いだった。それどころか、そんなものでは償いきれないくらいの罪を犯したのだ。私は一生、この罪を背負って生きていく。
母はなぜか以前のように怒ることもしなかった。母によると、彩の件は保護者同士、弁護士を介して相談し、また当事者が双方の合意のもと行っていたことから、手術費用を折半することになったという。私は今までのすべての過ちを、そのこととともに謝罪した。自分の犯した罪は、生涯を通して決して宥されることではない。
私は飢餓状態を療養しながら、自分の中に強くこみ上げるこの生きる気持ちと、自分の罪について自分自答する日々が続いた。
この間、じつに多くの本を読んだ。特に歴史書が多かった。療養期間の3ヶ月の中で、ざっと300冊は読んだ。そして、幼少期に宇宙の本をよく読んでいたからか、数学、物理に興味を持つようになった。実際、開東の授業を受けていた頃に数学の点数だけが高かった。私は宇宙に強い憧れを持っていた。
母は、何を思ったのか。引っ越しをした。元々埼玉県の田舎よりのところだったが、東京の都心の方に引っ越した。場所が、場所の持つ雰囲気がだめだったのだと、まるでそう言っているように見えた。
そして環境が変わったことにより本当に生活も一変してしまった。今まではどこか鬱屈としていてこころの隅がずっと闇に晒されているような感じだったが、この新しいアパートは日当たりがとてもよく、それに照応するように気分も明るくなった。例えるなら、前の家が雨天で今の家が晴天である。
療養中、あたたかい日差しのもとで綺麗な床に座り、窓にもたれかかりながらずっと本を読んだ。古本屋で安く購入した手当たり次第の本を読み終えると、今度は数学がしたくなった。今まで重くのしかかっていた精神的・身体的負荷がごっそりと抜け落ち、気が楽になったから、人間本来の知的好奇心なるものが出てきたのだろう。このときは本当に心があたたかかった。幼少期に何度か垣間見た、母と子の紡ぐ暖かみと同じ類のものだ。この時期の母のあかるい笑顔がとても印象的だった。まるで一度生まれ変わって、二度目の人生が始まったようだった。
転校先の中学は、引越し先の地元の公立中学であった。中学2年の2月に転校した。それからというもの、授業そっちのけで数学に没頭した。正直、授業の内容は開東で既にやっていたのでテストの点数に困ることも母を心配にさせることもなかった。開東で底辺レベルの学力といっても、公立中学校ではトップレベルの学力なのである。4月に数学検定というものが開催されることを知ったから、自分の数学の実力を測る一つの指標として、それまでに1級を取得してやろうと思った。努力すればいける。努力とはどんなものかわかっているから。それに、私は宇宙に強い憧れを持っていたから、そのために数学を勉強するのは自然なことであった。
このとき、数学ができると言ってもあくまでも中学の範囲を出なかった。開東では中学1年の指導要領の中に一般的な中学3年までの範囲が入っている。というか入学できる時点でほとんど中学の範囲は知っている。しかし、数学検定の1級の範囲は大学1・2年レベルであった。大学の範囲を最低1ヶ月で習得するとして、高校数学3年分もおよそ1ヶ月で終わらせる必要がある。
三週間で終わった。自分でも驚いた。そこまで範囲は広くなかった。というより、自分の今まで抱いていた理系大学生のイメージはもっと難しいものをやっているイメージだった。もちろん自分の努力が異常だったというところもあるが。
大学の範囲はなかなか手強く、1ヶ月半かかった。これでも頑張った方だ。
自分の勉強論、もしくはもっと一般的なその「道」の極め方として、「限界突破型学習」というものがある。これは、まず質より量。質より量。といったように、質を考える前に量をこなす。これは世間で言う量より質というよくある言い回しを否定している。なぜなら、量をこなしていくうちに質というのは高まってくるからだ。しかしただ量をこなすだけでは無為に時間を過ごしてしまう危険性もある。だから「限界突破型」が必要なのだ。限界突破というのは、慣れているもの、続ける上で楽なものを続けるのではなくて、自分にとって苦手であったり、自分の一段階上にあるレベルのものに果敢に挑戦することを指す。体操競技で例えると、毎日自分のやりやすいB難度の技を練習し続けるのではなくて、ケガをするリスク、恐怖を乗り越えて、つまり「限界突破」してあえてC難度の技に挑戦する。ということになる。これを繰り返すことによって次第にD難度、E難度、といったように上達することができる。この限界突破型の判断の積み重ねが一流と二流を大きく劃つ要因となるのである。
そうして、凄まじい努力の末に2ヶ月で数検1級に合格した。
母が喜んでくれた。これが何よりも嬉しかった。もっとも、数学を勉強している間、母が安心そうな目で見守ってくれていることが嬉しかった。とてもあたたかい気持ちになれた。自分の存在が、自分がここに存在しているということが実感できた。
学校では意外にも表彰されなかった。それと、中学3年の4月で最年少記録が取れると思っていたが、既に中学2年でとっている人がいたそうだ。素晴らしい。
それと、この年の夏休みの1ヶ月をかけて、本州を一周した。数検1級合格祝いとして母がロードバイクを買ってくれて、それと元々自分の貯金にあった10万円を使った。これに関しても人間とは思えない努力をしているわけだが、こうも立て続けに努力をしてもらっていると、こうして後から思い出して述べる方は困るのだ。なぜならうまい表現の仕方が浮かばないからである。当時としては1ヶ月、2ヶ月というのは物凄い時間の流れ、時間の経過がある訳だけれど、書く方は10行も経っていない。つまり、あまりにこうも努力した、努力した、といっても連続的すぎて説得力というか一つひとつの緊迫感が薄れてしまうのである。しかも数検1級をとった後に本州一周をするというのは必然性があまりにも薄いではないか!だから、あえて本州一周の方は省略した。実際には何度も人生の淵を彷徨ったくらいの努力はした。理由は、心身を強くするためである。すなわち、修行のためである。そして本当に出発する前と後では人格的にもかなり成長した。ここくらいから、「どれだけ痛くてもどれだけ辛くても、その苦しみを全て受け入れる」という諦観の萌し、萌芽があった。
9月。本州一周から帰ってきたとき、学力が著しく落ちていることに気がついた。よほど、酷な修行だったのだろう。後遺症ともいえるものがある。本来は休養が必要だったはずだが、すぐさま受験勉強にとりかかった。
しかし今回はうまくいかなかった。
高校に落第した。
実は、私立高校はお金がかかるから、最初から都立高校のみを目指していた。もちろん私はどんなシチュエーションでもトップを目指すから、偏差値が都立トップの高校・日宮高校を目指した。
ところが、都立高校を受験する際は、当日の試験の点数とは別に、内申点という枠が設けられている。内申点とは、普段の学校での態度だとか、提出物をちゃんと出しているかどうかという点数である。これはいくら2学期の態度・提出状況が良くても、1学期が酷ければそれが影響するというものだった。
これが、だめだった。実にだめだった。態度はまだしも、提出状況が良くなかった。受験勉強に本格的に取り組んだのは中学3年の9月である。つまり、2学期である。1学期の内申点が酷かったので、2学期の内申点も酷かった。内申点だけで当日点1教科分以上は落としていた。つまり、いくら満点近く取ろうが、受かるはずのない試験であった。
その少しの望みにかけて、最大限のパフォーマンスを出した。しかしダメだった。私立高校は絶対にいけないのである。いってはいけないのである。いくら特待生でも。
私は咄嗟に母親を見た。落ちた瞬間、一番悲しいのは受験生である私である。それでも、私は母親の方を見た。
泣いていた。
「お願いだから、泣かないで。」
それが自分の内なるさけびだった。高校には行かなかった。
このときから、感情とはなんなのか、人間の根本的な感覚、人間社会の本質、世界の仕組みについて深く考えるようになった。正確には考えるのではなく、自分の経験則の中から、シナプスの結びつきから得られるその感覚を頼りにして抽象的なイメージをして、それを自分の言語に落とし込んでいた。
気付けば、感情が消えかけていた。
そしてすぐに、アルバイトを始めた。大手ハンバーガーチェーンでアルバイトしていたのを今でも覚えている。そしてすぐに、一人暮らしを始めた。なんだか、家にいるのがいやになった。具体的には、高校に行かなかったというその事実によって生まれる人間の眼差しが、人間社会の常識が生み出す鋭利な刃物の切っ先が、こわかったのである。母とて例外ではなかった。だからこそ、アルバイトをしている時はそれ以上にきついものがあった。その年の夏に、アルバイトでためたお金を使って自転車で日本一周した。自分はすごいんだと、思いたかったからだ。この時、このアルバイトをやめた。日本一周から帰ってきて、新しいアルバイトを初めて、それからまた自分のことが不安になって、自分は本当にすごいんだろうか、そうでないのか。それが自分の頭によぎっては消え、滞った。それでいろんな資格試験を受けた。受かるものもあれば、落ちるものもあった。
ある時、アルバイトをやめて量子力学とプログラミングを専念するようになった。なぜ量子力学だったかというと、宇宙に行きたかったからである。私が思うに、今の宇宙開発技術では太陽系の外にいけない。私は、太陽系の外を目指すようになった。思えば、数学を本格的に勉強し始めたのは宇宙に憧れを持っていたのがきっかけだったし、子供の時はよく母に宇宙、宇宙といって宇宙の本を買ってもらってよく読んでいた。プログラミングは、アルバイトをせずに大きく稼げるようになるためである。これにも勝算があった。
自分の人生の目標は、天にある。
消えかけていた灯が、再び点けられた。今度は燃え盛る炎ではなく、睡蓮の浮かぶ水面のように静かな不知火であった。
翌日起床したとき、私の目に暗闇が映っていた。なんだこれは。これは空間的な広がりがない。もし外的要因によって光が妨げられているとすれば、同じ暗闇でも空間的な広がりを魅せるはずである。また、これは夢ではない。夢であればもっと、説明しにくいがぼんやりとしているはずである。意識がここまで明瞭ではないはずだ。現に今思考能力が普段通りである。なんというか、なんだろう、音がない。深夜なのだろうか。自分の住んでいるアパートは駅前の商店街に隣接しているから、深夜でも何がしかの物音がするはずなので何かがおかしい。それによく考えれば布団の感触もない。それに、重力が、なんだろう、説明できない。重力の方向が何かおかしい。
私は考え、視力と聴力を失い、そして何者かに連れ去られたのだという結論を得た。流石に、それ以上は思考が回らなかった。もしかしたら目隠しをされて耳栓をされているのかもしれない、とも思ったが、どの道この手肌の感触のなさを説明できないと思い、これから何が起こるかわからないという恐怖を受け入れる準備を始めた。
それにしても、長い、何十秒たっただろう、もしかしたら何分とか……
体感時間にしておよそ1時間が経った。この1時間というのは、過去に自分が1時間ほど結跏趺坐をしたときの体感時間から算出しているものであって、普段の体感時間からすれば3時間ほどである。結跏趺坐とは、曹洞宗における座禅の手法であって、お坊さんがやっているあのキツい座り方である。両足をガッチリと挟んで両足を上に向ける座り方。というとわかりやすいかもしれない。その体感時間が、1時間すぎた。私はとっくにこの暗闇に慣れている。そしてこの1時間の気づきとしては、まず金縛りのように眼球以外全く動かすことができないということと、同じ体勢でも疲労も空腹も感じないということと、無重力空間であること。そして一番の発見は、私がこの状態に1時間もさせられる必然性が見出せないということである。
幸い私は、全ての苦しみを受け入れる覚悟を人生の中で何度もしてきているため、精神的苦痛はそこまでなかった。しかしこれがもし他の人だったらば、宇宙人諸君。いや宇宙人ってのはまあ、擬似的にでも人を無重力空間に起こさず運べるのは宇宙人ぐらいだろうということで宇宙人と言っている訳だけれども。
おい、宇宙人ども、これがもし私でなく他の人であったならば、今ごろ発狂しているところだぞ。この人体実験だかよくわからないが、この被検体がもし私でなく他の人を選んでしまったならば、優良なサンプルデータが得られないぞ。それかなんだ、発狂するまで観察するのが実験なのか。答えてくれ。宇宙人。
3日ほど経っただろうか。もう、限界……。いや、限界などない。私に精神的限界などない。大丈夫。大丈夫。大丈夫。私は延々と自分の好きな曲を脳内で再生したり、尊敬する人を頭の中で結集させて会議させたりした。他にも、素数を延々と数えたり、頭の中で想像する延々と続く道を駆けたり、数学の問題について考えたり、宇宙人との対話を試みようとした。
「リーマン予想は肯定的に証明できますか?」
「双子素数予想は肯定的に証明できますか?」
「いま最先端の数学は宇宙際タイヒミュラー理論というのですがあなた方にとってどのくらいのレベルなのでしょうか?」
「あなた方の文明の最先端の技術、もしくはこちらでいう数学に相当するものを教えていただけませんか?」
「最古の文明について教えていただけませんか?」
「宇宙の外側があるとして、その状態を説明していただけませんか?」
どうせ知能はむこうのほうが高いに決まっているので、なるべく紳士的かつ頭の良さそうな振る舞いを心掛けた。もし自分が猿で同じような実験をしているとしたら、どんな状況でも冷静に振舞う胆力があるやつを可愛がると思うしすごいと思うからである。自分が人類の中で上位の精神力があるということを認めてもらいたかった。実験の目的についてはあえてしつこく聞かなかった。もし普通の人間であればまず実験の目的についてしつこく聞くと思ったからである。
体感時間で、7日がすぎた。この頃になると、当時流行っていた「5億年ボタン」というものを本格的に連想し始めた。その作品では、5億年もの間、何もない空間に降り立った主人公が最終的に空間と調和する。
そうかそうか、そういうことか、空間と調和しろ。そういうことだな。
私は、この実験の首謀者が宇宙人などではなくもっと高等な存在であることを確信していた。そして私は空間と調和するべく、まずその5億年ボタンの主人公同様、自分独自の数学理論を構築することを目標とした。うん。それしかない。まず私は数学の問題について自分の頭の中で、必死に、必死に、頭の中のホワイトボードを最大限に広げて、解くことを試みた。
そのときだった、自分の視界一面に女性の裸体が映し出された。もう訳がわからなかった。さすがに鮮明すぎるので単なる幻想の類でないことはすぐ分かった。でもなんで女性の裸体なんだ。訳がわからない。しかもこれは男女の営みをしている最中である。
そうすると、また景色が変わった。ライオンがいる。自分の体がやけに小さい。草木の中に、ライオンがいる。こっちに向かって吠えてきている。とても近い。2メートルもない。今の自分で勝てるだろうか。しかしなんだこれは。戦わなければならないのだろうか。
「うらああああっっっ!!!」
と威嚇しようとしたが声が出ない。その瞬間理解した。この体はおそらく自分のものではない。実際に、動きが自分の感覚とマッチしていない。思えば、1週間も体を動かしていなかったのでそれに気づくのが遅かった。と、そのとき、自分の体が勝手に正面を見ながら後ろにステップし、地面に落ちた木の棒を拾い、聞いたこともないような大声をあげた。ライオンは逃げた。
また、視界が切り替わった。今度はまた、男女の営みの最中である。アジア系の人が映っている。最初はアジア系の人で、2番目はアフリカ系の人だった。そしてまたアジア系の人が映し出された。何か意味はあるのだろうか。私は早くも、何かしらの法則性を見出そうとしていた。しかし今度はなぜか動きがぎこちないし、服を着ている。まるでこれが初体験かのような感じがする。というか本当にそうなのではないか。
視界が切り替わり、女性の足が映し出された。自分が女性目線で、マットか布のようなものの上で足を開いている。左手を掴まれている、男性がこちらを心配そうに見つめている。自分の体が、うめき声を発している。
これは、出産の瞬間であった。
そのとき、私は言いようのない感動に包まれた。私が出産する女性の立場になって最初に思い浮かべたことは、細胞が分裂するその一連の動作であった。機械美ではない。生命だ。生命が、ここにある。
地球があった。46億年前、地球が誕生した。地球の岩石に含まれる水蒸気が火山の爆発によって噴出し、雲になった。その雲は長い間、地表に雨を降らし続けた。地球にあった窪みに雨がたまり、海ができた。40億年前のことであった。
39億年前、最初の生命が誕生した。原始の有機的スープの海が何億回何兆回とかき混ぜられることによって、微小確率の大量発生により高分子集合体コアセルベートを結成した。コアセルベートは互いにくっついたり離れたり分裂したりして、アメーバのように振る舞った。生命が誕生した瞬間であった。その後光合成によってエネルギーを生成する藻類が出現した。藻類が生成する酸素が海中で飽和状態になった。小さな藻が単位時間につくる酸素の量は決して多くない。何億年もかかった。海の外に放出された酸素は空に舞い、オゾン層を形成した。オゾン層は紫外線を遮った。そうすることによって、生物は地上に進出することが可能となった。ひとつひとつの生命が意思を持ってオゾン層を形成した訳じゃない。蓋然に、必然に生まれたものたちが、何億世代もかけてその一連の流れの中で作ったものであった。
長い歴史の中に、人類はいた。今まで生きてきた全ての生命が、私たちと共にある。地球という同じ星で生まれた全ての生命が、ひとつひとつの生命を創り出す。それを受け継いで、歴史をつくる。
本の中で見ていただけの事だった。しかし私はこの瞬間、その知識がいっせいに結びついて、形容できない感動に包まれた。生命を感じた。
そのあと、何十回も視界が切り替わっていったが、すでに脳の処理できる情報量のキャパシティをこえていた為、少し虚な気分になっていた。休む時間が欲しかった。こうも矢継ぎ早に視界が変わっては、思考する余裕がなかった。
それでも発見がいくつかあった。まず一つ目に、この映像、もしくは体験は、一人の人間が生涯でもっとも印象に残った出来事である可能性が高いということだ。性行為、出産、交通事故などが多かった。たまに、スポーツの大会のようなもので優勝した瞬間も見た。二つ目に、これは誰目線かということだが、おそらくこれといった決まりはなく、世界中から無作為に人選している。アジアやアフリカ系が多かった。そして、思っていたより貧困層が多かった。普段生活する上で目にする人は、少なくとも収入に困る人たちではない、だから錯覚しやすい。一歩自分の国の外に出れば、常識が少し違う。三つ目に、これは現代に生きる人々の記憶である。多少時代のズレはあっても、それは今の高齢者が体験した少し昔のことであって、百年以上前と思われるものはなかった。そして最後に、これが1回あたり10秒間の出来事だということである。
これらをまとめると私が今見続けているのは、世界中からランダムに選んだ現代に生きる人の人生で最も印象に残った10秒間ということになる。
私は常に平常心のまま、神のような気分になった。
暗闇に、一筋の光があった。一筋の光は、古くて赤いレンガの壁を照らしていた。私は今、黒の手袋をはめた右手にナイフを持っている。目の前に、椅子に座った男がいた。男は頭を黒の布で覆われていた。手を後ろに回され、青のジーパンを履いた足を椅子に紐で縛られている。私の右手はナイフを男の首に突き刺した。浅かった。顎に突っかかってしまったので、もう一度首に刺した。これも浅かった。手が震えている。首から血が吹き出した。男は苦しみ悶え、そして動かなくなった。
淡くて黄色い太陽を見つめていた。海が見える。口に海が入る。足が海の底については、浮かんだ。もう足場はない。しょっぱい。横に青い目の男が並んでいた。男は、青い目の奥に深い悲しみをもちながら、笑みを浮かべた。男は言った。
「愛してるよ。」
「私もよ。」
私は女だったようだ。
月光が窓から射し込んで、黒板を照らしていた。黒板には、たくさんの数式が書かれていた。私は息を少し荒くして、左手で黒板を押さえながら、右手に持つ白のチョークで式を書き殴っている。狭い教室に、チョークの音と雨の音が鳴り響いていた。
「496」
と書かれたとき、私は手を止めた。その瞬間、雷鳴が轟いた。
ある晴れた日の朝、私はドライブしていた。とてもいい天気だ。ラジオを流して、コーヒーを飲みながら、右手にハンドルを持つ。ごくありふれた日常の風景だ。
車の時計が、9時20分26秒を示した。
空が一瞬光ったのち、目の前でダイナマイトが起爆したと思うくらい、聞いたことのない爆音と衝撃波が襲った。フロントガラスが一瞬で粉砕した。
ものすごく明るい部屋に横たわっていた。上から3人の人影が覗き込んできた。私は咄嗟に立ち上がり、喚き、逃げた。部屋を出ると、長い廊下があった。走りながら横を見ると、宇宙が広がっていた。走っていたのに、気づくとつまずいていた。暗いトンネルの端にいた。すると、楕円形の白く大きな物体が浮いて、加速することなく瞬間的にトンネルの外に抜けた。見たことのないスピードであった。
臭い、汚い排水管のなかを匍匐前進していた。ボロボロのタンクトップを着ていた。長い黒髪に無精髭を生やしていた。少し嘔吐した跡がところどころに残っている。まさに社会の底辺であった。ただまっすぐ前を見つめて、息を荒くしながら狭い管の中を這う。排水管の外に出ると、浅い川に落ちた。そのまま曇天を見つめながら叫んだ。
野球ボールをもっていた。左手にグローブを持って、石垣に座りながら横の少年と話していた。手を滑らせて、ボールが足元に落ちた。しゃがんでボールを拾ったとき、目の前が一瞬光り、聞いたことのない爆音がした。頭を上げると、建物が吹き飛び、横の少年の上半身がなくなっていた。
背の高い森林の中、青い空にヘリコプターが停滞していた。中に人が乗っていて、こっちを見ている。そして何か喋っている。私の周りには、顔を赤く化粧した上半身裸の男性が3名ほどいた。私はその人たちにジェスチャーで合図を送ると、一斉にヘリコプターに向かって矢を放った。矢を幾度か放ったのち、ヘリコプターの羽が損傷し、墜落して、爆発してしまった。
正面に、青い服を着た金髪の医師が座っていた。右側に座っている人は、私を撮影していた。小さな部屋にいた。耳に何かの機械を当てると、そこから音のようなものが聞こえた。おもむろに私は掌を口に当てて、苦しくなるくらい、心の底から感動したような涙を流した。笑顔がこみ上げた。医師も笑顔だった。撮影している人も笑顔だった。なんだか幸せな気分になった。
視界一面に薄く赤い粉塵が舞っていた。その中には、白く大きさのバラバラな何かの破片と紙が混じっていた。周りには潰れた車と、白い煤だらけの人たちが右往左往に走り回っていた。道路の上には、皮のついた肉がたくさん落ちていた。他にも、つぶれた臓器のような塊や、丸い真っ赤な肉に白やピンク色の血管が巻きついたもの、足か腕の赤い血肉がついた骨も散乱していた。カメラで何かを撮影していた人もいた。その方を見ると、ビルから黒とオレンジの煙が吹き出ていた。その周りには、ビルの破片と思われるものが、まるで風の動きになぞるように一様に舞っていた。その瞬間、大きな音と共に、もう一つあったビルに飛行機が衝突した。
女性の横顔を見ていた。女性は泣いていた。そして、首から下が海の中にあった。海の中で手を握ると、その女性はこっちを見つめた。私は言った。
「愛してるよ。」
「私もよ。」
太陽がとても、美しかった。
周囲の大人が皆、海の方を見て笑っている。様々な国の旗が掲げられた、観客席のような場所に集まり、サングラスをかけて、大きなカメラであったり、双眼鏡をかけて海を眺めている。天気がいい。私は走って、大人たちを掻いくぐるようにして席に着くと、ポシェットの中から双眼鏡を取り出し、丸メガネ越しに双眼鏡をかけた。レンズの中にはロケットが映っていた。そのとき、ロケットの末尾の方から、オレンジと黒の混ざった、力強い炎と大量の煙を吹き出しながら、ゆっくり、重い腰を上げるようにしてロケットが垂直に持ち上がっていった。私の頬には涙が流れていた。
もうどれくらいの年月が経っただろう。この10秒は、人間の一生を映し出す。そう思った。儚いように見えた一人一人の一生は、誰に言われるまでもなく、連綿と人類の歴史を紡いでいた。
……私の役目なのだと。そう実感した。人間の到達し得る全ての感覚を越えて、それ以上も、それ以下もなく、ありのまま、あるがままを受け入れた。一人一人にとっては、たったの10秒であり、また人生で最も長い10秒であった。私はその一人の10秒間を見て、その一人の人生を観た。全ての死生観、倫理観、生命に対する感覚が遍くものになり、任意の空間的座標に対する任意の時間の任意の可能性を受け入れることができた。
元々私が、自分の人生だと思っていた15年間よりも、はるかに長い年月が流れた。70億人分の人生が、あった。
大雨が降っていた。吹き荒れる嵐が、冷たかった。空が暗く、まるで世界から嫌われているような気さえした。地面の氷が、冷たかった。はだしで、服も薄かった。てのひらには、弱々しく小銭が握りしめてあった。壁にもたれかかって、悶え苦しんでいた。突き刺すような雨が、この世界がどうしようもない、理不尽であることを示しているようにも思えた。
お腹が、膨れていた。手に握っていた小銭をパラパラと落として、必死にお腹をさすった。けわしい表情で、もがき苦しんだ。なんの助けもなかった。助けてくれるものは何もなかった。このとき、世界は理不尽だった。
天が開けた、それと同時に、子どもが産まれた。雨がやみ、嵐はおさまった。今までにみたことのない、美しい光芒がきざした。世界がはじめて祝福してくれたような気がした。子供を抱き抱えた。嬉しくて、あたたかい涙がこぼれた。この瞬間のために、生きてきたような気がした。
天井を見つめていた。涙が頬をつたう鮮明な感触があった。