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泰皇国立皇統学院記 〜 一年目 冬 〜  作者: 都月 敬
1日目 〜 夜 〜
9/15

夜_別邸1


 聞き出した情報に従って、倉庫街を抜けて。

 大街道を渡り、ひときわ豪奢な大屋敷街を通り過ぎ。

 やがて、町は住宅街へと変わる。

 一等地は過ぎたはずだが、ここの町並みを眺めても、泰陽の士族が住む高級住宅街にまるで見劣りはしない。歴史と格は向こうが上だが、屋根や塀の華美な細工はむしろこちらが上か。

 それでも街灯は間遠になり、路地は少しずつ薄暗さを増していく。

 敵のアジトへは間違いなく近づいているはずだが、今のところ不審な者はいない。いや、不審と言えば、橙琳たち三人が一番不審なんだけれども。

 少なくとも、この不審者たちを警戒しているような、見張りは誰もいなかった。


「次、右へ」


 二人にだけ聞こえるような、ごく小さい声で。

 的確に杏怜の指示が飛ぶ。それに反応して、先頭の蒲星が角を曲がった。

 すぐに杏怜、そして橙琳も後に続く。

 聞き出した道順は、たぶん蒲星も、もちろん橙琳も覚えている。

 それでも、こういった時に指示を出すのは、杏怜の役割だ。

 迷いなく先頭を進むのは、蒲星の役割。

 たぶん、黄希がいたら、その後ろにどっかりと構えていて。きっと、みんなはそれだけで、どこか安心感を覚えるのだろう。

 蒲星は、指針。

 杏怜は、頭脳。

 黄希は、意志。

 じゃあ、――――


「次、左でおしまい」


 杏怜からの最後の指示。

 その角を曲がる手前で、蒲星が足を止めた。

 聞き出した通りに足を進めてきて、聞き出した通りの目印もある。

 蒲星の下に潜り込むようにして、橙琳も曲がり角の先を覗いた。

 あれが、黄希が捕まっているという、鄒欣の別邸か。

 ぱっと見たところでは、門構えといい、屋根の造りといい、辺りの他と比べて目立つ建物ではないが、いきなり殴り込むわけにもいかない。

 とりあえず、道でも探しているふりをしながら、屋敷の周りを一周してみよう。こんな時間だから怪しくないとは言えないが、できる限り、付かず離れず。


「――――さて、どうしよっか」


 そう言いながらも、腰に手を当てて、ため息を一つ。

 結論から言うと、一周はできなかった。

 隣の建物との隙間が狭すぎたり、生垣を共有していたりする箇所が多いのだ。

 仕方なく、周囲の調査はそこそこで諦め、先ほどの角へと戻ってきた。

 わかったことは少ない。

 当初は目立つ建物ではない、と思ったが、敷地は周りの建物の倍はありそうだ。周囲の建物との関係で、一辺も見通せる箇所がなかったため、推測ではあるが。

 また、植木の手入れがなおざりな風を装ってはいるが、それが上手く目隠しになって、塀の外からでは窓の一つも満足には覗けなかった。

 まさに、悪いことをするにはうってつけだ。


「黄希の居場所の見当でもつけられたら良かったのだけれど」


 その目論見は見事に外れた、と言わざるを得ないだろう。

 ただ、屋敷の造りは、いわゆる四合院に見えた。東西南北に四つの棟を配して、廊下で繋ぎ、中央に大きく中庭を取った、伝統的な造りだ。だとすれば、黄希がいるのは、母屋に当たる北棟か、来客用に当たる南棟か。しかし、それも推測に過ぎないし、例え居場所がわかっても、侵入できなければ意味がない。


「窓からの侵入や脱出を警戒するだろうし、軟禁するなら二階だと思うがな」


 蒲星が私見を述べる。調査結果ではないが、それには同感。ちなみに、西棟以外の三棟が二階建てだ。


「でも、二階に届きそうな枝ぶりの樹もなかったし、入るなら一階からかしら」


 どうでもいいけど、杏怜の口調で悪巧みというのは、しっくりこない。

 ついでに、二階からの潜入となるなら、杏怜はここでお留守番だ。


「とにかく、敷地内に入ってみるしかない。外からではよくわからん」


 少ない情報に業を煮やしたのか、いきなり乱暴に無茶を言う蒲星。

 橙琳もここは止めるべきかと思ったが。


「見張り、というか、警備が誰もいないのが、気になったのだけれど」


 それより先に、杏怜が懸念点を挙げてくれる。

 しかし、さすがに蒲星はよく見ていて。


「いないことはない。表門の近くに番所らしき小さな建物があって、人の気配もしていた。あと、屋敷の裏にもいたな。こちらは巡回しているようだったが」


 表門は南東側に開いており、番所の脇を抜けて内門へと通路が続く。その中が南棟だ。造りによっては、東棟や中庭へ直接抜ける通路がある場合もあるようだし、敷地内をぐるりと回れるようになっている場合もある。となると巡回範囲も特定しにくいが、それよりも。


「表門を通るつもりはないし、あれくらいの巡回なら目を盗むことはできる。問題は侵入箇所だが――――」

「ちょっと待って!」


 ぐいぐいと話を進める蒲星を遮って、橙琳が口を挟んだ。


「まずさ、警備が少なすぎるとは思わない? 皇太子を軟禁してるんだよ?」


 二つの視線が注がれた。

 役割ではないことをしただけに、居心地の悪さを感じる。でも、二人があまりにも気にしないから、辛抱たまらなくて。

 だけど、返ってきた言葉は。


「我々が倉庫を破って助けにくるとは、予想していないんじゃないか」

「それに、急に警備を増やすと、逆に怪しまれるから、とか」


 綺麗に、反論が並んだ。

 それは、橙琳には、なんというか、反論のための意見に聞こえて。


「とにかく、ここでこうしていても埒が明かない。いずれにせよ、中に入らなければ、黄希は助けられないんだ」


 蒲星が強い口調で熱く語る。その言葉は、正しいのかもしれないが。


「西側に、裏口らしきものはあったわよね」


 あった。隣の屋敷の塀とに挟まったような、細くて暗い小さな路地に面して。


「ああ。私も目をつけていた。あれくらいの扉なら、鍵もなんとかできるだろう。巡回のリズムを把握したら、あそこから入ってみよう」


 入りやすい扉。わかりやすい警備。そして、外から見えにくい敷地内。


「敷地内に入ったら、まずは屋敷の裏口を探しましょう。これくらいの屋敷なら、裏に厩舎くらいはあるはずだし、その近くには出入り口もあるはず」


 なのに、本来止めるべき穏健派は、ガンガン侵入策を出していて。


「いいか、橙琳」


 二人の視線が、また注がれた。

 その瞳に映るのは、黄希を救うという、強い意志。

 こうなると、橙琳に返せる言葉は一つしかない。


「もちろん。二人が言うんだから、大丈夫でしょ」


 ……きっと、考え過ぎだ。



 わざと大きめに迂回して、件の裏口へと向かう。

 問題の屋敷以外は、素直な作りをしているようで、目的の場所へは迷わず辿り着けた。今なら巡回もしばらくは回ってこないはず。

 蒲星が扉に近づいて、ひとまず力を込めてみる。当然、開かない。

 大きな身体をひねって、橙琳に代わった。押してみたり、隙間を覗いてみたり。


「――――閂ね」


 そう呟くと、いつの間にか用意していた細めの棒を、扉の隙間にねじ込んで。


「蒲星。棒を、折らないように、上へ持ち上げて」


 再び入れ替わった蒲星が、その細い棒を握る。ゆっくりと、バランスよく、じんわりと力を伝えていって。

 ガチャリ、と。

 扉の向こうで、金属音がした。


「開けてみて」


 杏怜に促されるまま、蒲星が力を込めると、今度はなんなく扉が開いた。

 首だけを突っ込んだ蒲星が左右を確認し、音もなくその大きな身体を扉の向こうへ滑り込ませる。すぐに杏怜と橙琳も続いた。扉を後ろ手に閉め、少し迷ったが、閂も元に戻す。

 入った正面はすぐに西棟の壁だった。並ぶ窓に灯りは見えないが、倉庫かもしれないから油断はできない。南側も壁で塞がれているので、とりあえず北へ向かう。

 敷地の北西の角に当たる場所には、杏怜の読み通りに、厩舎があった。

 それに面して西棟への裏口もあったが、北棟と思われる建物に扉は見えない。

 西棟は使用人用の棟だから、まさか皇太子を幽閉したりはするまい。そう思えば、できれば、主人用の北棟へ侵入したかったのだが。

 そうは言っても、ここまできて引き返すわけにもいかない。中で繋がっていることを期待して、あの裏口から侵入しよう。

 目配せだけで作戦会議を終えると、蒲星が壁際に張り付くように潜んだまま、二人に、手振りでそこで待つように指示を出した。

 そして、一人、裏口へと忍び寄る。

 使用人棟とはいえ、屋敷内へ続く扉だ。さっきみたいなチャチな鍵ではないはず。さて、どうするか。

 橙琳が思考を巡らせた、その時。

 厩舎に、異変が起こった。

 一頭の馬が大きく鼻を鳴らしたかと思うと、いきなり壁を蹴り始める。

 その音に蒲星も顔を上げ、慌てて杏怜が、戻るように手振りで指示を飛ばす。

 いくら大商人でも馬は高価だ。この事態を放置しておくことはないだろう。

 蒲星が壁の陰に飛び込むのと、入れ違うように。

 裏口脇の窓に灯りが映ったかと思うと、ガチャガチャと鍵を鳴らす音が聞こえ、そこから厩番らしき男が顔を出した。


「なんだ〜、怖い夢でも見たか〜?」


 そう呼びかけられても、当然、馬に返事はできず。

 男が渋々と裏口から出てくる。その足取りは怪しく、どうやら酒に酔っているようだ。


「はいはい、パパがよしよししてあげまちゅね〜」


 赤ちゃん言葉にイラっとするが、ツッコミには行けない。代わりに蒲星をどついておく。不満げな視線が戻されるが、当然無視。

 酔った男は、無造作に厩舎へと入ると、何やらごそごそとやり始めた。馬の機嫌を取っているのか、敷き藁でも直しているのか。

 蒲星が半開きのままの裏口を指差すが、それには杏怜が首を横に振った。あまりにも危険すぎる。当て身で気絶させて、という案も浮かぶが、すぐさま却下した。

 やがて、馬も大人しくなり、男も厩舎から出てきた。千鳥足で裏口へと向かう。

 蒲星が口惜しげに見送っているのがわかるが、ここで無理はできない。下手に大声でも上げられれば、それで一巻の終わりだ。

 男が、裏口の扉を大きく開き、夜空へ向けて、大きなあくびを一つして。

 バタン、と。雑に扉が閉められた。……が。

 三人の目が合う。同じことに、気づいたらしい。

 逸る蒲星を押さえて、窓から灯りが遠ざかるまで、じっくりと待って。

 窓が暗さを取り戻すと同時に、急いで裏口へと駆け寄る。

 杏怜が馬の様子を窺い、橙琳が中の気配を探知して。蒲星が扉を掴んで、そっと引いた。

 扉は、音もなく開いた。やはり、鍵を掛け忘れたのだ。

 再び、三つの視線が交わって。

 喜んでいる暇はない。三人は順に、扉の中へと身体を滑り込ませていった。


 屋敷の間取りなど、どこもそうそう変わるものではない。だいたいの全体像が想像できれば、幽閉に向いた部屋の位置もある程度予測はつく。

 入った先は、厨房兼食堂のようだった。飾り気のない造作と、雑然と放置された調理道具に掃除道具。やはりここは使用人が暮らす棟なのだろう。

 食堂を抜けても、廊下は一本しかないので、とりあえず南へ向かう。主人の身近に閉じ込めるなら北棟だが、賓客扱いなら南棟にいる可能性が高い。

 灯りもない廊下を、細心の注意を払いつつ、進む。

 窓が多く、月明かりが入ってくるのは助かるが、その分、ある程度の距離があっても見つかってしまう。一応、窓から離れて歩いてはいるが、反対側に並ぶ扉が突然開くことだってある。

 蒲星は扉の向こうの気配を警戒しているようなので、橙琳は咄嗟に隠れられる場所を探しながら進んだ。誰か来るにしても、手燭でも持っているだろうし、だとすれば、逆に影の中にいるこちらは見えにくい。そのためには小さな物陰でもあれば充分なのだが、使用人棟には花瓶も壺も飾られてはいなかった。

 幸い、人の気配を感じることなく、廊下は突き当たる。そこから直角に曲がって、同じような廊下がさらに長く直進するようだ。

 途中から扉がなくなり、両側に窓が並び始めた。窓の向こうは中庭か。

 最近の流行りは、中庭に広い池やプールを作ることらしいが、御多分に洩れず、こちらの屋敷にも大きな池と噴水があった。その優雅さに呆れもするが、水音が少しでも物音を掻き消してくれると思えばありがたい。贅沢な噴水に感謝する日が来るとは、夢にも思わなかった。

 ともあれ、ここは西棟と南棟を繋ぐ廊下で、この先が南棟だ。客室の多い南棟も黄希がいる可能性が高い棟の一つ。まずはそちらから調べることになりそうだ。

 南棟には、一階に会食のできる大広間があり、二階には宿泊可能な客室が並ぶのが一般的だ。このまま進めば、辿り着くのは大広間か、内門を潜った先のロビーか。ロビーなら確実に階段はあるが、どちらもあまりに開けっぴろげで身を潜めるには不向きだ。派手に調度なんかが並んでいてくれると助かるのだが。

 そうするうちに、中庭が終わり、南棟へと入る。廊下の様子は変わらないが、やがて両開きの大きな扉が姿を見せた。

 蒲星が振り向いて、杏怜の視線もこちらへと向けられる。

 橙琳は、それに首を振って答えた。

 恐らく、この中は大広間だろう。黄希が捕らわれているはずはないし、二階へ上がる階段もたぶんない。

 二人も頷いて、再び廊下を直進する。その突き当たりが、ロビーのはずだ。



「――――どうする?」


 大きな花瓶の陰に、それよりも大きな身体を潜ませながら。

 蒲星が首だけをこちらにひねっている。随分と辛そうな体勢だ。

 早く答えてあげたいのはやまやまだが、なにせ局面が難しい。橙琳も、闇に包まれたロビーに、なんとか目を凝らす。

 しかし、どれだけ時間をかけても、見えるものは同じだった。

 階段があるのはロビーの向こう。そして、そこまでに身を隠すものは何もない。

 あとは、行くか、戻るか。その二択だ。


「こちら側に沿って行けば、なんとかなるのではないかしら」


 杏怜の言うこちら側とは、大広間の入り口がある側。正面から見れば、奥側。大扉の装飾が差し掛かっているから多少の影もある。行くなら、その道がベストか。

 橙琳は、二人の瞳を見つめる。

 どうやら、戻るという選択肢は無さそうだ。


「うん、それで行こう」


 だとしたら、せめて自信を持って。

 橙琳が強く頷いた。

 二人も頷いて、行動を開始する。

 最初に動くのは蒲星。花瓶の陰から出て、大広間の方へ。まさかこの時間に大広間に人はいないだろう。

 続くのは、杏怜。

 しかし、立ち上がった際に、その肘が。


「――――!」


 声にならない悲鳴。

 傾く花瓶。

 これが倒れたら、すべてが終わる。

 橙琳が懸命に手を伸ばして、取っ手を掴む。だが、バランスが取れない。

 そのまま引っ張られるように、花瓶が床へ。

 杏怜が目を閉じるのが、なぜか、ゆっくりと見えた。

 しかし。破砕音はいつまでも響かず。


「――――ふぅ〜。」


 小さく、息を吐く音。

 それは、橙琳とは反対側の取っ手を掴んだ、蒲星のものだった。

 橙琳も、同じように息をついてから。

 蒲星と息を合わせて、花瓶を元の台に戻す。一応、落ちた花も元どおり刺して。

 そこへ杏怜も駆け寄ってくる。

 ペコペコと下げられるその頭に、振りかぶったげんこつを見せて。

 さぁ、気を取り直して、もう一度。

 そう思った矢先に。


「――――もういい。点けろ」


 どこか投げやりな声が響いたのは、その時だった。

 次々と明かりが灯される。それは、ロビーを上から囲む二階の廊下。

 そこには何人もの男たちが、手に手に手燭を持って立ち並んでいた。


「まったく、大人の言うことも聞かないで。こそこそと忍び込んだかと思えば、またモタモタと。いい加減、やきもきさせられたわ」


 こぼされた愚痴は、大広間の大扉の真上から。張り出した手すりに寄りかかるようしてロビーを見下しているのは、この屋敷の主人である鄒欣だった。

 黒幕であるはずの老人は、一つの咳払いで、調子をいつもの様に戻すと。


「おやおや、誰かと思えば、橙琳さん、蒲星さん、杏怜さん、ですな。こんな夜更けに、こんなところへ、なんのご用でしょうかな?」


 そう問いかける笑顔は、あの倉庫で見た笑みとはまるで違う、好々爺のもので。


「ふざけるな! 黄希を返してもらいにきたに決まっているだろう!」


 おちょくられたと感じたのか、蒲星が一気に逆上した。

 しかし、老人の笑顔は、一切の変化を見せず。


「黄希とは、恐れ多くも、皇太子の御尊名ですな。はて、返すもなにも、こちらへは、お越しになってもおられませんが」


 その顔で、声音で。

 はっきりと伝わった。やはり、最初から罠だったのだ。


「何か、勘違いでもされておられるのか。それとも、誰かに何か吹き込まれましたかな?」


 嘯かれ、蒲星が叫ぶ。


「そんな理屈で誤魔化せると思うなよ。あの御者を連れてくれば、つまらぬ言い逃れなどできないぞ!」


 それは泰陽の裁判所で、幾度も見たような姿。

 だが、それも老人には届かない。


「御者。ああ、皆様を泰陽からお連れした者どもですか。申し訳ございませんが、あの者どもはあれを最後に、皆、当家を離れております。今晩にも経つと申しておりましたので、今頃は旅路の途中でしょうか。どこへかは聞いておりませんが」


 蒲星も、言葉を失った。

 それをにこやかに見下ろして、老人が唐突に話題を変える。


「ところで、泰陽の方々にはご存知ないかもしれませんが、彭交の法はいささか変わっておりましてな」


 相変わらず、その顔からは意図は汲めない。


 ――――惑わされてはダメだ。


 耳で老人の話を聞きながら、橙琳の目は周りの男たちを見回す。


「商人は、とかく自分の領域に他人が入り込むのを嫌うもの。見られたくないものなど、いくつもありますからな。できれば、何も見せたくない」


 老人の演説をバックに、男たちが階下へ降りてくる。

 遠巻きに囲まれて、杏怜が橙琳の袂を掴んだ。


「だからね。泥棒などが入ってきても、自分で対処するのですよ。なにせ、警備隊の者すら、入れたくはないのですからね。いつしか、そういうものになった」


 後ろの方に、先ほどの千鳥足がいた。真っ直ぐに歩いている。

 あれも老人の指図だったのか。恐らくは、馬の異変すらも。


「彭交の屋敷の中は、治外法権だ。そういう者もあるくらいです。屋敷の中で殺された男が、その屋敷の主人の覚書を懐に入れていただけで、殺人の罪が問われなかった、という例もある」

「……そんな、バカな」


 蒲星が呻く。

 彭交の屋敷は治外法権。その言葉自体は、橙琳にも聞き覚えがあった。その言葉が、こんなにも実感を持って迫ってくるとは、予想もしていなかったけれど。

 老人の、皺に挟まれた口角が、上がった。


「そちらさんは、ご自分らのすべきことが、まだ、おわかりではなかったようだ。ならばもう少し、お勉強をしていただいた方がよろしいのでしょう」


 いらない。もう充分。大丈夫。

 そんな言葉は、乾ききった喉からは出てくれない。

 それ以上に乾いているはずの老人は、粘りつくような笑みを絶やさず。


「わかりますよ。そちらさんは、まだ子どもだ。子どもは、特に頭の良い子は、すぐにすべてをわかったような気になる。なんでもできるような、つもりになる」


 一言、一言、噛み砕くように。


「大人のやることを見て、真似できるようになる。すると、大人のやることに、ケチをつけるようになる。そうすると、大人よりも上手くできるような、気になる」


 次第に、囲いが狭まってくる。

 杏怜の手に力が籠もった。


「でもね。どんなに上手く真似できようと、どんなに正しくケチがつけられようとも、ね。できることには、ならんのですよ」


 だが、橙琳には、それを握り返すことしかできず。


「いやいや、そうは言っても、わかりますまい。やはり体験してみないことには」


 そう言って首を振る、老人の言葉に、応じたように。

 背後から、二人の男が近づいてくる。


「僭越ながら、私が最も勉強になった体験を、お伝えしましょう」


 静かに、ゆっくりと三人を見渡した老人の視線が、止まる。

 びくり、と、杏怜の身体が跳ねた。


「それはね、何かを失うこと、ですよ」


 小さく、老人が頷いたように見えた。


「――――ひっ」


 息を飲むような悲鳴。

 それは杏怜のものだ。橙琳の袂を掴んだ杏怜の両肩に、男の手が。


「い、やぁっ!」


 ぐい、と。肩を引かれて、杏怜が悲鳴をあげる。今度は、はっきりと。


「やめろ!」


 蒲星が、男の一人に掴みかかろうとする。

 その男は、杏怜の肩から手を離すと、その手をそのまま蒲星の、喉へ。


「がっ!」


 くぐもった悲鳴。

 さらに、するりと背後へ回ると、蒲星をうつ伏せに押し倒して、取り押さえる。


「蒲星!」


 老人の話は、そんな眼下の出来事など、まるで無いことのように、続く。


「子どもにはね、思い込みがある。自分はできる、とか。そんなことはされない、とか。自分は大丈夫、とか。こんなところで死ぬはずがない、とかね」


 蒲星は床に押しつけられたまま、咳き込み、えずいている。

 それでも、右腕がねじり上げられているため、動けない。


「私もそうでしたよ。だからこそ、初めて大切なものを失ったのは、良い体験でした。もう二度と失いたくないと思った。そのためなら、いくらでも臆病になれた」


 杏怜の指が、袂から、橙琳の手の中から、するり、と抜けた。


「杏怜!」


 杏怜が連れ去られていく。悲鳴を上げようとして、口を押さえられて。

 それを見送ってから、屋敷の主は、軽く頭を下げた。


「せっかく起こしいただいたのですから、お一人だけ、拙宅へご招待させていただきましょう。まぁ、これも、そちらさんには、いいお勉強になると、良いですな」


 その口調は、最後まで変わらない。

 当たり前だ。徹頭徹尾、彼らは老人の掌の上だったのだから。


「後のお二人は、すべきこともあるでしょう。馬車はご用意いたしますので、明日の朝には泰陽へお発ちください」


 だから、橙琳は、指先一つ、動かすことができなかった。


「言ったでしょう、時間には限りがある。早ければ、早いほど、失われるものは、少なくて済むかもしれません」


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