夜_倉庫
立ち去る老人を見送った姿勢のまま、しばらくは誰も動かなかった。
気圧された、というのとは少し違う。力ではなく、知恵でもない。それでも現在の彼らではとても歯が立たないなにかで、ねじ伏せられたような。そんな脱力感を、碧流は感じていた。
「――――で、どうするの?」
真っ先に口を開いたのは、橙琳だった。
「まずは、一晩ここで大人しくしてるか、なんとかして抜け出すか。そして、もし抜け出すなら、そのまま逃げるか、黄希を助けに行くか」
選択肢を樹形にして、一つひとつ確認するように。
こんな状況でも、いやだからこそ、彼女はあくまでも議長だった。
「選択肢を増やす必要はない。助けに行く、一択だ」
無駄な議論だと言い放ち、蒲星が皆を振り返る。
「そうね。私たちが何をしようと、黄希には傷つけないと言ったわ。そんな口約束がどこまで守られるかは、わからないけれど」
賛同するように、杏怜が立ち上がった。
碧流は少し意外だった。こういう時は穏健策を取るのが杏怜だと思ったのだが。
「そうだね。こっそり助けられるならそれが一番。それが無理そうなら、その時にまた判断、でいっか。そこさえ踏み間違わなければ、黄希に迷惑をかけることもないでしょ」
軽い調子で、それでも押さえるべきところは押さえて。
座ったままで橙琳がまとめる。
強引に踏み込みさえしなければ、確かに危険はないように思う。
「じゃあ、次はどうやって助けるか、だね。まずは、黄希がどこに捕まってるか、なんだけど――――」
と、橙琳は、そこまで進めたところで。
「ところで、さっきのじいちゃん、誰だっけ?」
誰のものとも知れぬ、ため息が舞った。
「……覚えてないの。」
呆れる杏怜に、橙琳は悪びれもせず。
「じいちゃんなんて、みんな同じに見えるって。まして彭交で会うのなんて、ほとんどがじいちゃんじゃん。個体識別ムリムリ!」
「鄒欽 (スウキン)。大老院の長とも言われた男だ。今日、我々を迎えてくれるはずだった男でもある」
同じく、呆れ顔の蒲星に説明されて、橙琳もぽん、と手を打つが。
「ああ、どうりで見覚えがあるはずだ」
「……うそつき」
誰にも、信じてもらえはしなかった。
「さて、黒幕が鄒欽だったことはわかったけど、そこから導き出せそうな、黄希の居場所って、どこかある?」
真顔に戻った橙琳に振られ、杏怜が人差し指を顎に当てる。
「う〜ん。。。お屋敷の場所は知っているけれど、別邸まではわからない。倉庫とまでなるとそれこそ星の数だろうし、急拵えの貸家という可能性もあるし、、、」
肩をすくめて、お手上げのポーズ。
それを引き取ったのは蒲星だった。
「あの口振りを信じるなら、倉庫に押し込めたり、間に合わせの家に住まわせたりはしないように聞こえたがな。さすがに本家はないだろうが、匹敵するようなどこかには匿っていそうだ」
碧流も、鄒欽老の言葉を思い出す。
『できる限り、存分に、もてなさせていただきますよ』
あれが本当なら、黄希の居場所は、彼の心が行き届かない場所ではないだろう。
「ってことは、そういうのに使えそうな、別邸なり別宅なりの位置を特定するのが手始めだね」
まだ五里霧中ではあるが、倉庫の可能性が減っただけでも大きな進捗に感じる。
同時に、こちらは倉庫に寝台置いただけかよ、という不満も湧くが。
「誰か、知っていそうな者でも捕まえて、絞りあげられれば楽なんだがな」
大僧正の息子らしからぬ発言をする蒲星。
今度は、杏怜がそれに応えて。
「そう言えば、知っていそうな方なら、そこにいるんじゃなくて?」
全員の視線が重なって、同時に大きく頷いた。
倉庫の外。離れる馬車の音は、まだ一つしか聞こえていない。
「じゃあ、次は、教えてもらった後の行動予定だけど――――」
橙琳が筋道を立て、蒲星と杏怜が提案して、再び橙琳がまとめる。
決断役の黄希はいなくとも、そもそも彼らに迷いはなかった。
友が苦しんでいるのだ。救う以外に道はない。
「――――さぁ、来い」
壁を背に、蒲星が腰を落とす。
膝を深く、両手はその前で組まれている。
その気迫に、吸い寄せられるように。
「行きます」
碧流は走り出した。蒲星へ向かって。
互いの視線は、互いだけを見つめて。
ぴたり、と合った呼吸。
寸時のズレもなく、碧流が跳ねた。
蹴り足とは逆の、左足を蒲星の両手の上に。そこでさらに深く踏み込んで。
同時に、蒲星の身も沈むのを感じる。二人分のバネが、極限まで縮んで。
弾けた。
蒲星に打ち上げられた碧流の身体は、そのまま真上へと舞い上がり、壁の最上部、梁の手前に開いた、風通しの窓の枠へと、真っ直ぐに。
「あ、ちょい飛びすぎ!」
小声で、でも鋭く。橙琳の警告が飛んだ。
勢いが付き過ぎだ。このままでは、梁にぶつかる。その、瞬間。
碧流の両手は、狙いを窓枠から、その梁へと変更する。
両手で梁を掴んで方向を変えつつ、勢いを殺すことなく身体を持ち上げて。
真上への力が消えたのに合わせ、振り子の要領で身体を振り下ろす。
その両足は、当初の狙い通り、風通しの窓を塞ぐ板戸へと向かって。
「やった!」
杏怜の歓声に送られて、碧流の身体は板戸を跳ね上げ、窓をくぐり抜けて、そのまま倉庫の外へと飛び出した。
だが当然、外には掴まるものなど何もない。
放物線を描いて飛び出した碧流は、やがて自由落下で地面へと叩きつけられる。
その途中で。
「ぐふっ。」
腹部に急激な圧力がかかって、身体の空気が抜けた。
碧流の身体を中空に止めたのは、その腰帯に結ばれた、綱状のシーツだった。
倉庫の内から伸びたシーツが窓枠にかかって、碧流は再度振り子運動を始め。
そのまま倉庫の壁へと戻ってくる。まずまず、勢いよく。
「げふっ!」
碧流は、板の優しさを感じた。これが柱だったら、これでは済むまい。
「大丈夫〜?」
倉庫の内から届く、心配の伝わらない橙琳の声に。
「……大丈夫で〜す。今、解きます〜」
宙ぶらりんのまま応えて、碧流はなんとか帯に結びつけたシーツの端を解く。
「ぐえっ。」
これで倉庫の中から、窓を通って壁を乗り越え、外へと抜けるシーツの道ができた。壁への激突に続いて、解いた拍子に地面にも落ちたが、高さがなかったこともあって、どちらも怪我はなし。まぁ、随分と無様ではあったろうが、目撃者がいなかったのでよしとする。作戦は成功だ。
解いたシーツを二度引いて、中へ合図を送る。
中からも同じく合図が返ってきて、シーツが強く引っ張られた。慌てて、全体重をかけて支える。
初めに橙琳が、続いて杏怜が、そして最後に内側の端を押さえていた蒲星が抜け出てきた。蒲星は特に厚みがある分、窓を抜ける時に苦労しながら。
「第一関門、突破だな。碧流が思ったより軽くて驚いたが」
音もなく飛び降りた蒲星が笑った。碧流は苦笑を返すしかない。
すぐさま橙琳と杏怜が引っかかったままのシーツを引っ張り下ろして、小さくまとめて、物陰へ。これで怪しまれることもない。
その手際を眺めている間に、蒲星は早くも次の関門に掛かっていた。
足音を殺して、倉庫の正面へ。
そこには、碧流たちが連れてこられた時のままに、馬車が停車している。
怪しい影に気づいたのか、馬が小さく鼻を鳴らした。馬装を外され、手近な樹に繋がれている。近くに、御者の姿は見えない。
蒲星はさらに近づく。
倉庫の陰から覗く碧流の隣に、橙琳が並んだ。いつでも飛び出せるよう、姿勢を低く。杏怜は後ろに控えているようだった。
馬車の隣まで近づいた蒲星が、窓から中を覗く。
すぐに視線をこちらへ寄越して、大きく頷いた。御者は、中にいるようだ。ここまで反応がないということは、もう眠っているのか。
それを受けて、橙琳が蒲星の元へ走り出す。
しかしそれも待たず、蒲星が馬車の扉に手を掛けた。
一気に開き、飛び乗る。
馬車が大きく揺れたのは、一度だけ。
「大人しく、降りろ」
外から掛けられる橙琳の声。
蒲星がゆっくりとその大きな身体を外へ出して。
続いて御者が降りてきた。無抵抗を主張するように、両手を上げながら。
御者が蒲星と橙琳に挟まれたのを見てから、碧流と杏怜も近づいた。
「余計なことはするな」
それは連れてこられた際の意趣返しか。両手を腰に当てた橙琳が命じる。
御者はもう逆らう気もないように、両手を上げたまま、等分に四人を見回した。
「答えろ、黄希はどこにいる?」
蒲星が詰め寄る。
御者は一度だけ蒲星へ視線を返すと、大きなため息とともにうなだれた。
「――――住所を言って、わかるのか?」
黄希の軟禁場所の住所と行き方、念のために近くの目印まで聞き出して。
蒲星は御者の両手を後ろに縛ると、馬車の中へと放り込んだ。こうしておけば、自力では扉を開けることもできないだろう。鄒欽も、四人が泰陽に向かったかどうかの確認ぐらいはするだろうから、遅くとも明朝には助けてもらえるはず。
後は、それまでにこちらが黄希を救えるかどうか、なのだが。
「ではな、碧流。そちらは任せたぞ」
そう声をかける蒲星と、手を振る二人と別れて、碧流は別の道を進む。
碧流に任されたのは、彭交の警備隊への通報だった。
彭交の警備隊は大老院に逆らわないとは聞いているが、さすがに皇太子の身柄を押さえられてなお、大老院側に付くとは思えない。少なくとも、この通報が大老院側へ伝わることはないはず。警備隊が黄希の奪回に動いてくれればよし。それが無理でも、泰陽へ救援を要請してくれれば充分だった。
その後、碧流は上手くいけば警備隊の馬車で、それが無理なら乗合馬車で、泰陽へと向かう手はずだった。最悪、三人が捕まっても、泰陽を動かすためだ。
奪回と通報の二面作戦。
そして、碧流には、自分を潜入から外した三人の考えもわかっていた。
学院生とはいえ、あの三人は有名だし、家柄を含めた後ろ盾もある。何かがあれば、余計に傷を広げることに繋がる。そう考えれば、いかな大老院とは言えど、そうそう物騒な手は使えないだろう。
それに引き換え、流族の碧流には後ろ盾がない。そのため、新たな人質にされる可能性すらあった。それも、実際に手を出せる人質、としてだ。
そこまで踏まえれば、彼らの立てた作戦に、異論があるはずもなかった。
それでも。
碧流は、三人の背中を振り返った。
そこに感じる、一抹の不安。
それは、あの老人に感じさせられた脱力感に起因している。
彼らが、いや碧流も含めた四人が、あの老人を出し抜くことなどできるのか。
それでも。
彼らは決して、後ろを振り向くことはなかった。




