夜_郊外
パチパチ、と。薪の爆ぜる音が聞こえる。
視界の中に、炎は見えない。後方からは、ぼんやりとした明るさが伝わってくるから、首をひねれば見えるのかもしれない。
だが、黄希はそれをしなかった。
彼の視線は、小さな円卓を挟んで向かいに座る、仮面に向けられていた。
柄も模様もない暗緑色一色の服に身を包み、同色のフードを被っている。
手は長い袂に、足は同じく裾に隠れ、首元にまで同色の布を巻いている。
そして顔には、劇で使うような仮面。
肌も、髪も、瞳も、すべてを隠したソイツは、最初からそこにそうしている。
この屋敷に連れて来られた時、黄希は拘束されてはいなかった。
鄒欣に促されるまま馬車を降り、二人の男に挟まれながら門を潜った。
途端に、黄希は押し倒され、押さえつけられて、縄で縛り上げられた。
そして、この部屋に運ばれて、椅子に縛り付けられたのだ。
その時から、ソイツはずっとそこにいた。一部始終を、黙って見ていた。
鄒欣も、縛られて、視界の端に転がされている。猿轡もされているようだ。理由は、黄希にはわからない。二人の男がどうなったのかも、わからない。
仲間割れか、騙されていたのか、それとも、こうなる予定だったのか。
呻き声一つあげない鄒欣を、黄希は心配している。
攫ってきた犯人を心配するというのもおかしな話だが、彼には、皇太子に対する敬意があった。理由も、狙いも、はっきりしているし、正直、共感もできる。
しかし、正面の仮面にそれはなかった。
理由も、狙いも、語りはせず、男か、女か、ともすれば、人間かもわからない。
であれば、いかな黄希とても、ただ大人しく、縛られているしかなかった。
「――――何も、言わないのだな」
初めて聞いたその声は、押し殺したようでいて、妙に高い、やはり男とも女ともつかないものだった。
「話を始める権利が、こちらにあるとは、気づかなかったものでな」
黄希は視線を動かさずに答える。
話しをする相手なら、やりようはある。
「そうか。王公たるもの、常に主導権を掴んで離さないものかと思ったが」
「意外と見識が狭いのだな。王公も日々進化するものだ」
軽口の応酬。
とりあえず、相手は王公ではなさそうだ、と予測を立てた。
「それで、主導権を与えてやったら、何を話す?」
「別に。期待させて悪いが」
知りたいことならいくらでもあったが、こちらから探るのは好みではない。
煽ったくらいで、口を滑らせるような輩でもなかろう。
「つまらぬ男よな。では、こちらから訊こうか」
黄希が手放した主導権を、相手の方から握ってきた。
もう少し、無駄なやりとりが続くかと思ったが。
「香の王になったら、何をする?」
その質問は、さらに意外なものだった。
だが、この手の問いに遁辞を構えることは、黄希にはできない。
「変わらぬよ。国中の民の平穏を守る」
「小さいな」
即座に戻されたのは、失笑。
黄希は、あえてそれを平然と受けて。
「そうか。オレには一生の大望と考えているが」
「四国を併合して、嵩泰を一つにする、くらいのことは言えないか」
煽りか、誘いか。
いずれにせよ、黄希の前には正道しか見えない。
「言いたくもないな。今どき、剣を振るって、血を流して、でもあるまい」
「流行に敏感な方だったとは、恐れ入った」
声に出して、嘲笑う。
黄希も口元に笑みをたたえて。
「そちらは、どうにも時勢に疎い方のようだ。どうだ、そのような仮面など取って、市井に顔を出してみては」
「……これが、気になるか?」
すう、と。
仮面の頰を撫でてみせたその手は、やはり手袋に包まれている。
「残念だが、輝かしい皇太子の御前に晒せるような容貌ではない」
「気にされるな。容姿など、取るに足らぬもの」
突然、仮面が弾けるように、笑い出した。
暗緑色の人差し指が、黄希を指して。
「それが、不足を知らぬ者の言葉だ」
呪いを、かけられたかのように。
黄希の背筋に、冷たい汗が伝う。
仮面はなおも嘲笑っている。
それへ、向けて。
「すまなかった。意識してではないが、礼を失した。詫びさせてもらう」
仮面の笑いが、止んだ。
椅子に縛り付けられたままの皇太子は、できうる限り深く、頭を下げていた。
四方の支配者の証である、皇冠を載せるべき、その頭を。
仮面が見つめる間も、黄希の姿は変わらない。
「顔を上げられよ。一度吐かれた言葉は、いかようにされても戻ることはない」
許されたわけではなかったが。
その言葉を受けて、黄希が顔を戻した。再び、視線が交わされる。
仮面に感情は映らず、黄希の表情も変わらない。
それでも。
「本当に、つまらぬ皇子だ。命乞いもせず、逃亡もせず、他者の心配もせず、懐柔も、説得もしない。へりくだって靴でも舐めれば、救われる命もあろうほどに」
少し、風向きは変わったようだ。
「生憎と、芸の少ない男でな。よほど暇にでもなれば、どれか一つくらいやってみるかもしれんが」
くつくつ、と。
仮面の奥が、楽しそうに笑った。
「惜しいな、これで覇者であれば、歴史にその名を刻めただろうに」
仮面の言葉は、どこまでが本心だったか。
「興味はないな。後世でどのように語られようと、今のオレには関係ない」
「ますます惜しい。これで、せめて、孝子でさえなければ、な」
初めて、黄希の眉根が寄せられた。
「ほう。孝行息子と、失望されることがあるとは思わなかった」
「いや、お主の責任ではあるまいて。だからこそ、どうにもならぬこともある」
くつくつ、と。
惜しいという割には、その笑声はやけに愉しそうで。
「孝子であると貶され、さりとてオレの責任ではないと言われる。これでは一体、どうしたものか」
口調は変わらず。だが、その中には、どうしても、感情が混じってしまう。
「わからぬか。気になるか。いや、実は、わかっているのであろう」
仮面は、そこをくすぐるように。
「興味はない、と捨ててしまえば、違える道も無くなるかもしれぬぞ」
「これでも、人並みの好奇心はあるのでな。どう脅されようと、自分の評くらいは気になるさ」
煽られているとわかりつつも、黄希には止めることができない。
孝子であることが罪で、しかも黄希の責任ではないのなら、悪いのは――――
「だから、お主の評ではないと言っておるに。悪いのは、そう、お主の――――」
唐突に。
仮面の言葉が止まった。
「残念だったな。時間切れだ。もっと早くから、語り始めればよかった、か?」
くつくつ、と。
嘲るような笑い声だけを残して。
――――待て。
呼び止めそうになるのを、黄希は喉で止めた。
待つはずがない。だがそれ以上に、待って欲しくなかった。
続きを、言葉にされたくなかった。
パチパチ、と。薪の爆ぜる音が大きくなっていた。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
夜闇の中、馬車はわずかな灯火だけを頼りにひた走る。
刻はもう深更を過ぎ、傾いた弦月も、今は見えない。
黎勾の邸宅は、彭交の郊外の、さらに外れた場所だった。
一等地に居を構えるほどの商人ではないが、それにしても外れ過ぎている。
鄒慶に聞けば、店は市場の外れ、倉庫も倉庫街の外れと言う。新興だから良い立地を取れなかったと言えばそれまでだが、むしろあえて目立たない場所を選んでいるようにも思えた。
「あそこです!」
御者台に座った鄒慶が叫んだ。
蒲星が窓から身を乗り出す。鄒慶の馬車は泰陽から乗ってきたものほど豪華ではなかったが、その代わりに大きな窓がある。
「怪しい雰囲気だね」
反対側の窓から顔を出して、橙琳が呟く。
その邸宅は、森に抱かれているように見えた。
幅は小さいながらも、しっかりとした二階建て。印象はこじんまりとしているが、ぐるりと囲む植木は屋根へも届くほど。やはり、その窓すら覗かせない。
「どうします?」
鄒慶が、御者台と繋がる小窓から顔を見せる。
すぐに碧流が小窓に張り付いて、屋敷の全景を見つめた。
だが、答えは窓の外から。
「突っ込みましょう。門さえ抜ければ、どうにかなる」
蒲星の意見は物騒ではあるが、ここにきて他に策はない。
強硬策は二の舞を踏む可能性もあるが、ここで二段の罠を張る意味もないだろう。程統の話からも、鄒欣老にあの周到さは窺えない。
「はい!」
鄒慶が強く頷いて、御者へも同じ指示を出した。
馬車は速度を落とすこともなく、その門へ向けて直進する。
「そんなこと言っても、馬車で門に突っ込んだら、馬、大変よ?」
どこか呑気な杏怜の声。
しかし、それに答えたのは、まさかの御者だった。
「鄒慶様、門が開いています」
杏怜を除いた全員が、距離の近づいた門に目を凝らす。
突っ込むとは言っても、門の前までと思ってはいたけれど。
門は、ほぼ全開まで開いていた。
「よし、突撃〜ッ!!」
最大の関門を除かれて、蒲星が右拳を突き上げる。
彼の脳内では、今まさに進撃の太鼓が打ち鳴らされているのだろう。
しかし、鄒慶の指示は。
「門の中へ入れて、止めてください。馬車は、そこで待機で」
当然ながら、至極、現実的なものだった。
充分に減速して、馬車が敷地内へ乗り入れる。
待ち切れず、蒲星が窓から飛び降りて。
「おい、どうした、何があった!?」
すぐに、その場に屈み込む。
御者台から鄒慶が、馬車の扉が開いて他の三人も続いて降りて。
「これは、父の可愛がっていた護衛の者たちです」
鄒慶が、一人を助け起こしながら説明する。
倒れていた男は二人。気を失っているらしいが、念入りに、手も縛られていた。
黄希と鄒欣はいない。
「ここは任せます」
そう言って、蒲星が屋敷へと飛び込む。
碧流がすぐ後に続き、杏怜も倒れた男たちの顔色を確認してから、中へ。
内門はなく、最後に橙琳が両開きの玄関をくぐると、そこがロビーだった。
「……また、誰もいない?」
杏怜が周りを見回している。
結構な音を立てたはずだが、集まってくる気配は一切ない。
それどころか、どこか、生活感がない。本当に、ここに人が暮らしていたのか。
躊躇なく、橙琳が正面の大扉を開く。中は大広間。その向こうは中庭のようだ。
ごく一般的な造り、調度。すぐにでも会食が開けそう。だが、個性がない。
なんとも言えない気持ちの悪さを抱え、大広間から出てきた橙琳に。
「どっちだ?」
辺りを警戒していた蒲星が訊いてくる。
橙琳は、妙な気持ちを振り払うように、指で頭をとんとん、と叩きながら。
「造りはさっきと似てる。黄希がいるとしたら、たぶん二階」
大雑把に間取りを想像して、右の階段を指す。
大広間と中庭から見て、四合院の簡素版なのだろう。方角は適当だが。
それでも階段を登った先が客室だろうとは予想がつく。ただ。
――――なんだろう。
何かを見落としているような、胸騒ぎがした。
「急いだ方がいいかもしれない!」
自分でも、わけもわからぬままそう叫んで、橙琳が走り出した。
事情はわからないままで、三人も続く。
駆け登った先、廊下は二方向へ分かれていて。
正面の扉を開ければ、恐らくさっきの大広間を見下ろす回廊へ。
そして右手には、やはり客室らしい扉が並んでいる。ただ、それ以上に。
「火!?」
その廊下の突き当たり、頑丈そうな両開きの扉の前で、うず高く積まれた薪が燃えていた。
「ふざけるな!」
蒲星が扉に向かって駆け出した。すぐに橙琳も続く。
ようやく見えてきた扉の取っ手に、太い鎖が何度も巻きつけられていて。
蒲星は、そのままの勢いで、扉に身体をぶつける。
「危ない!」
背後で杏怜が叫び、弾き返された蒲星に駆け寄った。
蒲星の肩はなんとか扉までは届いたが、破るには遠く及ばず。
むしろ燃えた薪が崩れて、その身体に降り掛かっている。
慌てて、杏怜がその袂で、火の粉を振り払った。
しかし蒲星は自らのことには頓着もせず。
「黄希!」
炎に炙られながら、扉の向こうへと叫ぶ。
「黄希! いるのか!」
「――――蒲星、か」
中からは、苦しげな、それでもはっきりと、懐かしい声が。
「黄希! 無事なのですか!?」
杏怜も叫んだ。
それに応えた声は、咳混じりではあるものの、いつも通りの調子で。
「怪我はない。ただ、煙がすごくてな。あと、椅子に縛りつけられている」
中も、燃えているのか。
「それを早く言えよ、馬鹿野郎!」
不敬丸出しの暴言を吐いて、蒲星が再び扉から距離を取る。
「無茶だよ、あの扉は破れない!」
その前に立ちはだかったのは橙琳。
炎がなくとも、あの扉を破る前に蒲星の肩が壊れる。
「何か、探してきます!」
碧流が階下へ走る。厨房か、納屋のような所を目指すのだろう。
「待ってられるか!」
蒲星の巨体が、碧流を追い越して、駆け抜けた。
目的地は、大広間を見下ろす回廊。いや。
蒲星はそこも駆け抜けると、中庭へと張り出したバルコニーへと飛び出した。
「……本気?」
窓越しに、橙琳が半笑いで呟く。
だって、もう、笑うしかない。
信じたくないけど、あの蒲星だ。残念だけど、本気以外にあり得ない。
そんな視線を受けて、案の定、蒲星は飛んだ。
狭いバルコニーで強引に助走を取って、手すりの角を思い切り蹴って。
橙琳がいる廊下の、屋根を目掛けて。
ガシャンガシャン、と。
けたたましい音を立てて、天井から轟く着地音。
どうやら、落ちはしなかったようだ。数枚の瓦以外は。
「……本気、だったね」
ぽつり、と。杏怜も呟いた。
落ちなくて、本当に良かった。これ以上怪我人を増やされても、対応順が決められない。
ガシャガシャと派手に音を立てながら、蒲星が屋根の上を移動していく。
橙琳と杏怜は、他に為す術も無く、その真下であろう辺りを付いていく。
やがて、黄希のいる部屋の上まで辿り着くと。
「黄希! 窓から離れてろ!」
言っても、縛られてるから。
そもそも聞こえているかどうかもわからない警告とともに。
蒲星が、再び宙を舞う。
窓の真上の庇を掴むと、空中で身体を翻す。
後は振り子の要領で、そのまま、部屋の中へと突っ込んだ。
「……木製で良かったね、窓枠」
「……炎に飛び込んだり、しなかったのかな」
もう二人とも呆れるしかない、が。
蒲星が飛び込んだ窓からは、もくもくと大量の煙が溢れ出してきて。
それで、結構な危機だったことを思い出す。
「中から開けられるの、扉!?」
橙琳が扉に駆け寄って、叫ぶ。近寄るだけで、すごい熱気だ。
すぐに蒲星の大声が返ってきて。
「無理だ! 中からも焼いてる!」
両面焼きか。
いっそ燃え尽きるのを待つ方が早そうだが、中の人はそれまで待てまい。
「鄒欣さん? 鄒欣さん!」
中からは、取り乱す蒲星の声が響いている。
どうやらあの老人も中にいるらしいが、一体どういう状況なのか。
ともあれ、今はなんとかして、無事に外に出さなくては――――
「蒲星! 外です! 中庭!!」
外から届いたのは、碧流の声だった。
見ると、先ほど蒲星が飛んだバルコニーから身を乗り出して、なにやら下を指差して。……下? そうか!
「蒲星! 飛んで! もう一回!」
碧流の意図を理解して、橙琳も扉に向かって叫ぶ。
「蒲星! 黄希!」
――――お願い。届いて。
もう一度、窓枠の砕ける音がした。
二つの窓から飛び出したのは、黄希と、老人を抱えた蒲星。
二つの影は、放物線を描いて、中庭へ。
その中央にある、プールへと。
だぱ〜ん、と。
二人と少し分の水飛沫が舞い上がった。
深さなんて、確認してはいない。
上からの三人の視線が、四角い水面を彷徨う。
この暗さでは、赤く染まっていようとわかりはしないが。
やがて、わずかの間を置いて、浮上してくる、二つの影。
ああ、泳いでいる。大丈夫だ。
「まさか、中庭のプールにまで感謝する日が来るとは、夢にも思わなかったよ」
肩からも膝からも力が抜けて、その場にへたり込もうとする橙琳を。
「良かったねぇ。でもほら、今はここが一番危ないんだから」
穏やかに笑いながら、杏怜が屋外へと急き立てる。
ここまできて、二人が火災に巻き込まれたんじゃ、冗談にもならない。
慌てて駆け出す橙琳の元に。
「寒いわ、馬鹿者ッ!!」
珍しい、皇太子の怒声が届いた。




