夜_別邸2
怖かった。
痛そう、とか、辛そう、とか、気持ち悪い、とか。
そういったことではない、もっと根元的な、恐怖。
背筋がぞくぞくして、腰の後ろがさわさわして、歯の根が合わなくなりそう。
次は自分の番、ということはない。それはわかっている。
たぶん、橙琳はこのまま、大人しくしていれば、明日には解放される。
橙琳の番は回ってこない。
でも、杏怜は。
ふと。今、杏怜が遭っているかもしれない状況が想像されて。
お腹が、鉛でも飲んだかのように、重くなる。
いやだった。
嫌悪感とか、不快感とか、そんな堅い言葉ではなくて。
もっとぶよぶよとして、ぬめぬめとした。
もう生理的に、ただ、いやだった。
それが、たったの、壁一枚向こうで。
何も聞こえないのに、耳を塞ぎたくなる。
寒くもないのに、身体を抱きしめたくなる。
自分を、思いつく限りの言葉で罵って、蔑んで。
両手が壊れるまで、壁でも、床でも殴り続けたくなる。
でも、ダメだ。
橙琳に、そんな資格はない。
その証拠に、涙なんて、一粒も出ない。
自分を責めるのは、自分を許すのと一緒だ。
自分を傷つけるのは、自分を慰めるのと一緒だ。
だから、与えられた寝台の上で、惚けたように、ただ座っていた。
わだかまる吐き気を抱えながら。
蒲星は、寝台の上に寝転んでいた。
最初は暴れていたように思う。閉められた扉に体当たりをしたりして。
部屋の中を調べて、使える物はなくて。
窓を調べて、鉄の格子の嵌め殺しで、どうにもできないことがわかって。
後は、杏怜を助けられなかった自分を責めていたように思う。口に出して。
それが、正しい反応なのだろう。
できるとか、できないとか、頭で判断するのではなく。
資格とか、そんなことも考えずに。
ただ、心のままに。
でも、橙琳には、それができなくて。
蒲星を責めることも、許すこともしなかった。
自分が、されたくなかったから。
今もそうだし、あの時もそうだったけれど。
橙琳は、心よりも先に、頭で行動を決めてしまう質だった。
心が、頭に逆らえない、と言った方が正しいか。
二十人からの、本職の護衛に囲まれて、武器もなく、逃げられるはずがない。
不意をついて、一人や二人を倒せたとしても、杏怜を守り切れるはずもない。
あの老人が、周到に三人を誘い込んだ老人が、そんなことを許すはずがない。
そう考えてしまった時点で、橙琳の頭は、抵抗を諦めた。
頭が諦めたら、心はそれに従うだけ。
頭も心も諦めているのに、身体が動くはずもなく。
ただただ、無為に、杏怜を見送った。
その結果が、これだ。
だけど。
なによりも、救われないのは。
橙琳は、また次に同じ状況になった時、きっと同じように動けなくなる。
ああすれば良かった、とか、こうすれば良かった、はない。
だって、もう、詰んでるんだから。
橙琳はまた、為す術もなく。
親友を失うのだ。
だから、涙も出ない。
これは、決まっていたことだから。
橙琳には、杏怜に許しを乞う資格もないのだから。
最初は、何も気づかなかった。
ただ、蒲星が身じろぎをしたのだと思った。
次いで、なにかを耳が拾って。しばらく機能していなかったから、判別できず。
三度目で、ようやくそれがノックだと気づいた後、今度は扉が開く音が響いた。
橙琳の背筋を、恐怖が這い上った。
すぐにそれが、最悪の感情だと気づく。
扉が開いた時、橙琳は一瞬、杏怜が帰ってくることを想像した。
それは良いことのはずなのに。
橙琳の心は、掛ける言葉もない自分が、どうしようもない自分が生まれることを、潜在的に拒否したのだ。恐怖という感情でもって。
だがそれも、すぐに頭が打ち消す。
橙琳を責められるのは、責めていいのは杏怜だけだ。
そうなれば、すべてを受け入れるしかない。受け入れればいい。
心がそれに従って、もう一度視線を上げた時。
そこにいたのは、杏怜ではなかった。
「失礼、いたします」
あの老人ではない。服装からして、護衛の一人でもない。
初めて見たその若い男は、丁寧な所作で、手燭の火を壁の燭台に移す。
「明かりの一つも灯さなかった、ご無礼をお許しください」
今の二人は虜囚だ。許す権限などない。
男は、同じく持参した椅子に腰を下ろすと、まず二人の様子を眺めた。
蒲星は、上体こそ起こしていたが、積極的に口を利くほど立て直せてはいないようだ。常の蒲星からは考えられないような姿勢のまま、客である男を迎えている。
橙琳は変わらず、寝台に浅く腰を掛けている。
男はひとまず、二人が聞く耳だけは持ったことを確認したようで。
「お初にお目にかかります。当家の主を継ぎました、鄒慶 (スウケイ) と申します。失礼とは存じますが、重ねて、お願いに上がりました」
慇懃に頭を下げた。
そう言えば、来る途中に蒲星が話していた気がする。代替わりが、どうとか。
「まずは、父の致したこと、深くお詫びさせていただきます」
もう一度、先ほどより深く、頭を下げる。
橙琳も、蒲星も、何も言わない。
口を開けば、怒声か罵声しか出てこないだろうが、その元気もない。
「父のしたことは決して許されることではございませんが、そうせざるを得ないほど追い詰められていた、ということだけは、ご理解いただければと思います」
歳の頃は三十代半ばか。すらりとした体型は、あの萎んだような老人とは結びつきにくい。やはり、あの嗄れ声からは想像できない張りのある声で、男は続ける。
「改めて申し上げますが、これは決して、当家の、いや、彭交だけの利益を守るために申し上げていることではございません。守るべきは、泰皇国全体」
男の言葉に熱が籠る。
「規模の小さい商人ほど、他に見えない隙間を狙って儲けを上げているものです。しかし、今回の制度は、その隙間をすべて塗り固めてしまおうというもの。自ら苦心して作り上げた販路を不当な利益と断じられば、商人に立つ瀬はありません」
水が流れていくような説明を聞きながら、橙琳はぼんやりと思い出していた。
そうだ。最初は、この新しい制度のどうこうが発端だったっけ。
「商人は生産者とも繋がっています。それぞれの商人が生産者を思い、生産者も商人に恩を感じるからこその繋がりです。それを無視して、商売は成り立ちません」
わかったから。
「また、国に言われるがままに荷を流すだけの商人が増えれば、経済は停滞するでしょう。そうなれば、立ち行かなくなる商人は増えるばかりです」
もう、いいから。できることなら、なんでもやるから。
「限られた大商人のためなどではなく、泰皇国中に散らばるすべての商人たちのため、無理を押してもご再考をお願い申し上げているのです」
杏怜と、黄希を、返して――――
「中央議会への陳情の件、お願いできますでしょうか」
男が詰め寄る。その真剣な眼差しに。
橙琳の中で叫んでいた心が、頭に押さえつけられた。
「お断りいたします」
白刃で斬り捨てるがごとく。
男が目を見開いた。
この状況で断られることなど、想像もしていなかったのだろう。
やはり、この男も、あの老人には届かない。
「皇太子を拉致した犯罪者から、皇太子の命と引き換えに法を曲げろ、と要求されて、従う政府があるでしょうか。また、そんな政府に民は安堵を覚えましょうか」
寝台の上で、背筋を伸ばし、真っ直ぐに鄒慶の瞳を見つめ返す。
「あなたが泰皇国中のすべての商人を思うのであれば、私は泰皇国中のすべての民を思っています。その上で、このような要求を飲むことはできません」
男の瞳に浮かぶのは、当惑。この先は用意していなかったか。
主張は終わっている以上、ここで拒否されてしまえば、あとは脅すしかない。
しかし、一度見せている脅しを何度も振るうのは三下の仕事だ。
それを承知で、まだ既知のカードを切ってくるようなら――――
「鄒慶さん。お願いしていた流れと、違うように思うのですが?」
突如割り込んできたのは、聞き覚えのある声だった。
部屋の扉が音もなく開いて、姿を見せたのは、やはり見覚えのある、小さな。
「――――碧流」
「すみません、遅くなって」
申し訳なさそうな、その笑み。なんだか、もう随分前に別れたような。
そして、その後ろから。
「橙琳!」
碧流を押しのけるようにして入ってきた女性は、そのまま橙琳が腰掛ける寝台へ飛び込んできて。
「――――杏、怜。」
座った姿勢では受け止めきれず、二人はもつれ合うように寝台に倒れ込んだ。
「橙琳、橙琳、、、」
橙琳の胸に、温かいものが染み入っていく。
何度も何度も橙琳の名を呼びながら、強く強く抱きついてくる。
橙琳も、その柔らかな髪を撫でた。何度も、何度も。彼女が落ち着けるように。
その髪こそ多少乱れてはいたが、着衣に乱れはなく、怪我の様子もない。
無事だ。
「橙琳、ごめんなさい! 本当に、私、、、」
唯一、涙でぐちゃぐちゃに乱れた顔を上げて、いきなり杏怜が謝罪をくれた。
なんのことかわからず、きょとんと返す橙琳。
「私、橙琳が何度もやめようって、引き返そうって言ってたのに、大丈夫だって言って、無理して、あんなことになって、、、」
橙琳は、やめよう、なんて、引き返そう、なんて、一度も言ってはいない。
何度か、思っては、いたけど。
「私、足を、引っ張りたくなくって、二人に、ちゃんとできるところを見せたくって、だから、だからぁ、、、」
もう一度、べちゃべちゃの顔が、橙琳の胸に押しつけられる。
その、子どもみたいな泣き顔を見ていたら。
「バ〜カ。そんなの、全員の責任でしょうが。私だって、もっと、ちゃんと止めていれば――――」
胸の中でふるふると揺れる、細い細い金糸のような髪に。
一粒の涙が落ちた。
ごめんね、杏怜。私も、また今度、ちゃんと、謝るから。
今は、こうして。
橙琳は、杏怜の頭を撫で続けた。
少しでも早く、親友がいつもの美人に戻れるように。




