八日目(一)
前にツノに教えてもらった木の箱を取り出す。その中の住人の記録を千代は眺めていた。
よく眠れぬまま――浅い眠りが癖付いてしまいそうだ――早朝を迎えてしまいこうして過ごしている。まだ他には誰も起床していない様子だった。ヒトミもいつも早起きという訳では無いようだ。ツノはともかくとしてオッポやベニはいつも少し遅めに起きてくる。
千代はまだ温かい、と言われた。それはまるで今後冷たくなるのが当たり前だと言われているようだ。あんな死人のような体温に千代もなってしまうのだろうか。
残された記録の中にも特に体温に触れている者は居ない。やはり千代のように変化せずに此処にやって来た者など居なかったという事なのか。
「んっ……?」
紙が二枚重なっているものがあったようだ。慎重に剥がす。
――あの子は恐ろしい。
そんな一文が目に入った。思わず身近な少年の事を連想してしまう。
――縛っても閉じ込めても抜け出される。あの子は遊んでもらっていると思っているらしいが、皆は気味悪がっている。
――何故あの影にしか見えぬ者らと会話が出来るのか。
――あの大きな目は何もかも見透かしているようだ。
「――おはよう」
「わ! うわ! あ!」
没頭していた千代は、すぐ隣から掛けられた挨拶に動転してしまって、持っていた紙を宙に放り投げてしまった。
犯人はにんまりと意地悪な笑みをしている。
「こんな簡単な事で、こんなに驚いてもらえるなんてね」
「ツ、ツノさん……! もうっ!」
お返しにと、笑っている肩をぺしり叩いた。まだ心臓が煩い。胸元を掴み、意識して呼吸して息を整える。
ツノはおざなりに謝りながら、文机の向こう側に座り直す。
「思い詰めた顔をしていたようだけど」
「はい、それはもう、とっても良い息抜きになりましたっ!」
やけくそと叫ぶ千代を、男は穏やかに笑って受け止めている。
男に心配をかけていたらしい。確かに体に入っていた余分な力は抜けたかもしれない。しかし、少々の恨めしさを込めた目をツノに向ける。
そしてツノは千代が落とした紙に目をやった。
「それは……、ヒトミと同時期に居た人の」
「知っていましたか」
彼は腕を組んで、伏せがちに視線を落とす。
「僕が此処に来た時、……あの子は一人きりだったんだ」
「一人……?」
「他に誰も居なくて寂しかったのだろうね、寝食も厠も暫く何をするにも一緒だったよ。みすぼらしい襤褸切れにやつれて痣だらけで、今よりももっと話し方も拙くて……」
徐々に声が消え、ツノは瞼を下ろす。
千代は落とした紙に目をやった。
ヒトミはかつて苛めを受けるほど他の住人に嫌われていたのだろう。信じられない。あんなにも明るくて無邪気で良い子で、……いや不穏なところもあると言えばあるか。
自由なようでそうでないこの世界で、不満の捌け口にされていたのか。
「ど、どうして、他の方は居なくなってしまったんでしょうか……」
記録には『皆』と書かれているからそれなりの人数と過ごしていたはずだ。ヒトミに嫌われたから、居なくなってしまったのか。益々その説が濃厚になってしまう。
「さてねえ」
ツノはそう軽く返した。
「千代さんみたいな特殊な場合もあるし、そうして一度に沢山消える場合もあったんじゃないかな」
「外で急に消える場合もあると、聞きました」
ツノは顎髭を掻いた。
「うん、そうだね。……ハハ、僕も経験したよ。それ以来どうにも明るい〝外〟が怖くなってしまって」
自嘲している様子だ。先日の風呂屋もついていきたかったよ、と茶化して付け足した。
千代だってオッポが急に隣から消失していれば、銭湯に行きたいだなんてきっと思わなかっただろう。となるとベニとヒトミの二人で行っていたのだろうか。……そこまで考えて千代は内心かぶりを振った。仲の悪い二人のことだ、話自体立ち消えになっていただろう。いやその前に情報源たる人がいないのだから、銭湯自体があるという情報も知らないままだったか。
千代は両手を軽く広げる。
「風呂屋は良い処でしたよ。とっても広くて、人……みたいな、あの――」
「ああ、外をたくさん歩いている黒い人影だよね」
ツノも人影が靄の集合体としか見えてはいないようだ。
「そうです。その人達も多く居て。しかも家主のお陰で私達は自由に入り放題のようです」
他にも見聞きした情報を掻い摘んでツノに伝える。
男は何度も頷きながら耳を傾けていた。
「へえ、面白そうだね。〝消える〟前に一度くらいは行きたいもんだ」
やはり必死さが感じられない。ツノは何事にも淡白な性格なのだろうか。
それもあるけれど、と千代は前のめりになった。
「次に誰かが消える前に、皆で元の世界に帰りましょう」
ツノは今までの話と同様に頷いてくれる。今までと同じ、ただの話題の一つという扱い。
もう、この温度差の開きは埋められない気がした。
「何も気にせずにゆっくりと湯に浸かれるのなら、ああどんなに幸せだろうね」
「……そうですね」
今度は千代から視線を伏して外した。
***
ヒトミに聞きながら家の中を探してみたけれど、先人が残した記録くらいしか当てになるものが無い事が分かった。
「――ええっ、姉ちゃん一人でお外に出るのっ」
「はいっ!」
気合が空回りして余計な大声が出てしまう。
千代はやる気十分な状態で玄関口の前に立っていた。
「俺も一緒に行くよう? 本当に大丈夫なの?」
ヒトミが自身を指さして千代に尋ねる。千代が〝外〟に恐怖心を抱いているのを知ってか、本当に心配そうだ。
「だ、大丈夫です。ちょっと行ってすぐに戻ってきますから……、ええ、はい、此処に居る限りお散歩ぐらい出来ないと……ね?」
千代は自分で何度も頷く。
そう、すぐに戻ってくればいい。オッポだって一人ふらりと散歩して何事も無くふらりと帰ってきている。要は慣れだ。彼に出来て千代にも出来ないなんて事は無いだろう……多分。恐らく。いや絶対に。
ヒトミは真っ直ぐに千代を見上げている。
千代が一人で行きたいと思ったのには理由がある。
度々感じた視線や声の主を特定すると共に、もしも万が一があった時の為に皆を巻き込みたくなかった。
何より一番の理由は、千代が呼ばれている気がしていたからだ。
「そ、それでは、行ってきます」
大丈夫だ、オッポに聞いた通りに念じれば此処に帰ってこれる……筈だ。オッポが千代に嘘をつく道理なんてない筈だ。
ヒトミの声と視線を背に受けながら、千代は初めて一人で〝外〟へと歩み出した。
***
――そして今、後悔し出している。
周囲を歩く人影達はまるで千代を嘲笑っているようだ。千代は緊張でぎこちなく歩きながら、そんな弱気に考えた。
千代から出向いたというのに、どうしてあの視線も声も感じられないのか。肝心な時に居ないのか。まさか運悪く寝ていたりなんてしたら。
もっと強く念じてみれば、その人――人間とは限らないけれど――の元へ辿り着けるのだろうか。
千代は取り敢えずと念じながら歩いてみる。
歩いて、歩いて歩きまくって、――そうして、よろよろと隣の家屋の壁へとしな垂れ掛かった。
(はああっ、疲れたあっ!)
千代の脳内想像があやふやなままだからだろうか。ちっともさっぱり彼の人に近付けている感じがしない。
(足が棒になっちゃった。もう今日は、無理)
もっと手掛かりを集めてから挑戦し直そう。――そう思って顔を上げた先に、子供の姿が見えた。黒い靄の集合体では無い。あの家の住人以外に初めて人間に見える生き物を見た。
白地の着物を着た子供二人は、千代に目配せや手招きしたかと思えば、裏路地へとさっと姿を消してしまう。
「ちょっ、待、待って、くだ、下さいッ!」
よろけながら、その後ろを追い掛けた。
はあ、と息を吐く。額の汗を拭って顔を上げれば、そこには一際大きな木造家屋が建っていた。その高さは優に五階分はあるだろうか。敷地は広大で、囲う石塀の端が見えない。
余りの豪邸っぷりに千代は言葉を失う。
門戸は完全に開かれている。そして無表情の子供二人がそのすぐ内側で待ち構えていた。顔や体格、血色の悪い肌に白髪の散切り頭と、二人は双子のように瓜二つだった。血のように赤い瞳が四つじっと此方を見つめている。
更にその奥には石畳の道が玄関口へと続いている。石堀に囲まれた庭には首や鼻が長かったりと何だか見慣れない生き物の石像が所々に置かれていた。正直なところ千代の美的感覚にはそぐわない。
千代の背筋はぞくりぞくりと冷たいものがはしり、例えようも無い何か悪いモノを感じ取っている。
――此処に入るために、歩いて来たんじゃないか。
そう考えると何故だかすとんと綺麗に枠に嵌るように納得がいった。胸元を握り締めて慎重に歩き出す。
双子が無言で歩くその後ろをついていく。襖に挟まれた廊下を真っ直ぐと時々曲がりながら、延々と歩く。まるで外の道のように千代には今の位置が分からなくなっていた。
すれ違って歩く者は皆見慣れていた〝人間〟の姿をしていた。まるで元の世界に帰って来たような妙な安心と、相変わらず訳の分からない空間への不安が、絡み合って千代の胸に広がっている。
突き当たった華美な金装飾の襖の前で、双子はそれぞれ廊下の端で向かい合って正座した。
「おいでなんし」
遊女めいた言葉にはまだ早い、鈴のような愛らしい少女の声が聞こえた。
***
かわいらしい。襖が開いて一番にそう思った。
ヒトミと同じくらいかそれよりも幼く見える。年の頃は七つ八つくらいだろうか。
黒地に華やかな花模様の着物から華奢な肩を出して、帯を前で結んでいる。着物の裾は畳の上でまあるく広がっている。兵庫髷に結わえられた黒髪は櫛や簪で豪奢に飾られている。こめかみの大きな牡丹の黒花弁が額に掛かっていた。
「すまんのう、うちの子達はどうにも道案内が雑でのう」
広い宴会場のような和室の中。脇息に凭れ掛かりながら、女の子は閉じた扇子を赤い紅で塗られた口元に添える。
「何じゃその間抜けな顔は。うちの美貌は其方のようなおなごまで虜にしてしもうたかの」
優美に笑んで見せる。しかしすぐに「はて。わあち? いや、わちきじゃったかの?」と一人称の使い方を悩んで呟いている。
子供が大人に憧れているような、無理に背伸びをしている感じは見受けられない。
「ううむ、花魁ごっこも中々難しいわい」
少女はゴホンと咳払いして、扇子の先を使い千代を傍へと招き寄せる。千代は素直にそれを聞いた。一畳分空けたところに座れば、更に呼ばれて、結局すれすれまで近付いた。互いに手を伸ばせば触れられる。親しき仲だとしても近過ぎる距離だが、この少女は満足そうに頷いている。
「ほれ、早う、客人に茶を」
少女の呼びかけで双子が二人分の茶と茶請けの生菓子を置いていった。
ご丁寧に食べやすい一口分の大きさだ。少女が口に放り込んだのを見て、千代も頂く。
(美味しい)
砂糖の甘さが絶妙だ。舌の上でほろりと崩れていく。
この世界の食事は何から何まで一々美味しく出来ている。そういえばあの家の住人の誰もが、この世界の食事情に文句を言っているところを見た事が無い。……料理下手な人達の手に掛かればそれ相応のモノになってしまうみたいだが。
(なんてずるい世界)
少なくとも千代の胃袋はもう掴まれ始めている。
少女から話を切り出した。
「あそこの風呂屋は良かったじゃろ」
「あ、はい」
「番頭の奴とは飲み仲間じゃからの、多少の融通は利くのじゃ」
この人がまさか〝家主〟なのだろうか。千代は礼を言いながら軽く頭を下げる。
「――にしても。やあっと来てくれたねえ。千代や」
「貴女は……」
扇子の先端で千代の頬を輪郭に沿ってなぞられる。
「うちに会いたいと、思うてくれておったじゃろ」
考える暇も無かった。風呂屋の件といい、それに家族以外で千代が会いたいと思ったのは一人だけだ。
「まさか本当に、あの家の」
少女は広げた扇子で口を隠し「ほほ」と笑う。
「すぐに手紙を返したのに、其方は全然気付かなんだものじゃから」
手紙が返ってきた時、ツノ宛てのものしか入ってなかった筈だ。その内の数行に、千代と家族とが今は会えないという旨が簡潔に書かれていただけだった。
「さては、ふふ、手癖の悪い小僧の仕業じゃのう」
千代よりも誰よりも先に届いた手紙に触れたのは、――ヒトミだ。千代に見えないように彼自身の体で隠して盗むのは、あの時十分に可能だった。今思えば疑わしい妙な沈黙もあった。
「そんな……」
同じ奇妙な境遇に巻き込まれた者同士、彼を疑いたくなどないのに。疑念材料ばかりが揃ってしまう。
「あ、貴女が入れ忘れた、とか」
「小僧を甘やかすと己が危うくなるだけじゃぞ」
千代の無礼にも、少女は激高するでもなく平然と答えている。
「死者が生者に恋い焦がれるのも当然よなあ」
家主少女はすんすんと鼻を鳴らす。
「ああ、久方ぶりの命の甘い匂いよのう」
千代を見上げる目がすうっと細くなって舌なめずりしている。その怪しさに、千代は思わず慄いて体を固くした。
「せ、生者だとか死者だとか……、意味が分かりません」
少女の目が更に細くなり、頤を上げている。
これまでの経験とこの家主が言った言葉とを繋げれば何となくでも察しは付く。少女の眼も「本当は分かっている癖に」と嘲り笑っている――そんな風に見える。けれど。
あの家の住人が皆すでに死んでいる亡霊なのだとしたら。
本来の体が失われていて、この世界から脱出など出来ないのではないか。だから彼らは薄々そんな何かを感じて脱出に興味を持っていないのか。
固まる千代の肩に、慰めのように閉じた扇子が二度置かれた。
家主の少女が手の平の上で扇子を開いて閉じる。
「自己紹介が遅れたの。うちの名は〝牡丹〟じゃ。牡丹ちゃん♡ と可愛く呼んでおくれ」
ほれと促されて、渋々とその通りに呼び掛ける。少女牡丹ちゃんは今までで一番くしゃりと破顔した。年寄り臭い難しい話し方をしているけれど、見た目年齢相応の幼い笑顔も見せる。
「彼の世と此の世の狭間で、彷徨う亡霊を眺めているだけの道楽モンじゃ」
さらりと告げられた言葉は、すぐに理解するには難しいものだった。
千代は用意された茶に手を付けた。ごくりと喉を鳴らして一気に飲み干す。
「……千代や?」
陶器を畳の上に叩き付けるように置く。
腿の上で両手を重ねて固く握った。
「もう何が何だか……。意味が分かりません。お願いです、どうか、どうか故郷に帰らせて下さい」
少女がどういう正体だとかこの世界の仕組みがどうなっているだとか、どうでも良かった。
千代の望みはただ一つだ。
牡丹は肘をついて凭れたまま、どこか冷めた風に笑った。
「不満か? 道楽なりにもきちんと世話してやっているじゃろう?」
少女は立場を明確にした。千代達の事を世話してやっているのだと、同等以下の存在として扱っている。
「私は、いえみんなは、貴女の家畜じゃないっ!」
激情のまま立ち上がった。
「早く帰る方法を教えて下さい! 知っているんでしょう!」
千代の必死の懇願にも、牡丹は脇息に更に体重を預けただけだった。その頬が潰れて歪む。嗤っているようにも見えた。
「其方は何かの間違いで此処に紛れ込んだだけ。いつでも帰れるよ」
千代は目を真ん丸にしたままで動きを止める。牡丹の言葉を脳内で反復して、更に口も丸くした。
「方法ももう知っておる、みたいじゃな」
「な、うそ、ええっ……!」
勿論自覚は無い。でなければ質問するはずが無い。
目に見えて戸惑う千代は、「ほほ」と笑われた。
「すでに知っておるものをまた教えてものう。つまらんじゃろう?」
「そういう呑気な事を言っている場合じゃ……っ」
牡丹は双子を呼び、空の湯飲み二つに茶を注がせた。扇子の先を上下に振る。まだ座れと言うらしい。
千代は逡巡したが、結局座り直した。元の位置より少しだけ後ろに下がって。