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五日目

 早朝に目が覚めて裏庭で顔を洗う。居間に人影が見えて近付いてみれば、ツノが立っていた。居間にある衣装箪笥から、女性物の着物を出して並べている。

 互いの目が合った。

 何だか見てはいけない物を見てしまった気がして、千代はつい柱の陰に隠れる。

「……まさか、そういうご趣味が?」

「そう、実はね」

 うっふん、と体を捩じらせて手の甲を頬に当ててみせる。

 ――あ、嘘だ。ぎこちない。

 千代は直感的にそう思った。柱から出て畳の上に並んだ色とりどりの着物を眺める。それだけでも、呉服屋に行ったような楽しい気分になれる。

「ううむ、動揺する千代さんが見たかったなあ」

 眉尻を下げ少し残念そうな笑みでツノはぼやいた。千代は思わず笑ってしまいながら、着物を差して尋ねる。

「ベニさんの替えですよね?」

「そうだよ、昨日に約束したから」

 確かにベニが着ていた真っ赤な衣装は華やかで美しいけれど、この家で生活するには何かと不便だろう。食事後にツノから提案して彼女も同意したらしい。

 華やかな顔立ちの彼女を意識してか、どちらかと言えば派手な刺繍や染模様が施された物が四着と、一般的な柄物が二種と並んでいる。箪笥の引き出しには帯が数種掛けて並べられていた。

「この家はこんな物まで揃えているんですね」

「そうだね。肝心なところは何も教えてくれないのにね」

 ツノは皮肉気にふうと息を吐いた。


 記憶に、元の体に、元の世界への帰り道に。

 それら切望するもの以外なら何でも持ってきてくれる。本当に便利な世界だ。まるで――住人が不満を溜め込まないように配慮されているかのよう。

(そう考えてしまうと、とおっても胸糞わるいけど!)

 ついつい顔を顰めてしまう。


 千代がそう鬱屈な気持ちになったとも知らず、ツノは何かを閃いた様子を見せる。

「そうだ、千代さんもこの機会に変えてみるかい」

 千代は自分の着物を見下ろした。

 確かにあちこちほつれている。旅の途中に何度も直してきて慣れていたけれど、こうして新しく綺麗な着物を前にすると、改めて汚れが目に入った。昨日ベニが掴んだ胸元も爪先が引っ掛かったのか小さな穴が開いている。

 しかし。

「私は……」

「遠慮なんかする必要は無いんだよ」

 そういう意味じゃ、と千代は首を横に振る。

「この着物は父が用意してくれた物らしいので……出来る限り身に着けておきたいのです」

 母親の古着を使い、手先の器用な父親が千代の為に作り直して用意してくれていたのだと聞いている。漸く着れる背丈になった頃に、その父親が行方も生死も不明となってしまった。呼ばれれば患者の為に何処へでも飛んでいく、責任感の強い腕の良い医者だったと聞いている。殆ど家を空けていて、あまり明確に姿を覚えていないけれど。

 ふとツノの方を見上げれば、穏やかに破顔していた。

「ツノさん?」

「何故だろう……、温かな気持ちなんだ。僕にも子か孫がいたのかな。きっとこんな風に大切にしてもらえたら嬉しいだろうなあって思ったんだ」

 自身の胸元を撫でる。その目がぎゅっと強く閉じられる。


 沈黙が訪れる。ツノは今家族を思い出そうとしているのだろうか。遠くの方で、朝らしく鶏に似た鳴き声が聞こえる。


 少ししてから、再び瞼の開いた黒い瞳が千代を捉えた。

「そろそろ荷物を取ってくるよ。ベニさんが来たら聞いておいておくれ」

「……はい」

 ツノはさっと早足で部屋を出て行った。


 ***


「千ー代、これもどうかしら?」

 寝間着の上に着物を当てて尋ねるベニに、千代は首を傾げる。

「とってもお似合いです。困りました、ベニさんは何でも似合ってしまって」

 華美な物も質素な物も、まるで美人のベニの為に誂えたかのようにしっくりときてしまう。選べと言われても時間がかかりそうだった。

 ベニは得意満面と、にんまり笑んだ。

「ふふ、上手なこと。女中には勿体な……――あっ」

「ベニさん、またっ!」

 畳に正座していた千代は、じとりとベニを睨め付ける。着物選びを手伝っているのであって、決して仕えているのではない。昨日から今朝も何度も訂正しているのに。

 試していた着物を抱えたまま、力なくベニは座り込む。

「ごめんなさい千代ぉ、わざとじゃないのよお! 口がついっ、ああもうどうして……」

 鷲のような尖った爪で唇を塞ぐように押さえる。

 きっと此処に来る前の彼女には、気心の知れた女中や手伝いの者がいつも身の回りにいたのだろう。記憶が無くても癖だけが残っているのだろうと予想は出来る。

「昨日も貴女達に失礼な事ばっかり言っちゃって」

 千代は苦笑する。

「口癖が直る前に、お互い早く元の世界に戻れると良いですよね」

「そうねえ……」


 ベニは「あっ」と何かに気付く。

「貴方達みんな東京の住まいじゃあ無さそうよね?」

「とう……きょう?」

 文脈からして地名なのだろうけど、〝トウキョウ〟だなんて聞いた事も無い。京と聞き間違えたのだろうか。こてんと首を傾げる千代に、ベニは目を丸くする。

「嘘お、ええっ、明治に改元して東京が首都になって、暫く経つでしょう!」

「メイジ……? 改元、ですか? 公方様が江戸のお城から移られたんです?」

 二人は顔を見合わせる。

 言葉が通じるのだから同じ日ノ本の人間の筈なのに、話が噛み合わない。話し方の癖もどことなく変わっている。オッポの粋な格好を古いと言っていたのも腑に落ちない。

(やっぱり異国の人?)

 襖の向こうからヒトミとオッポが何やら楽しそうに騒いでいる。千代は意識を戻された。朝からずっと長時間占拠している。早く済ませてしまわなければ。

「と、とにかく、着物を選んでしまいましょう!」

 そうね、とベニも苦く頷いた。


 ***


 ベニが格子の黄八丈に着替え終わった。「こういう娘さんの絵を見た事があるわ」と何度も裾を翻してすっかりお気に入りだ。頭は団子にしたまま、玉の簪を数本差して彩った。

 無邪気に喜ぶ姿につられて千代も嬉しくなる。もしもまた着物を変える時が来たのなら、またベニとこうして楽しんで選びたいものだ。

 散らかしていた全てを片してから、襖を開け放つ。


「わあいっ、俺の勝ちい!」

 食事場の囲炉裏の傍でうつ伏せになったオッポと、その上に鱗尾を掴んで跨るヒトミが一斉に此方を向いた。鬼ごっこから延長して相撲の真似事でもしていたのだろうか。

 オッポの眉間には深い皺が寄っている。ぐっと印象の変わった彼女を一瞥して、早速減らず口を叩いた。

「服を選ぶだけでえらく喧しかったぞ」

「アンタにだけは言われたくないわ」

 ベニも負けずに言い返している。

「なにィ」

 オッポとベニはまた二人でいがみ合っている。これが所謂、喧嘩するほど何とやら、だろうか。こっそりと笑ってしまう千代の腰元に、ヒトミが喜々と抱き着いた。

「姉ちゃん、あーそぼっ」

 居間には、囲碁将棋に鞠や折り紙やコマと豊富な遊び道具がしまわれている。というのを先日ヒトミに教えてもらっていた。ヒトミはこの中で一番長く居るだけあって、細かなところも熟知している。

「何で遊びましょうか」

「かるた! えっと最初は、坊主めくり!」

 ヒトミはぴょんぴょんと飛び跳ねる。

「分かりました、運勝負だって負けませんから」

「えへへっ」

 千代は負けず嫌いなところがある。弟達と遊ぶ時だって、ついつい本気になってしまう事が良くあったぐらいだ。ヒトミに引っ張られて居間へと戻る。


 ……と、後ろからベニが付いてきた。

「この男と二人なんてヤあよ、アタシも混ぜて」

 後ろ手にオッポを差しながら、千代の隣に軽い歩みで近寄る。オッポもオッポでふてくされながら言い返しているのだからキリが無い。

「もう、二人とも仲良くして下さいよ」

 苦笑しながら千代がそう返すと、――ベニがどんと後ろの板間に転んだ。

「キャアッ! もうっ何よ!」

 ベニがドジを踏んで転んだのでは無い。ヒトミに両手で押されたのだ。

「……」

 単眼が冷たく細められて、じいっと転んだ彼女を見下ろしている。

「おいヒトミっ!」

「ヒトミさん、何をして……!」

 驚いて起き上がったオッポと傍の千代とに名前を呼ばれて、ヒトミは途端にわあわあと泣き出した。千代の正面からしがみ付く。

「ちょっとお、泣きたいのはコッチ!」

 ベニは大きな音を立てて打った臀部を手で擦っている。


 土間の北側にある裏口から不思議そうにツノが入って来た。裏庭で行水していたばかりだったのだろう、濡れた手拭いと桶を手に持っている。

「一体何があったんだい?」

 ツノと目が合ったオッポはかぶりを振っている。次いで千代と目が合って、同じく振った。ヒトミは声を上げる事こそ止めたが、まだ着物に顔を埋めてしゃくり泣いていた。


 ***


 千代は離れようとしないヒトミを客間へと連れていく事にした。

 襖を開けて珍妙な庭を眺めながら、膝の上にヒトミの頭を乗せる。親指を銜えて丸まった小さな体にポンポンと手を当てて宥めた。

 ヒトミさん、と名を呼べば、肩を竦めて恐る恐る見上げてくる。怒られると警戒しているようだ。この様子では先程の暴力の理由を尋ねても答えてくれないだろう。

「弟達もこうして寝かしつけていました。子守唄を歌ってあげていた事もあったんですよ」

 まるで期待するようにヒトミの目が千代を見上げる。しかし千代は苦く笑って断る。

「私はすごーく音痴らしいので、すごーく嫌がられてしまって」

「そうなの……?」

「幼馴染にまで揶揄われてしまって、とおーっても悔しい思いをしました」

 思い出しながら微笑めば、ヒトミもふにゃりと頬を緩める。

 どうしてベニにあんな事をしたのか、何が気に食わなかったのか。千代が尋ねる時宜を窺っていると、少年はふわあ、と小さく欠伸した。

「姉ちゃん……」

「……少し眠ったら、一緒にベニさんと仲直りしに行きましょうか」

 少年は少し顔を歪めたけれど、こくりと頷いた。ベニとの関係修復は長い時間を覚悟しなければいけないだろう。

 千代の腹側に向けた顔から、やがて穏やかな寝息が聞こえ始める。

(十ぐらいに見えるのに、やっぱり……幼い感じ)

 少年の頭を起こさない程度に優しく撫でる。


 居間との襖の隙間から、ぬうっと顔だけ出して覗いたのはオッポだった。一言千代に「寝たのか」と尋ねる。微笑して頷いてみせれば、そのまま静かに体を潜り込ませてきた。


「ベニさんは……?」

「あの女がめそめそ泣くようなタマに見えるか。ツノに愚痴を吐いている最中だ」

 酷く鬱陶しそうな顔だ。この様子だと彼女から逃げてきたのかもしれない。そのついでにヒトミの様子を確認しに来たといったところか。


 膝枕で眠る少年を見て、再び千代の顔を見る。

「お前は本当に妙だな」

「またですか」

 むっと機嫌を損ねた千代に、男はヒトミを指さす。

「前に居た女にもここまで懐いてはいなかった。儂も暫くの間はまともに話も出来なかった」

「オッポさんは顔とか怖いから……」

「何だと」

 今度はオッポが不機嫌を顔に表す。声は潜めたままだ。

「お前はヒトミの知り合いなのか」

 予想外の質問に驚いて声が出そうになった。

「もしもそうなら、とっくに気付いています」

 こんな子供は知らない。単眼だという事を差し引いてもこんな子供には会ったことも無い。千代は自信を持ってそう言えた。

 オッポはただ静かに「それもそうか」と頷いた。


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